(C)「ヒミズ」フィルムパートナーズ
性善説が、大嫌いだ。
もっと正確に言うと、性善説そのものが嫌いなのではなく、何でもかんでもすぐに性善説を引っ張り出してきては「小難しいことは考えたくないけど、何かいいこと言ってる」風の人たちが、嫌いだ。
細かいルールがなくても、お互いに迷惑はかけずに生きていけるはず。
根っからの悪人なんていないし、相手が誰でも話せばわかってくれる。
放っておいても、子どもはまっすぐ育つ。
彼らはいつもそんなふうに色々なことから目をそらして、蓋をして、我関せずを貫いてきた。じゃあ、戦争はどうだ、虐待はどうだ、殺人はどうだ。人間が生まれつき「善」の存在だとしたら、世の中からどうしていじめはなくならない? 人間そのものが「善」の存在だとしたら、司法や宗教は果たして必要だっただろうか。
そうやって、多くの人々は誰かが苦しんでいても、悲惨なニュースを目にしても、「自分には関係がないことだ」と、必要な施策や支援を考えるのを放棄してきた。
「私は “性悪説”を唱えている」
そう言うと、大体は人でなしか生ゴミでも見るような眼差しを向けられるのだけれど、多分多くの人が考えている性悪説は、本来のものとは少し違う。ほとんどの人は「性悪説」と聞くと、「人間はもともと悪の存在である」といった意味を連想すると思う。
しかし、「性悪説」を主張した中国の思想家・荀子が言いたかったのは、そういうことではない。荀子は、「人の性は悪なり、その善なるものは偽(ぎ)なり」と言った。ここでいうところの「悪」は「さまざまな意味で弱い、欲望的存在」、「偽」は「人の為(な)す行い」のことだ。
つまり「性悪説」は、「人間の本性は欲に負けやすい存在であるが、後天的努力によって『善』を知り、礼儀を身につけることができる」とする主張であることがわかる。それを踏まえれば、自分の考えが「性悪説」に近いと感じる人もきっと少なくないんじゃないだろうか。
人を憎むことは、許されざる行為か
好きな言葉がある。
「世の中には、本当に死んだほうがいい人間がいる」
園子温監督の映画『ヒミズ』の主人公・住田(すみだ)の言葉だ。「根っからの悪人なんていない」の、ほぼ対義語と言っても過言ではない。染谷将太演じる住田のこの言葉を聞いたとき、なんだか、そう思っていた自分の存在を許されたような気がした。「誰に?」と聞かれれば「わからない」と答えるしかないのだけれど、そのときはほんの少しだけそう思った。
住田は「平凡に生きること」を夢見る中学3年生。父は借金を作って逃げ、母は住田を一人残して男と出て行った。残されたのはボロい倉庫みたいな住居と、母親が営んでいた貸しボート屋。父親を追う借金取りのヤクザに暴行され、600万円の返済を強要され、学校にも行けなくなった住田は、生きるために貸しボート屋で日銭を稼ぐようになる。
園子温監督の映画はほとんどが好きではないのだが、『ヒミズ』は彼の十八番である「エロ」「グロ」は出てこなかったし、めずらしく心理描写がしっかりされていたので抵抗なく観ることができた。なんでいつもやってなかったんだろう。
いや、古谷実氏の原作漫画が良いのはもちろんある。『ヒミズ』を知ったのは映画がきっかけだったが、そのあと急いで読んだ原作もまた素晴らしかった。実は、映画と原作ではストーリーが大きく違っている。これも「園子温らしい」といえば、そうなのだろう。ちなみに「世の中には、本当に死んだほうがいい人間がいる」という言葉は、原作と映画の両方に出てくる。
映画化に際し、あえてストーリーや登場人物の特徴を大きく描きかえることで、原作とはまた違う良さを引き出したのは、間違いなく園子温監督の手腕だと認めざるを得ない。そして、観るものの心を大きく揺さぶることに成功したのは、主演の染谷将太、二階堂ふみをはじめとする俳優たちの表現力があってのものだったと思う。
特に染谷将太はこの映画で、誰がどうみても「住田」そのものだった。この世を恨んでいて、それでもまだ生きることへの未練を捨てきれない住田が、たしかにそこに存在した。
住田の今後を案じ、罪を償い心を入れ替えるよう詰め寄る茶沢に対して、住田が「まるでオレの人生の目標は長生きみたいだ」と突っぱねるシーンがある。泣き出しそうな声の中に、怒りや絶望、人生に何かを期待してしまうことへの恐怖をも滲ませた染谷将太の演技は、間違いなく映画版『ヒミズ』が広く愛されることになった最大の要因だったと思う。
俺は一生誰にも迷惑をかけないと誓う、
だから頼む、誰も俺に迷惑をかけるな
「世の中には、本当に死んだほうがいい人間がいる」
住田にとって、父親は「死んだほうがいい人間」だ。さらに彼の言葉を借りるなら、「死んだら笑える人ナンバーワン」で「生きてると人に迷惑ばかりかけるどうしようもないクズ」だ。
父親の死を願うときに天秤にかけるもの、たとえば父親への情とか、執着とか、愛されたかったとか、罪悪感とか、親子関係がどうとか、そんなものは存在しない。存在しないことに理由もない。たまたま「クズ」と血が繋がっていただけ。「死んだほうがいい」と思った人間が、たまたま父親だっただけ。それだけだ。
住田はいたって冷静に、客観的に「父親は死んだほうがいい」と考えていた。「私怨」というよりも、いわゆる「絶対悪」。世のため人のためにも、死ぬべきだと思ったのだ。
そして、住田は父親を殺すことになる。それから、死んでもいい「悪い奴」を殺して自分も死のうと、包丁片手に毎日町を徘徊する。
「世の中には、本当に死んだほうがいい人間がいる」
かくいう私も、住田と同じことを思ったことがある。
金のためなら人を利用して、脅して、殴って、欺くことも厭わない、どうしようもない「クズ」についてだ。私がこの「クズ」に費やした時間は長い。10年以上かけて向き合って、あらゆる手段をもって対話を試みても、ただ黙って暴力を受け入れても、彼が変わることはなかった。
「クズ」との縁は、切ろうとして切れるものではない。私が生きているかぎりはどこへ逃げようとも現れるだろうし、私が死んでも、私に子どもがいれば標的が変わるだけなのだ。生きていても、人に迷惑をかけるだけだ。そんな人間は実在する。
もちろん、誰も助けてくれる人はいない。たまたま「クズ」と血が繋がっているというだけで、まともに取り合ってくれる人や制度はこの国に存在しない。
「話せばわかってくれるよ」「根っからの悪い人じゃないんだし」「家族でしょう? 本当はあなたを大事に思ってるはずだよ」なんて、嫌になるほど浴びせられた「人間の善性」に期待する言葉たちは、人生の何の足しにもならない。
「世の中には、本当に死んだほうがいい人間がいる」
本当に、自分はそう思ったことが一度もないと心に誓って言えるか。
たとえば無差別殺人事件のニュースを見たとき、反省もせず、裁判所で遺族に罵声を浴びせるような人間に、絶望したことはないか。「話せばわかる」と、それでも言えるか。
人の死を願うことは、果たして「悪」だろうか。もしそうだとすれば、「勧善懲悪」の物語で排除される「悪」は、なんなのだろう。「悪」を死なせる以外の方法で懲らしめるならば、生きている「悪」とはその後、どのようにして付き合っていくべきだろう。果たして 、そこまで考えてこその、『人の死を願うことが「悪」だ』とする主張なのだろうか。
理不尽な暴力を受けていた日々の中、10年かけて考えても、「善性」を手に入れられなかった人間と共存する術は、私にはわからなかった。ただ「死んでほしい」と願うことしかできなかった。
住田のような人間に「クズ」が見つかってほしいと、思っていた。
「鬼」とは、何なのか
「死んだほうがいい人間」を生み出さない予防的アプローチは、平和な社会を作る上でもっとも必要なことだと思っている。一度悪の芽を出してしまった人間を、再び「善」の存在にすることは不可能ではないだろうが、容易ではない。だからこそ、初めから「悪」を生み出さないためには何が必要か、を考えなくてはならない。
人間を「悪」の存在にしない現実的かつ、最大の予防は「教育」だ。道徳的教育以外にも、勉学を受けなければ、資本主義社会の競争下では、簡単に淘汰されてしまう。そうなれば、生きるために悪事を働くようになるかもしれない。たとえ人道に反していようとも、過酷な労働環境であくせく働くよりも、楽に金銭が得られることに気が付くからだ。
水は低きに流れ、人は易きに流れる。まともに教育を受けることもできず放っておかれた人間がみんな、まっすぐに育つとは言えない。
そして悲しいことに、今の日本においては、一度ケチが付いた人間には、ケチが付いた人間なりの生き方しか用意されていないのだ。「性善説」ですべてを片付けようとする人たちは、善性を手に入れられなかった彼らを「自分と同じ人間だ」と認めたがらないからだ。
話してもわからない、善性を感じられない悪人は、「人間ではない例外的な何か」であり、自分たちが感知するところではないと、本気で思っているのだ。だからこそ、悲惨なニュースを見て「犯人は人間じゃない」「鬼だ」なんて、平気で言ってのけたりする。
無責任に「性善説」をまつりあげることは、さまざまな問題を見えなくする。
人間は善か、悪か
(C)「ヒミズ」フィルムパートナーズ
「がんばれ、住田!」「死ぬな、夢を持て!」「住田がんばれ、住田!」
映画は、警察に自首するために走り出した住田と、茶沢がうしろについて走るシーンで終わる。
「死ぬな、夢を持て!」
これまでの住田なら、きっとこの言葉は重荷にしかならなかったし、嫌悪感すら覚えただろう。それでも住田は罪を償い、生きることを選んだ。もう一度希望を持ち、自分を奮い立たせるように「がんばれ、住田! 住田がんばれ、がんばれ!」と叫びながら走った。
理由はなんであれ、住田が人を殺したことは褒められたことではない。しかし、父を殺さなければ、住田が救われることもなかったと思う。「生きてると人に迷惑ばかりかけるどうしようもないクズ」は存在する。彼らは話してもわからない。まわりに見放されて孤立しても、家族からは死ぬまで金を吸い取れると思っている。そんな人間は、意外とどこにでもいる。
悪人は例外じゃない。バケモノでもない。自分ですらそうなる可能性があることを、受け入れなければならない。人間をむやみに美化するな。目をそらすな。
むきだしの性欲は「善」か? 煩悩は「善」か? 本能のおもむくままに動物を殺し、食い、惰眠を貪ることは「善」だとされているか? 本能を制御する能力を身につけられなければ、これらは「悪」とされるのではないか?
人間の本性は、本当に「善」か?
文・吉川ばんび
編集・川合裕之(フラスコ飯店 店主)