カテゴリー: レビュー

アニメシリーズ20周年記念作品として2020年2月に公開された『デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆』の舞台は2010年。

かつて  “選ばれし子どもたち” と呼ばれ、デジモンたちとの戦いの日々を送っていた主人公の八神太一たちは大学4回生。

卒業論文、就職活動、アルバイトといった忙しい日常に迫られる平凡な青年となって登場する。

(C)本郷あきよし・東映アニメーション

この作品のテーマは「子どもから大人になる」という普遍的なものであり、デジモンリアルタイム世代のぼくは子ども時代から見た目も性格も変わった太一たちをみて自分に重ねた。

そんな大人になったぼくたちの「子どもから大人になるとはどういうことなのか?」という気持ちの落とし所をこの作品は提示してくれた。

だけど、この作品、一見すると腑に落ちないポイントが存在する。

(C)ORIGIN PICTURES (X&Y PROD) LIMITED/THE BRITISH FILM INSTITUTE / BRITISH BROADCASTING CORPORATION 2014

「望むと望まざるとにかかわらず、大阪大学に入学したみなさんは色んな意味で “社会のエリート” になる人たちですから “エリートでない” 人々のことも責任を持って考えてもらえたら……」

教授はで広い教室をぐるっと見回して、大きくうなずきながら、そう言った。

大学に入学してすぐのオリエンテーション、わたしの期待に膨らんだ胸は、一瞬でしおしおになってしまった。プシューーーー

わたしはとにかくショックだった。「社会のエリート」になるためじゃなく、学問をしにこの大学に入ったのに。どう考えても自分のことだけで精一杯なのに。しかも、わたしが望むと望まざるとに関わらず? わたしの人生なのに? どうしてそんなひどいことが言えるんだろう? そんなの暴力じゃないか。勝手に人の選択に意味を見出して聞こえのいいラベルを貼りやがって、ふざけんなよ。

IMDbより

ある夜、ふとゴッドタンの “腐り芸人セラピー” を観ていると、お笑いコンビAマッソの加納さんが切実な悩みを語っていた。「お笑いをやりたくてこの世界に入ったのにテレビでは女性としての意見しか求められない」。女芸人は男性の芸人とは違って、芸そのものの面白さではなく、イケメン俳優がスタジオに登場した時の「黄色い悲鳴要員」として、または「NGなしの赤裸々な恋愛トーク要員」としての立ち振る舞いだけを求められている。しかし、それは私のやりたいことではない。私は「芸人」なのだ、と。

「マジンガーの格納庫、作っちゃおう!」

小木博明が揚々と発するこのフレーズが記憶に残っているラジオリスナーは多いかもしれない。ここ数ヶ月、盛んに深夜ラジオのコマーシャル枠で宣伝されている(というかラジオ以外で宣伝されていたのを目にしたことがない)『前田建設ファンタジー営業部』。見てきました。

そして、これから「労働ポルノ」の話をします。

(C)2020「ラストレター」製作委員会

人には二面性がある。当然ながら。

大学のベンチで、ジャージを着た陸上部の学生が煙草を吸っていると少しドキっとしたのを今でもよく覚えています。え、いいの? まあ法律を破っているわけではない(多分ね)から別に構わないのですが。

岩井俊二という映画監督も、映画監督のみならず脚本家、小説家、音楽家、という多彩なプロフィールを持つ人物です。肩書きが多すぎる。さながら日本映画界の須藤元気。日本の須藤元気とはまさに岩井俊二のこと。二面性どころか多面性と書く方が正確かもしれない。

映画監督という枠組みの中でも非常にふり幅の多い作家です。緩急の幅がえげつない。フットボールアワー後藤輝基の舌だってもうカラカラ。『スワロウテイル』、『リリイ・シュシュのすべて』、『リップヴァンウィンクルの花嫁』のように、最初は美味しかったのにもう焦げて取り返しのつかなくなった鍋みたいな憂鬱な味のする映画をつくったかと思えば、『花とアリス』みたいな澄んだ爽やかさで観客を圧倒したりもする。高低差ありすぎ。有栖川徹子。さすが、下からのみならず横からも花火を見ることを提案した作家だけあります。

服が多い。何しろ服が多い。クローゼットを突っ張り棒で拡張してもダメ。加速度的に服が増えていく状況の中で、ハライチの岩井は自身と愛猫モネの棲家であるメゾネット(1階と2階があるおしゃれな庭付きの家。1階に居ることもできるし2階に居ることもできる)の壁面にワイヤーを張り、服を吊るすことを思いついた。

キュウソネコカミは高らかに歌ってくれた。

ヤンキーこわい
ヤーンキーこーわいー

「DQNなりたい、40代で死にたい」

ヤンキー=DQNという図式はいかがなものかと思うけど、フェスでみんなで大きな声で、「ヤーンキーこーわいー」と叫び歌うのはさぞ気持ちがスッとするだろう。なぜって、僕はヤンキーじゃないから。ヤンキーにはなり得なかったから。

好きなものを語ることが恐ろしい。好きな映画は? 好きな音楽は? 好きな女性のタイプは? そんな質問に答えようとするたびに喉の奥に冷たくてどろどろしたものが溜まってうまくことばが接げなくなるのだけれど、唯一「好きな作家は?」という質問にだけはすんなり答えることができる。川上弘美がたいそう好きである。平易と思われる文章の中にユーモアと晦渋なメタファーが埋め込まれ、道を歩いていたらいつの間にか異世界に飛ばされたり五百年くらい時が経っていたりするような心地がするから、好きである。

ところが、最近のぼくは川上弘美にまつわる二つの問題に悩まされている。一つは、川上弘美という作家が世間からは誤解されているような気がすること。もう一つは、川上弘美がすっかりマザーコンピューターになってしまったことである。