作者別: 川合 裕之

95年生のライター/ 編集者。長髪を伸ばさしてもらってます。

フラスコ飯店では店主(編集長)をしています。

(C)2020「ラストレター」製作委員会

人には二面性がある。当然ながら。

大学のベンチで、ジャージを着た陸上部の学生が煙草を吸っていると少しドキっとしたのを今でもよく覚えています。え、いいの? まあ法律を破っているわけではない(多分ね)から別に構わないのですが。

岩井俊二という映画監督も、映画監督のみならず脚本家、小説家、音楽家、という多彩なプロフィールを持つ人物です。肩書きが多すぎる。さながら日本映画界の須藤元気。日本の須藤元気とはまさに岩井俊二のこと。二面性どころか多面性と書く方が正確かもしれない。

映画監督という枠組みの中でも非常にふり幅の多い作家です。緩急の幅がえげつない。フットボールアワー後藤輝基の舌だってもうカラカラ。『スワロウテイル』、『リリイ・シュシュのすべて』、『リップヴァンウィンクルの花嫁』のように、最初は美味しかったのにもう焦げて取り返しのつかなくなった鍋みたいな憂鬱な味のする映画をつくったかと思えば、『花とアリス』みたいな澄んだ爽やかさで観客を圧倒したりもする。高低差ありすぎ。有栖川徹子。さすが、下からのみならず横からも花火を見ることを提案した作家だけあります。

2019.12.31 / / 特集

衝撃のラスト、なんて書くと月並みで呆れられやしないかと冷や冷やしますが、そんなクリシェを悠々と乗り越えてしまうほどこの映画の結末は衝撃的なのです。

実体のない声だけの存在であるAI(作品内ではOSと表現される)と生身の人間の恋愛は、数々の困難を乗り越えて一旦は成就します。それがなぜ・どのように恋愛関係が形成されていったのか。それについては別の記事を参照されたし。とかく、一度は恋が実ったのです。

が、しかし、さらなる展開で居心地の悪いラストを迎えます。AIのサマンサはセオドアと決別。一件落着ハッピーエンド……とは到底ほど遠いように見えて、しかしその直後の結末まで映画を見届けるとやはりセオドアはこれで幸せなようにも感じる。

え?なに?どういうこと?

考えれば考えるほど頭が割れそうになる。もうすっかり限界を迎えたルービックキューブを力ずくで捻っている時のような悲痛な軋みが左脳から聴こえる。わからないけれど、わからないなりに筆をとって頭を整理させようと思います。

『her』 の最後の「あれ」(としか表現できない正体不明のモヤモヤ)は結局どういうことだったのでしょうか。「言語」をキーワードにこの疑問の正体に迫ります。

(C)2019 映画「タロウのバカ」製作委員会

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『セトウツミ』や「まほろシリーズ」、『ぼっちゃん』などを監督してきた大森立嗣(おおもり・たつし)による2019年の映画『タロウのバカ』をレビューします。「社会の外側を見ること」に伴う息苦しさ・閉塞感は、映画館という空間だからこそ成り立っていたのではないか、という論考です。

それではどうぞお召し上がりください。

慮外放心。呆然。テアトル梅田の地下劇場から地上へ登るときの筆者のその心持ちは、このように表現するほかありません。

戸籍もなく、就学経験もなく、そぞろに毎日を過ごす少年・タロウ。エージ、スギオという高校生の仲間とともに、3人で奔放で破滅的な時間に身を投じて消耗する日々。あることをきっかけに一丁の拳銃を手にしたことから、タロウたちは邪悪でからりとした刺激を加速させることとなる――。これが『タロウのバカ』の簡単なあらすじです。しかしこれはさっぱりと爽やかな青春群像劇でも、うなるほどの痛快なケイパーアクション劇でもない。真夏の炎天下に、手負いの蟻がもがく様をじいっと眺めつづけるような忍耐を要する、静的な苦しみの伴う映画なのです。

(C)2018 A24 DISTRIBUTION, LLC

それは単なる杞憂でした。SNS時代の青春映画、と配給に題されたこの映画にいささかながら不信感を覚えていた自分を強く戒めながら僕は映画館をあとにする。

「いま」はいずれ「むかし」に成り代わることは必至。SNSを題材にすればたしかに身近なものを克明に描くことができるかもしれないが、その反作用として足の速い映画になってしまう。そう思われてしまうのも無理はないでしょう。いいえ、でも大丈夫。『エイス・グレード』は思春期の僕たちを苛んできた自意識、という強靭な普遍性に支えられているのです。