Te wo Arai mashou.

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©️1986 Columbia Pictures Industries, Inc. All Rights Reserved.

12歳の頃、友達を探していた。12歳が終わるまでに親友と呼べる存在が欲しかった。日々失われる少年時代。中学受験を控えて私は焦っていた。というのも、映画『スタンド・バイ・ミー』の最後にある言葉を額面通り信じていたからだ。

「あの12歳の時のような友達はもうできない」

エンディングが流れる前に、作家となった主人公がコンピューターに打ち込む言葉。

それを見た小学校低学年の私は、「親友を見つけるなら13歳になるまで」なんていう風に信じてしまったのだ。おかしな話だけど、でも切実だった。

(C)2021 C&Iエンタテインメント

忘れた頃にいきなり現れて、おもむろに心臓を握ってくる。とてもじゃないけど、息もできない。そして、いきなりいなくなる。本当なら、会った瞬間にぶん殴って、叫びながら逃げた先の河原なんかで涙のひとつでも流してやりたい。なんで戻ってくるんだよ。とっくにさよならしたはずなのに。すれ違うだけで、苦しくてしょうがないんだよ。

でもさ、やっぱり会えるとなんだかんだ嬉しいんだ。色々とひどいことを言ってしまってすまない。謝るよ。本音を言うと、どこにいたの、探してたよ、って感じなんだ。実のところ、君に会って心が震えているうちは、僕はまだまだ大丈夫なんじゃないかなって思ってる。素直だろ。だから、忘れないように君のこと、君に会ったときのことを書いておくよ。できるだけ、いつまでも覚えておきたいから。

僕はといえば、すっかり「僕と書いて愛」とは読まなくなってしまったよ。ああ、そう。彼は、相変わらず。君なら、そんなの前前前世から予想していたかもしれないけど。でも、僕も、愛にできることはまだあるんじゃないかとは考えているよ。きっとそれはいくら汚れてしまっても変わらないはず。と、思いたいけど、まあ、これからどうなるかわからないよね。ただ、愛は今でも二日酔いだけは防いでくれないし、治してもくれないよ。これも相変わらず。愛がなんだ。うるせぇバーカ。

文・西川タイジ

1986年山形県生まれ。『トーキョーブンミャク』運営。肩書きは特にありません。好きに呼んで下さい。編んで書いて読んで飲んで観て聴いて泣いています。

→トーキョーブンミャク刊行の最新作
『さよならシティボーイ』について詳しくはコチラ

(C)2021「ドライブ・マイ・カー」製作委員会

言葉とは何だろう。言葉が通じるとは、話をするとは、どういうことだろう。言葉を使うことは否応なく、言葉を使わなければ出会うことのなかった深い深い孤独と対面することでもある。同時に、言葉がなければ見ることのできない祝福の光を浴びることでもある。そのような孤独の暗闇と、トンネルの先にある朝の海のような眩しい光とのあわいを、一台の赤い車が走ってゆく。

『ドライブ・マイ・カー』という映画について語る時、まず僕はこういった抽象的なイメージを語らなければならない。すぐさま細部を語るには、あまりにこの映画の引力が強すぎる。

文・すなば

1991年生まれ。会社員として働く傍ら文筆家として活動。海とシティが好き。2021年10月に初の単著『さよならシティボーイ』(トーキョーブンミャク)刊行。

→『さよならシティボーイ』について詳しくはコチラ

題字:キョウハナ

令和になって久しい。まる3年が経とうとしているらしい。石の上にも三年。「平成かお前は」という言葉などは、気づけば倫理観のオワった化石を打ち砕くための弾丸になってしまった。

なんか堅いな、ごめんね。あなたが思うより冷静です。

いやいや、こんな安い時事を取り入れるようになったら終わりかもしれない。自分で思うよりアラサーなのかもしれない。

そんなわけで、フラスコ飯店がことし取り扱った作品を全てズラッと一覧でお届けします。

年末年始の暇つぶしに、またはこれから観る映画を決めるのにご活用いただければと思います。

店主より

©️New Line Cinema

あなたは完全だ。

自分は全く完全ではなく、何かが欠けていると思っている人へ。欠けているなにかを探さなくてはいけないと思っている人へ。欠けているなにかなんて見つからないと諦めている人へ。そんなふうに考えたこともないという人へ。その他も含めた全ての人に言う。あなたは疑う余地なく完全だ。

今から、そのことを教えてくれる素晴らしい映画についての話をする。この映画は素晴らしいが、そのラストシーンに関して言えば分かりにくい。それでも、初めて観た時に僕はラストシーンで泣いた。それは、「Midnight Radio」を歌うヘドウィグが、自分自身が「完全」だと気づいていたからだ。

この記事は、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を見た人にも見たことがない人にも、ラストシーンを紐解き、なぜヘドウィグが「完全(whole)」であると言えるのかについて説明するものである。また、その補助線として、登場人物の名前の由来や、その由来となった人物のエピソードや単語に言及する。

まあ、格好をつけましたが、名前とかにも意味があって、結構重要なんだよというような話です。

(C)2017映画「勝手にふるえてろ」製作委員会

「勝手にふるえてろ」という言葉。強いメッセージに見えるが、その核には何があるのだろうか。

筆者はこの言葉は観客に向けられた言葉だと感じる。そもそも私たちは映画を見てカタルシスを感じたり、物語を自分の人生に置き換えることはあるだろう。しかし『勝手にふるえてろ』は劇中だけで終わらず、見ている我々がヨシカに「勝手にふるえてろ」と言われることで後味が残る。

映画館を出ても、そのセリフの意味を考えてしまうのだ。スクリーンの中だけで終わらず、我々の日常にヨシカの言葉が重くのしかかる。

なぜ「勝手にふるえてろ」という言葉が強く響くのか。

その理由はこの物語が単なる恋愛物語だけではなく、自己陶酔から、他人と自分の相互承認によって自分を成長させる “自覚” へ進化する人間の物語であるからだと筆者は考える。そのうえで劇の最後に「勝手にふるえてろ」と私たちに突きつけたこの映画の目的とはなんであろうか。

名作日本映画『勝手にふるえてろ』の徹底レビューです。なぜあのラスト? なぜあのセリフ? いやいや一も二も、ヨシカにとっては “まったく同質の存在” じゃないの?

テクストと頭と筆を徹底的に絞った映画評です。文は自称バームクーヘンさん、編集は和島咲藍。7000字超の禅問答で生まれた目からうろこの解釈をお楽しみください。

(店主より)

毎日闘ってる。自分だけがとかではないと思うけど毎日かなり闘っている。

だいたいにして眠りから目覚めると同時にどこか痛いし、たびたび根拠もわからないまま死にたくなったりする。

自分の生活の中に困難が数多あってそれらと日々闘っていることへの実感がある。

けれど「闘っている」「困難」そういう言葉を虫眼鏡で見てみればその言葉はどこか解像度が粗く、いろいろな要素を取りこぼしているかもしれないとも思う。

もちろん苦しんでいる自分だけが自分なわけではない。一時の苦しみにとらわれて未来まで見えなくなることもあれば、穏やかな時間に差し込んだ陽の光の明るさを信じられるような一瞬もある。握った手に励まされて心が溶けるように泣いた日もあった。

「困難と闘う」は自分の周りだけじゃない、どこにでもあふれている。

けどそれって実のところ、どういうこと?

自分自身の苦しさすらも、思えば拾い上げて真正面から見つめたことがあっただろうか。

(C)2019 日本すみっコぐらし協会映画部

僕は、皆が褒めているものは見たくないという逆張りの病に罹ってしまっていて、大抵の名作は見ていません。そのせいで人生の8割を損しているんじゃないかと思うことがよくありますが、治らないものは仕方ないですね。

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