Te wo Arai mashou.

カテゴリー: 映画レビュー

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>フラスコ飯店からのお知らせ<

流行ってるらしいが、どんなもんかいや。寝る前に自分の部屋で「clubhouse」というアプリをダウンロードしてみる。軽くパニックになった。

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こんな田舎町、はやく出て行ってやるんだーーみたいな描写がフィクションの中にあるとドキッとしてしまう。悪いけど言ってしまえば、僕はある程度、都会の人間なわけでして。

日本の中心たる京都市の真ん中で育った。関西の街なら梅田も難波も三宮も、別になんとなく歩くくらいはわけない。たとえ「3時間遅刻するから待っていて欲しい」と言われたとて、別に特段困りはしませんよ。嫌やけどね。

申し訳ないけど、都会への憧れだとか、あるいは畏敬の念なんてものはない。自分でも書いていて甚だ鼻につくけれど、ないものはないのだから仕方ない。だって生まれ育ってるんだからさ。僕だって別に選んだわけじゃないです。とはいえ、どんな人間にだって「はじめて」は存在する。I will give you all my love.

幼いころに正月の祇園で手を引かれて「ほほう、これが」と思ったものです。はじめて難波の「あのグリコ」を見たときの気持ちとか、四条での時間の過ごし方がわからなかった小学生の時の焦燥とか。あるいは、地下街で迷子になったときの絶望とか。

そういう感覚、すっかり忘れていたけれど、ちょっと思い出した気がします。

回想を経て再び自室へ戻る。掌の中から覗く「clubhouse」は、僕にとって未知なる「都会」だったのです。

©BUENA VISTA PICTURES

>フラスコ飯店からのお知らせ<

中学3年生以来、ヒールのある靴を履いたことがない。持っていないから、デートでも大学の入学式でも履かなかったし、就職活動はスーツ一式を揃える前に辞めてしまった。

特に何かの主義主張があるわけではない。わたしの好きな服の系統にはヒールのある靴はそぐわないし、24.5cmで甲高幅広の足に合わないから履かない。ただそれだけ。

でも、世の中にはわたしの「ただそれだけ」を渇望する人がいる。

青い靄がかかった桟橋の上で真っ赤なハイヒールを履いた少年は、まるで自分の魂を解放するように、うれしそうに踊る。

(C)山内マリコ/集英社・「あのこは貴族」製作委員会

「あのこ」が誰なのか、映画がはじまるや否やわたしたちはすぐに察する。元旦の東京をタクシーで移動する彼女の身なり、運転手のどうでもいい話に返事をせず、かといって流れる夜景にも関心を示さない物憂げな表情。そして立派なホテルで豪華な食事を楽しむ彼女の家族を見て「このこが貴族」だと確信する。じゃあわたし(たち)はなんだろう。

映画『あのこは貴族』はあらゆる「対比」が散りばめられた作品であり、その対比はタイトルから既にはじまっている。家族との優雅な会食とそこでの話題、「おばあちゃま」呼びなどなど、わたしたち観客は華子との生まれ育ちの比較をせずにはいられない。

子どもの頃、カートゥーンネットワークで放送されていた『トムとジェリー』(1940)を毎日のように観ていた。うっすらとした記憶の中ではぼくの観ていた放送時刻は月〜金の21:30から。なぜだかわからないがぼくの家では21:30からの30分間、兄とぼくが『トムとジェリー』を観る時間があった。

あの頃はとにかく習慣として『トムとジェリー』を観ていたのだけれど毎日のように観ていても前に観たことのあるエピソードが放送されることは稀でほとんどの確率でまだ観たことのない回が放送されていたのを覚えている。それもそのはず。短編エピソードだけでも160タイトルを超える数があり、毎日のように代わる代わる放送されていたのだから。

その習慣はどれくらい続いていたのかも覚えていないけれど、ある時期を境にいつの間にか「今日の『トムとジェリー』はどのエピソードだろうか?」という楽しみ方に変わり、自分たちの好きなエピソードのタイトルがテレビに表示されると兄と二人で喜んでいたのを覚えている。また、それでも初めて観るエピソードが流れた時には「まだ観たことない!」と口を揃えて声に出したほど、あの頃のぼくたちはなぜか『トムとジェリー』に夢中だった。

IMDb より引用

事実として、ぼくは『トムとジェリー』にハマったことがあったのだ。しかも、その事実に気がついたのはこの記事を書いている途中であった。記事を書くために配信されている短編作品を観て漁っている時に「あれ、これも観たことがあるぞ? あれ? これも観たことがあるぞ?」と子どもの頃の記憶が蘇ってきたのだ。

しかも、どれも今観てきっちり面白いから驚きだ。他のカートゥーン作品に比べても『トムとジェリー』は見応えがある。細かな背景の作画やヌルヌルと動く24fps(秒間に24枚の作画)という当時にしてはコマ数の多いアニメーション。

そして何よりもおっちょこちょいなトムとしたたかなジェリーというキャラクターがやっぱり魅力的なのだ!

しかし、もうぼくは大人だ。「まだ観たことない!」と声に出していたあの頃のような無邪気な子どもでもないのだ。にもかかわらず、やっぱり『トムとジェリー』は面白い。

あのふたりが今もなおぼくの心を掴んでくれる理由は一体なんなのだろうか! そんなことを本気で考えてみることにする。

ジャックパーセルなんか、二度と履いてやるかと心に誓った。

エンドロールが終わり、立ち上がることができない。正直に打ち明けるならば、最初のモノローグの時点で、こうなることは分かっていたけれども。

たしかにこれは「良い映画」なのだろうと直感でそう思いました。が、しかしこの映画が僕に与える感情はいったい何だったのか、僕にはわかりませんでした。絶対故障だ。処理できない。けれど喪失感に似た得も言われぬ疲労が下腹にどんよりと残る。論より証拠。そうなってしまったのだから仕方ない。

(C)2021「花束みたいな恋をした」製作委員

非常識なくらい辛すぎる麻婆豆腐を食べたときのような、あるいは度を越えるほど甘ったるいチャイを飲んだときのようなーー。たしかに強烈な味がそこにあることはわかるけれど、具体的に詳細に述べることは困難で、とにかく今は水を求め喉をリセットしたい。たべるのがおそいせいかお腹がもういっぱいだ。

わからない。丁半が付かないが、勝敗ははっきりしている。あっぱれ。ちっとも理由がわからないけれど、たしかに僕は「くらって」しまいました。そんな『花束みたいに恋をした』という映画は、結局のところは一体何だったのか。

自身の体験から敢えて遠巻きに距離を取ってこの作品が何だったのかを考えたいと思います。

はじめに、『ミッドサマー』はホラー映画だ。

しかし、アクション的に、幽霊が出てきてワッと驚かせたりなど分かりやすいホラーシーンはない。

ただただ、見ていて奇妙な雰囲気や気味の悪さを感じる。老人が村の風習によって崖から飛び降りたり、奇怪な死のシーンなど異様にアップされるゴア描写が頭の中にこびりつく。

IMDbより

初めてこの映画を見たのがいつだったか、どうしても思い出せない。わたしが写真を撮りだした時か、もしかしたら写真の道を目指そうなんて思ってもなかった時かもしれない。どっちにせよわたしは「撮る」側の気持ちになってこの映画を眺めていた。全ては共感できないけど、理解はできるなあとか考えていた。それはわたしに写真を撮る覚悟ができていなかったことを意味する。

わたしは大学生の時にヌードに惹かれ、写真に惹かれ、今は写真家として生きている。人を撮っている。

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