Te wo Arai mashou.

レイトショーは贅沢品なのだろうか。

映画館に行けなくなった。数字でしか知ることのない、目に見えない病気の脅威を改めて実感した。なんともお気楽な話で大変恐縮なのですが、娯楽だって立派な必要最低限だ。

しばらくして、映画館には行けるようになった。そもそも映画館は感染リスクの低い娯楽施設である。納得だ。しかしまだ本調子ではない。席数を制限する劇場もあり、なによりレイトショーが全然やってない。

贅沢かもしれない。けれどやっぱり僕はレイトショーに行きたい。

レイトショーのためだけの夜がある

僕が映画館に行くときは大抵ひとり。1年間のうちで誰かと映画館に行く回数なんてのは、片手で数えられるレベルです。

そして特に好きなのがレイトショーの時間です。丁半博打の自由業。昼も夜もあってないようなライター業ですが、それでもやっぱり夜が良い。いいや、夜が好きだからこそか。映画が終わって帰路につくときの静けさにおいてレイトに勝るものはない。

夕食を文字通り「夕」のあいだに済ませる。箸をおく。ケトルで湯を沸かす。コーヒーではなく、ほうじ茶を飲む。時間を確認する。ちょっと遅れそうだが、まだ大丈夫だ。間違ってもパソコンは見ない。いいや見れない。食事の前にバレーボールを叩くかの如くシャットダウンしたばかりだ。

退勤ラッシュを逆走して劇場に向かう。もちろん手ぶらだ。映画を見る以外にひとつも用が無いのだから。映画を見るためだけに映画館に行く。この夜はレイトショーを見るためだけの夜なのです。

血気盛んに混雑したミニシアター、あるいはキャラメルの疲れた匂いのするシネコン。この瞬間のために仕事をしたのだと思える。実際は昼まで寝てたのだけど、この際そんなの関係ない。この達成感は誰だってきっと同じだ。

映画が終わる。深海に沈むような気持ちでエンドロールを見届ける。客電が付く。余韻に浸りながら、ときにはパンフレットの入ったビニール袋を手にぶら下げて、神戸線の駅のホームに立っている。作品に圧倒されて茫然自失のときもあれば、興奮して内心で青い炎を燃やすときもある。

電車が来る。ネクタイの曲がった顔の赤いサラリーマンが、ブックエンドの無い本棚の本みたいに崩れている。おっちゃんは原価100円くらいのビールに500円払ったかもしれないけど、僕は目が飛び出るほどの製作費で作られた映像をたった1300円で楽しんでいるーーなんて意地悪でかつ全く無意味な優越感に浸る日もある。

さあ、大層にネクラな野郎だと思われたに違いありません。

よかろう。異論はない。

たいそう明るく潰れるまで騒ぐか、たいそう陰湿に泣くまで自分を見つめるか。夜が好きな人間はふたつにひとつです。ブルーライトで顔を照らしている今のあなたは前者だろうか、後者だろうか。

レイトショーのための劇場がある

映画が終わった後、観客の「声」にひっそりと耳を傾けながら帰ることもしばしば。特に僕がいつも行く西宮北口のTOHOシネマズは、映画を見た人の会話が聴きやすい立地なのです。もしかしたらそのために作られたのかもしれない。

というのも、この劇場はショッピングモールの上階に位置しているのですが、レイトショーが終わったころどの店もすっかり閉店しています。シャッターが降り、警備員が立ち、映画の客が余計な場所をうろつかないように壁を作る。

つまりレイトを見た観客の帰り道は一本道に限定されるのです。

エスカレーターを降り、フロアを移動し、さらに再び別のエスカレーターを利用して1Fまで降りモールを出る。今度はモールから駅まで移動するわけですが、わざわざ遠回りする必要なんてあるはずもなく、最短ルートを使うのだから、やはり一本道しかありません。西宮北口でレイトショーを見たあとは、5分~10分ほど他のお客さんと「一緒に帰る」なんてことは珍しくないのです。さっきの話と矛盾するようだけど、やっぱり一人の客も多い。意思を持ったまま孤立した者たちが、ある地点からある地点へ一本道で移動する。まるで此岸と彼岸をまたぐかのように。

さしずめこの映画館は、レイトショーのために設計されたのでしょう。西宮球場が無くなるとき、野球ファンとレイトショーファンとの間にそれはそれは熾烈な論争が繰り広げられたという歴史があるに違いない。きっとそうだ。いいや、ちょっとさすがにそれは一過言あると言わんばかりの表情が目に浮かびますが、僕はこれに耳を傾けません。「過言」という言葉はさっきポップコーンのゴミと一緒に捨ててきてしまった。映画はいつだって大袈裟なものだ。

戻ってくるのは、わかっているけど

高橋ジョージじゃないけど、ちょうど一年前にあの西北の道を通った夜は幸福だった。テールランプを眺めることなく徒歩と電車だったが、高橋ジョージではないから問題ない。

レイトショーに行けなくなってしまった今になったようやくその慈しみ深い時間の価値に気付く。高橋ジョージじゃないけど、何でもないようなことが幸せだったと思う。でも僕たちは高橋ジョージではないので、二度と戻らないわけではない。いつかきっとレイトショーは戻ってくるでしょう。しかし我儘を言うならば、明日にでもレイトに行きたい。

予備校の授業をさぼって二条の映画館に逃げてるときの背徳感。珈琲の味がしない気がした『ミッドサマー』の倦怠感。そうそう、元ネタになったとされる『ウィッカーマン』も塚口のレイトで見た。奇怪すぎて半笑いで帰った。

「花束」の直後は意地でもきのこ帝国なんて聴くまいと伊集院のラジオを流した。『ベイビー・ドライバー』のあとは Queen で揺れた。「エンドゲーム」のあとはどうやって帰ったか覚えていない。ほろ酔いで駆け込んだキムタクの主演映画は犯人はおろか、タイトルも覚えていない。思いのほか上映時間が長くて低血糖になった夜、梅田のウェンディーズだけが助けてくれる。

スカイビルから戻る地下道の心細さ、元町商店街の意外なまでの静寂。十三の相変わらず加減。エンドロールは町まで続いている。夜とは少し違うけれど、白んできた低い空を見て反射的に思わず伸びをする京都みなみ会館のオールナイト上映のことも書いておきたい。

贅沢かもしれない。けれどやっぱり僕はレイトショーに行きたい。倍の値段を払っても構わない。だってこれが僕の贅沢なのだから。そもそも贅沢が敵だと言うのであれば、贅沢の味方としてその貧しさに歯向かわせてもらう。人の言葉で恐縮だけど、無駄がなければ意味がないよ。

 文・川合裕之
編集・安尾日向

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95年生のライター/ 編集者。長髪を伸ばさしてもらってます。 フラスコ飯店では店主(編集長)をしています。

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