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防護服 / 社会の接点 / 自己内省|『シティガール未満』評(絶対に終電を逃さない女著)

衣服は他者と自己を物理的に隔てる布。つまりファッションは社会からの防護壁であると同時に、社会と接して繋がるための乗り物です。

接点であるがゆえに、ときには軽々しく着こなせないような戦闘服が必要なのかもしれません。

“絶対に終電を逃さない女” はエッセイ中で東京の各地へ足を運びます。一見するとひとり完結しているエピソードもありますが、他者との関わりや観察を経て自身を見つめ直します。

(僕はかねてから “絶対に終電を逃さない女” のファンですが、仮に前情報が皆無だったとしても)本書をひらけば、嘘みたいなペンネームの彼女が架空の存在ではなく実在する個人であることがわかるでしょう。

触れる東京:一人称視点で

絶対に終電を逃さない女が接点を持つのは、東京と各都市、及びそこに暮らす人々。

新宿の相席居酒屋に映画や音楽の話が通じる人はそうそう来ないだろうという偏見の答え合わせをする一方、中野には家庭的なオムライスを提供する喫茶店があり、日用品は日暮里で。「東京」といってもさまざまな顔があります。

主役は東京、ではなく

しかし主役はあくまで筆者である “絶対に終電を逃さない女” です。東京という街そのものではありません。

このエッセイには池袋ロサ会館のぎこちないパパ活カップルや高円寺の純情商店街の彼など東京の土地に紐づいた雑踏の面々が現れては過ぎ去ってゆきます。

数年から数十年の時間が経過すれば本書は社会学的な資料価値を持つようになるでしょうが、それはあくまでも後付けの評価・副産物です。

中心地は “絶対に終電を逃さない女” であり、それは彼女がどこに移動しようとも変わることはありません。これは「はじめに」でも明記されていることですが、彼女が記録・保存する対象は彼女自身の日常です。シティ “ガール” (著者本人はそれ未満だと称するが)のエッセイ集なのですから、当然といえば当然ですね。

(前略)これはそんな私の個人的な記録だが、きっと見知らぬあなたの記憶とも、どこかで交差するだろう。

絶対に終電を逃さない女『シティガール未満』-はじめに- 括弧内は筆者による。

東京はおしゃれじゃない

「おしゃれ」は東京発かもしれませんが、東京の全てがおしゃれだとは限らないようです。「文化」についても同様で、東京は文化の中心かもしれませんが、東京の中心に文化がぎっしりつまっているとは言い難い。

これは僕の偏見ですが、おそらくその中心には産業とか資本主義とか、そういうつまらない言葉があぐらをかいているのでしょう。知りませんが。仮に「おしゃれ」をファッションのみに限定した場合、なぜ地方に比べて東京の人はおしゃれなのか。答えは前提として経済的に豊かな都市だからにほかなりません。その結果として消費文化が発達した結果です。

繰り返しますが、東京の全てがおしゃれなわけではない。全員がサブカルチャーに造詣があり、東京都民全員が銀杏BOYZを聴いているわけではないのです。

地方都市の公営団地に生まれ育ち、バスが一日二本しか無い田舎で思春期を過ごした。(中略)早くこんなところを抜け出して、誰も知らない場所に行きたい。魔法みたいに東京がすべてを解決してくれる。そんな幻想を抱いて上京した十八歳。

絶対に終電を逃さない女『シティガール未満』 -はじめに

ファッションが自己を規定するということ

あまり強い言葉を遣うと弱く見えてしまいそうですが、単に生活の拠点を東京23区内に置くだけでは際立った個性を確立できません。2023年時点での人口が1400万人であることを考えれば当然でしょう。

“東京” よりも緻密な “何か” が必要です。

さて、彼女の東京での体験は、往々にして衣服または衣服への関心を通して綴られます。このエッセイ本の初出の連載がファッション誌「GINZA」のweb版であることは本書を評する上で注目すべき重要な事実です。

ファッションによって、消費者は別の自分になり、あるサブカルチャーに所属し、他のスタイルから身を守ることができるのだ。

ジョアン・フィンケルシュタイン『ファッションの文化社会学

ファッションは確立した自己像に相応しい衣服を身に纏うこと、または理想の自己像を実現するための消費行動です。銀座という固有名詞を名に冠する雑誌に連載された「シティガール未満」は、単に東京にまつわるエッセイが連載されるだけでなく、ファッションを通じて自己像を明確にするという近代以降のファッションの原点が体現されている。

衣服で区別する他者へのまなざし

だからこそでしょうか。このエッセイでの “絶対に終電を逃さない女” は他者へのまなざしにも余念がありません。

「オレンジ色に染めたくるくるのショートヘアが印象的な、40代後半くらいの女性」

絶対に終電を逃さない女『シティガール未満』以下同

「中野駅前のドンキで聞こえてきた金髪ギャル二人組の」

「中肉中背の体型に、ジャストサイズのボーダーTシャツと黒のスキニーパンツ、足元はスニーカーという、平凡かつ見るからに着古した安価なアイテムで頭から爪先まで揃えられている。見た目だけで判断するのは憚られるがやはり髪型や佇まいも含めて少なくとも街行く人が着ている服の詳細をわざわざ尋ねるほどファッションに興味がありそうには思えなかった」

「フリッパーズ・ギターなどの渋谷系を彷彿とさせる、ダッフルコートにベレー帽をかぶった青年」

また、類似の属性を持つ相手に対しては、こうした記述が少ないことにも注目したい。

「KOさんの鮮やかなピンク色のセーターが映り込むようにシャッターを押した」

セーターの色にこそ言及しているものの、ナンパしてきた “中肉中背” に比べればえらくシンプルな記載です。

また、大学時代のサークルの後輩と奥渋を散策するも、ハイセンスな雰囲気にのぼせてサイゼリアに駆け込んで安心するエピソードにおいては、後輩が何を着ているかは一切記述されていません。

異物ではない気の知れた相手は、おそらく観察して差異を分析する必要がないのです。

自己像が変わる瞬間に

このエッセイでは、東京で暮らす「シティガール未満」の心の内側で繰り広げられる大小さまざまな葛藤や喜びが描かれています。鶴巻町フェスティバルのフリーマーケット、自身のヘアスタイルの変遷、TOGAの靴への憧れ。ファッションにまつわるさまざまなエピソードを通じて、自己像の一部が以前よりも鮮明になり、「自分はこうなんだ」「こういう自分でいよう」という内省に繋がります。

 ……と、このように外野の僕が書けば、僕が彼女の消費行動を皮肉しているようにも見えるかもしれませんが、断じてそれは違います。内省を繰り返し、アップデートを重ね、理想の自分を保つことは容易ではありません。それを言語化し、読者に真っ直ぐ伝えることも。

少なくとも自己開示を避けるずるい書き手である僕にこの真摯さを真似することはできません。本当です。

最も特筆すべき点は、高度に言語化された自己像に変化があるからこそ、このエッセイは面白みを帯びているということ。単なる「好き」や「嫌い」という意思表示だけでは、読み物として成立させることは難しい。エッセイという形式を通じて、時間軸を圧縮し、現在と過去を行き来できるからこそ魅力がある。

持続する穏やかな喜び

展開する各エピソードの多くは “ハッピーエンド” です。いえ、おそらくすべての章がゆるやかな希望に満ちている。

「祝われたら喜ばなければいけないというプレッシャーで緊張してしまい(中略)なるべく誕生日を教えず祝われることを避け続け」るほど内向的な筆者が、街での出来事を通じ、社会とのつながりに意義を見出し、その可能性を広げようとしている。少なくとも僕にはそう感じました。

誰だって嫌な思いなんてしたくありませんが、とはいえどうしても社会との交わりを100%断ち切ることはできません。 “未満な私たち” ならばなおさらの悩みです。

「嫌だよね」と不満を共有するのではなく、アイデンティティだと思ってしがみついていたのはくだらないプライドに過ぎなかったと嘆くのでもない。ここに綴られているのは実は大きな希望です。どうすれば穏やかにいられるかという実演の記録。

もしこのような書き方をすれば本人には嫌がられるのかもしれませんが、先陣を切って旗を立ててくれるその様は、ある意味でシティガールそのもの、あるいはそれ以上のように感じます。

文・かわい(フラスコ飯店店主) / 編集・赤ちゃんの波動拳2049

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『シティーガール未満』(2023)

著:絶対に終電を逃さない女
装画・挿絵:牛久保雅美

【著者プロフィール】
絶対に終電を逃さない女
1995年生まれ。早稲田大学文学部卒業。大学時代よりライターとして活動し、現在はエッセイを中心にWebメディア、雑誌、映画パンフレットなどに寄稿している。本作『シティガール未満』が初の単著となる。

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川合 裕之

95年生のライター/ 編集者。長髪を伸ばさしてもらってます。 フラスコ飯店では店主(編集長)をしています。

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