Te wo Arai mashou.

遠くへ行きたい人を肯定する物語
| 映画 『茄子 アンダルシアの夏』『茄子 スーツケースの渡り鳥』

IMDbより

わたしが故郷を出ると決心したのは小学生の頃だったらしい。「こんな家はもういやだ、はやく出て行きたい(でも今は無理だからもう少しがまんしよう)」と書き殴ってゴミ箱に捨てた日記を親が発見し、数年経ってからそのことを教えてくれた。

高校生になったわたしは迷わず県外の大学を志望し、就職を機にその場所から離れ、退職後さらに違う土地へと移った。思い返せばこの10年間、故郷から離れ続けている。自分で選んだ道を進むことは幸せであり、時に苦しみを伴うと理解するには十分な時間でもあった。わたしの生き方は珍しくない、どこにでもある話だと思っている。なぜなら同じ道を選んだ人を少なくとも一人、知っているから。彼は『茄子』でロードバイクに乗っている。

『茄子 アンダルシアの夏』『茄子 スーツケースの渡り鳥』とは

黒田硫黄氏作、茄子にまつわるオムニバス漫画『茄子』に収録されているエピソード。チーム編成のロードレースをテーマに、主人公ペペとその周りの人々の心情を最低限の言葉とリアルなレース描写で魅了する名作。2003年に『アンダルシアの夏』、2007年に『スーツケースの渡り鳥』が映画化され、『水曜どうでしょう』ファンである高坂希太郎氏が監督を務めた。主人公の声を大泉洋が担当し、『スーツケースの渡り鳥』では藤やんとうれしーも登場する。

“主人公” ペペ

この物語の主人公ペペはプロのロードレースチームで “アシスト” という役割を担当している。ロードレースのチーム戦はただみんなで走るのでなくそれぞれに役割が存在する。その中の一つアシストはエースを一番にゴールに届けるため手を尽くす人だ。ロードレースを何も知らなかった頃のわたしは「すんごい速い人がチームに一人いれば安泰では……?」と思っていた。ところがそうではないらしい。

ロードレースのチーム戦はチームの誰かが一番にゴールすると個人優勝とともにそのチームの優勝になる。レースの道のりは長く、しかもコースには平坦、登り、下り、鋭いコーナーといった様々な種類が存在し、時には強風や雨に襲われ、コンディションの悪い道に足を掬われる。想定外の機材トラブルや体調不良に見舞われることもあるし、疲れ切った身体を動かしつつレースの戦況を見極め臨機応変な決断を常に迫られる。ゴールまでの道のりは決して短くはない。

アシストとしてエースを支えるペペはチームの歯車の一人であって、先頭でゴールラインを割って両手を広げ、観客に拍手で迎えられるような絶対的主人公ではない。これを『アンダルシアの夏』のペペの人生に置き換えてみる。

彼は兵役中に兄に恋人を取られ、レース中に無線でスポンサーの「あいつ(ペペ)のせいで勝てんのじゃないか。あいつをクビにしろ」発言を聞いてしまう。しかも、レースのゴールは故郷の市街地にあり、そこでは兄と元恋人が結婚式を挙げている。メンタルを強く保たないと全力でペダルなんて回せない状況だ。下り坂でチームエースに「おまえ、地元だからって色気出すなよな……今日は俺の日だ」と釘を刺されるが、ペペは「うちに限っていえば今日は俺の日じゃねえ 今日は兄貴の日だ」と強気に返した。

人生のほとんどは「今日は俺の日じゃねえ」と思う。自分は誰かの人生の脇役であって「主人公」は別にいるんじゃないの。そんな考えがむくりと頭をもたげる時、わたしはロードレースを、ペペのことを思う。毎日を「主人公」として生きられるわけじゃない。生涯そうかもしれない。

しかし『スーツケースの渡り鳥』でペペは一人先を走るチームメイトに「今日は俺たちの日だ」と伝言を残す。そうだ。 “その” タイミングはきっと訪れる。作り出すことができる。リアリティのある会話や心情描写、レース展開の作品だからこそ、厳しい状況下でもどうにか前へ進むペペが「俺(たち)の日」が来ると宣言することには大きな意味を持つのではないだろうか。前作とわかりやすく対になるこのセリフ、実は原作には無い。意図的に組み込まれているからこそ、「今日は俺たちの日だ」という一言はさらに眩しく光る。『アンダルシアの夏』も最後はペペ自身の力によって「兄貴の日」から「俺の日」へと変えた。彼は強い。その強さには “ある切実さ” が混じっているからだろう。

「俺は遠くへ行きたいんだ」

IMDbより

レース序盤でエースの前を走るペペ アシストとしてがんばっている ​

『アンダルシアの夏』で最も有名であろうペペのこの台詞。映画のポスターにも同じ意味のキャッチコピーが入っており、彼の全てを簡潔に表した言葉だ。

物理的な距離も含め、ここではないどこかに行こうとする気持ちの揺るがなさがペペにはある。それは挫けそうな精神を支え、ひたすら前に向かっていく原動力としては十分な理由となる。「好き」という気持ちよりも強い力を発揮する場面さえあると思う。

ペペには具体的に行きたい場所はないように見える。ただ遠く、できるだけ遠く、生まれ育った場所から少しでも離れていたい。その切実な気持ち。きっと彼は故郷が嫌いなわけじゃない。どちらかといえば故郷にいた頃の自分が好きじゃないのだと思う。まだ未熟で甘ったれだった自分の亡霊がそこに張りついているような、息のしづらさ。

「遠く」という言い方が距離にも時間にも当てはまるように、この二つの言葉は同じ意味を持つ気がする。気分転換や傷心旅行で人は今いる場所を離れることがあると思うけど、それは過去の嫌な時間と今の自分を切り離す行為なのかもしれない。

といっても時間はすぐには経ってくれない。一秒はみんなに平等に訪れる。だが距離は融通が利く。同じ一日でも家にいるか飛行機に乗るかで自分の現在地を変えることができる。そしてその新しい現在地の景色を見てこう思う、さっきまでの自分から少し離れることができたかも、と。

ペペの選んだロードレーサーという職業は、レースの開催地が毎回変わるし、知らない土地へ行くこともある(『スーツケースの渡り鳥』では日本のレースに参加している)。しかも仕事中も移動し続ける。彼の故郷への反発心と相性がとても良い仕事だ。

だがそのロードバイクに出会った場所は故郷アンダルシアであり、兄がきっかけであり、どんなに離れたってロードバイクを乗っている限りアンダルシアとの繋がりを完全に捨て去ることはできない。そんなことはペペが一番わかっているだろう。生まれ育った場所から離れるための手段が、故郷と切っても切れないロードバイクというのは、故郷からペペに最後に贈られたささやかな皮肉のように感じる。 

勝利も仕事のうち

ロードバイク自体は単純に移動手段だが、心理的な逃避や前進も意味していて、彼はその「移動」を続けるためにレースで「勝利」し続け、どこかのチームに所属する必要があるのだ。なぜなら中高生の部活とは違って彼自身の生活がそっくりそのまま懸かっている。『アンダルシアの夏』でスポンサーからのクビ通告後、将来の不安と一緒に地元のチームには入りたくない気持ちを吐露することからも、何が何でもとりあえず故郷からは距離を置きたい本音が伺える。『スーツケースの渡り鳥』ではペペの所属するチームの解散が決まり、チームメイトが故郷に帰ろうと思うなんて口にする中、ペペはずっと気丈だった。ダメになったら地元に帰ろうなんて考えは毛頭ないのだ。だから何度だって勝たなくてはいけない。

ペペにとっての「勝利」の重要性が端々から伝わってくるが、『茄子』の面白さは、そのペペ自身とペペのチームが普通に勝っちゃうところにあるとわたしは思っている(もちろんその勝利にはペペの努力が不可欠で、当然の結果なのだが)。つまりこの話の焦点はロードレースでの勝敗ではない「何か」に当てられていると読み取れる。

ロードレースの勝敗で物語が大きく変わる作品といえば『弱虫ペダル』ではないだろうか。『弱虫ペダル』は『茄子』の二作とは違って、勝つか負けるかのヒヤヒヤするシーンが長く、勝敗によってキャラクターたちの運命は大きく変化する。高校スポーツ物語におけるスポーツが勝敗や友情を重要視し、それによって人物の成長を描く流れが定番だとすれば、本作はスポーツを職業と捉え、彼らが選んだ生き方をスポーツを通してわたしたちに垣間見せてくれているのかもしれない。

ペペにとって勝利はクビ回避のために絶対条件だったが、もしかしたら彼には勝つしか道は用意されてなかったようにさえ思える。つまり焦点の当たっている「何か」の一つとは、「ペペの仕事をする姿」ではないだろうか。ロードレースの物語だと思いスポーツ観戦的な視点でついつい見てしまうが、これはペペの「仕事」の話でもあるのだ。

この歳になってようやくペペの苦悩を同じ目線で感じられるようになった。そうすると「勝利」に対する見方も変わった。本作における「勝利」は「仕事」を続けるための通過点という意味が強い。余談だがロードレースでは、それぞれのメンバーに課す役割やその内容を「仕事」と言う。「今日のお前の仕事はファーストリザルトを取ることだ」のように。自分の為すべきことを「仕事」と言い換えるロードレースをペペは仕事にしている。

わたしは大学生の頃に『アンダルシアの夏』と出会った。当時はロードレースの知識もなかったし勝つか負けるかの引っ張りが少し物足りなく感じた。ペペの置かれてる崖っぷち感をまだ味わったことがなかった。

今ならよくわかる。ここぞっていう本番は意外と短く、その前後がえらく長い。普段はプライドを高く持っていても、生き残るためならその高さも変えてやる。でも勝利への渇望は失わない。勝利を欲することは自分の生き方を続けるための必須条件だから。ペペ、あなたの姿にわたしは何度も自分を重ねてしまうよ。

故郷とは思い出

IMDbより

このおじさんは故郷大好きおじさん

なぜ、ペペは遠くへ行きたいのか。それはどうしようもないほどの故郷に対する反発心が理由だろう。チームに入ることも所属し続けることも厳しいプロの世界で、彼は毎日踏ん張り抜いている。その強い根性を(見方を変えれば)支えている故郷アンダルシアとは一体何なのか。

あまりに現実味を帯びた描写につい忘れがちになるが、茄子のアサディジョ漬けはアンダルシアの郷土料理ではないし、アンダルシアの歌も映画のために生まれた曲だ。わたしにとってアンダルシアは全く所縁のない土地なのに、なぜだろう、とても懐かしい。酒場や街の匂いを嗅いだことがあるかのような、茄子漬けを嫌になる程食べたことがあるような、無いはずの経験がすでにこの身体にある奇妙な感覚。それは「故郷」が土地だけを意味するのではなく、そこでの「思い出」を集めた姿をしているからだと思う。

『アンダルシアの夏』のレース中にペペの回想シーンがあるのだが、それが秀逸なタイミングで入ってくる。ペペが後続集団から離れ単独逃げ切りを狙って必死にペダルを踏み倒す時だ。

ロードレースには「逃げ」という表現がある。大人数の集団から少人数が飛び出すことで、この飛び出しが成功すると「逃げ切り」と呼び、集団が逃げた少人数を再び吸収することを「潰す」という。逃げるか潰すかはレースの勝敗を左右する重要な駆け引きだ。そんな決死の勝負の中でペペの頭を過ぎる記憶がどんなものなのか、なぜこのタイミングで思い出すのか。

回想シーンで兵役帰りらしきペペは、故郷のカフェテラスで兄と恋人と3人でコーヒーを飲んでいる。兄の灰皿と違ってペペは吸い殻をぎっしり詰め込み、コップの中身は空っぽだ。恐らく兄と彼女が付き合った、もしくは結婚報告の話を聞かされている場面だが、このシーンに言葉はなく、3人の目線と、煙草の煙、それだけ。この苦い思い出はペペの心の痛みに、そして尋常ならざる強さに変わって、プロのロードレースの世界へ飛び込んだのかと想像を膨らませてしまう。

時間軸をレースに戻し、現在進行形で集団から「逃げ」ているペペだが、この集団のもう一つの顔とは「故郷アンダルシアでの過去」ではないだろうか。つまり彼は「レースに勝利するための逃げ切り」と「故郷からの逃げ切り」を同時に行っているのだ。誰にも頼らず、たった一人で。後ろから追ってくる集団に潰されまいとペダルを回す姿は、ペペの心の姿でもある。回想シーンの挿入タイミングとして他にありえないと思ってしまうほど、完璧な構成だと思った。少し情報を付け加えると、この回想シーンはペペの兄の語りの後にやってくる。兄から見た弟ペペについて言葉があって、カフェテラスの追憶(これはペペだけでなく兄の過去でもある)が映し出され、レース終盤のペペに切り替わる。兄、回想シーン、弟、という見事な流れ。そしてわたしたちは「逃げ切り」がただの「逃げ切り」ではないと理解する。レース展開と主人公の精神状況が同期しているのだ。後続に追われる苦しい状況だからこそ可能になった表現といえよう。

過去の痛みに囚われるペペの人間臭さ。普段は気丈な人にそんなことを思い出させてしまう故郷の魔力。故郷に戻りたくないと思うことは罪ではない。そして、故郷を拒む気持ちと故郷を思い出し懐かしむ感情は、同時に成立すると思う。なぜなら故郷とは今の自分を構成する「思い出」に他ならないから。

ペペは故郷を、そして過去を完全に捨てることはできない。それは亡霊のように背後に佇み、悪戯に心を締めつけ、潰しにかかってくる。彼はとても強い人だと思うが、それは弱さを隠すのが上手いのと同義だったりもする。その弱さには故郷アンダルシアにまつわる「思い出」が深く関係しており、懐かしくも永遠に苦さが残るのだろう。

この「思い出」や「故郷の懐かしさ」こそ『アンダルシアの夏』の根底に流れる基盤であり、その上にペペの生き方ひいては「仕事」が描かれている。

たかが一文字、されど!

映画『アンダルシアの夏』『スーツケースの渡り鳥』は原作への愛を貫きつつ、大胆な脚色を抜かりなくやってのけたとんでもない映像作品だ。本当にたくさんあるのだが、ここでは故郷に関する『アンダルシアの夏』の原作と映画の二つの違いを紹介したい。

まず一つめ。ペペのモノローグ中の日本語の違い、原作での「遠くに行きたい」と映画での「遠くへ行きたい」について。このモノローグはスポンサーからのクビ宣言と監督からの微妙な励まし「おい 腐んなよ スポンサー様にプロのレースを教えてさしあげろ」の後にやってくる。

監督 あんたに教えてやりてえ
プロってのは仕事以上のことをやっちまう奴だって
そうでなきゃ
そうでなくちゃあ
生まれた土地から出ていけないだろう?
俺は遠くに行きたいんだ

『茄子』1巻より引用

故郷から離れたいペペの強い気持ちと、仕事人としての美学が伝わってくるこのモノローグ。注目したいのは「遠くに」という言い方。映画とポスターのキャッチコピーではわざわざ「遠くへ」と変更されている。「に」と「へ」は似ているが少し意味が異なる。

一般的に、「に」が到達点そのものに焦点が当てられているのに対して、「へ」はそれよりも広い範囲、つまり到達点とともにそれに向かう経路や方向性に焦点が当てられています。

NHK放送文化研究所より引用

このことから「遠くに行くこと」が目的だった原作のペペに対し、映画のペペは「遠くへ行くまでの道のり」も目的に含めているという解釈が可能になる。キャラクターとこの物語の重要な鍵となる「遠くに行く」という言葉を、たった一文字、映像化に際して言葉を変えたことでペペのキャラクターを再構築したのだ。それもより面白い方向へと。

映画でペペは一人になれた

二つめ。ラスト手前、夜の丘でペペが故郷と過去の自分を見つめるシーンは原作には存在しない。「遠くへ行く」ことを望むペペの、誰も知らないであろう姿を補足することで物語全体の解像度を高めている。

このシーンは隊服を着たペペが丘へ向かってロードバイクを漕ぐところから始まり、そのヤケクソな様子から回想の続きだと気づく。丘から見える故郷を、思い通りにならない人生を、やるせない自分を睨むような目つき。わたしはペペのこの瞳が好きだ。憤りの先にある奮起に近いエネルギーを感じるから。自分を哀れむ気がないから。でも確実にペペは傷ついていて、だからこんな時間に丘へ登ったのだ。ああ……ペペ……と感傷に浸った矢先、アンダルシアでのレースに勝利した現在のペペが静かにこちらを見つめている。

この「他者を見る/他者に見られる」描写は映画でよく話題になるが、本作では「自己を見る」ことで目線の矢印が一つの方向に集約されている。過去のペペは(この現実と同じで)未来の自分が見えないから、こちらに視線を返すことはない。だが今のペペには目を閉じなくても “そこ” にハッキリと映すことができる。

思い返してみれば、ペペの近くにはいつも誰かがいた。レース中も、表彰式も、ラストシーンでチームメイトと茄子のアサディジョ漬けを食べる時も。だが、映画で追加されたこのシーンでは丘の上にはペペしかいなかった。ペペはやっと、一人になれたのだ。原作では元恋人(もう兄の妻になってしまった)との「好きよ ペペ」の一連のやりとりの後すぐにチームメイトとの夕食シーンがやってくる。あまり好きじゃない故郷でのレース、兄と元恋人の結婚式、掴み取った勝利。激動の一日だ。映画で生まれたこの “一人っきり” のシーンは、映画を手掛けた高坂監督たちからペペへの静かな労いなのかもしれない。

故郷を想起させる言葉や場面で、わざわざ一文字だけ変更したり、大胆にシーンを追加していることからも、映画『アンダルシアの夏』にとって故郷は物語の重要な土台だと考えられる。
故郷という土地とそこで過ごした時間からずっと離れ続けるペペは、頑なにそれらを拒否しているようにも見える。だが、この勝利後のシーンで彼は故郷を初めて否定した時の自分を肯定したのだとわたしは思った。中高生が主人公のスポーツ物語では試合中にキャラクターの成長を描くことがあるが、本作はその辺りは淡々としている。じゃあどこで大人は変わっていくのか。それは一つの大きな仕事を終えた後なのかも、と『アンダルシアの夏』は答えてくれている。

今は苦しくとも

過酷な職業であるロードレーサーを「選んだ」ペペたち。体調管理、食事制限、レースの重圧と疲労、どれも本当は避けたい苦痛だ。確かに楽しくあるためには苦しい時間も必要で、でも本当に嫌だったらやめたっていい。

だけどペペたちはロードバイクに乗り続ける。なぜならそれが自分らしく生きるために今選べる最善の手段だから。わたしも写真という道を選んだし、誰もが何かを選択して生活をしているから、彼らの生き様は多くの人の心に刺さると思う。

さっき「この話の焦点はロードレースでの勝敗ではない何か(仕事と故郷)に当てられていると読み取れる」と書いた。しかし、ペペが掴み取った二度の「勝利」は故郷を離れ遠くへ行きたいと願う彼を肯定しているとも受け取ることができる。

「遠く」へ行きたい人。そのために頑張っている人。自分で決めたことなのに勝手にまわりと比べてため息をついたり不安になる瞬間はやってくる。わざわざヘンテコな道を選んじゃったな、これでいいのかなって。でもきっとわたしたちは間違っていない。自分が自分らしく在るためにはそうするしかなかったのだから。

『スーツケースの渡り鳥』でペペのチームメイトはこう言っている。

「でも好きで選んだんだ。今はせいぜい苦しもうじゃないの」

 文・コムラマイ
編集・安尾日向

実際あると正直すごい嬉しいです(店主より)

解説『茄子 アンダルシアの夏』『茄子 スーツケースの渡り鳥』

監督・脚本:
高坂希太郎

原作:
黒田硫黄

制作:
マッドハウス

出演:
大泉洋、筧利夫、小池栄子、平野稔など

『アンダルシアの夏』と『スーツケースの渡り鳥』のテーマはロードレースであり、ペペの「移動」の話ともいえる。映像における「移動」はわたしの大好物だ。車内での秀逸な会話劇を繰り広げる『ナイト・オン・ザ・プラネット』や『ドライブ・マイ・カー』、移動手段の変化で主人公の精神的変化を表現した『あのこは貴族』。他にも『リトル・ミス・サンシャイン』『百万円と苦虫女』『マッドマックス 怒りのデス・ロード』。どうやって移動するのか、最中に何が起こって、どこへ向かうのか。「移動」には作品のメッセージが詰め込まれている。そういえばペペの声優を務めた大泉洋の出世作『水曜どうでしょう』もある種「移動」の物語ですね……(特にサイコロの旅と四国八十八ヶ所が好きです)

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