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花束みたいな恋を “させられている” に過ぎないのだ | 映画評『花束みたいな恋をした』

ジャックパーセルなんか、二度と履いてやるかと心に誓った。

エンドロールが終わり、立ち上がることができない。正直に打ち明けるならば、最初のモノローグの時点で、こうなることは分かっていたけれども。

たしかにこれは「良い映画」なのだろうと直感でそう思いました。が、しかしこの映画が僕に与える感情はいったい何だったのか、僕にはわかりませんでした。絶対故障だ。処理できない。けれど喪失感に似た得も言われぬ疲労が下腹にどんよりと残る。論より証拠。そうなってしまったのだから仕方ない。

(C)2021「花束みたいな恋をした」製作委員

非常識なくらい辛すぎる麻婆豆腐を食べたときのような、あるいは度を越えるほど甘ったるいチャイを飲んだときのようなーー。たしかに強烈な味がそこにあることはわかるけれど、具体的に詳細に述べることは困難で、とにかく今は水を求め喉をリセットしたい。たべるのがおそいせいかお腹がもういっぱいだ。

わからない。丁半が付かないが、勝敗ははっきりしている。あっぱれ。ちっとも理由がわからないけれど、たしかに僕は「くらって」しまいました。そんな『花束みたいに恋をした』という映画は、結局のところは一体何だったのか。

自身の体験から敢えて遠巻きに距離を取ってこの作品が何だったのかを考えたいと思います。

-目次-

・(予習)簡単なあらすじ
・刺さったように感じるが、しかし
・好きなバンドのステッカーがベタベタと貼られた心の壁に
・花束みたいな恋を <させられている> ということ
・すべてを取り去ったときに何が残る?
・二度と見たくないほど刺さった映画だが

(予習)簡単なあらすじ

東京・京王線の明大前駅で終電を逃したことから偶然に出会った大学生の山音麦(演:菅田将暉)と八谷絹(演:有村架純)。最初はぎこちないふたりだったが、次第に打ち解けるように。きっかけはカルチャーもといサブカルチャー。映画、音楽、小説、漫画、演劇…… 「好き」がことごとく一致していたのだ。きづけば恋に落ちる若い二人。大学卒業後に同棲生活をスタートさせるが…… ?

というのがこの映画の概要です。

さて、映画の内容に迫っていきましょう。

刺さったように感じるが、しかし

(C)2021「花束みたいな恋をした」製作委員

部屋に大判の AKIRA が全巻あるタイプの男の子と、芥川賞を受賞するよりもうんと前から今村夏子を愛読するようなタイプの女の子が出会ってしまう。と、このように少々乱暴に書いてしまえば映画を未見の人であってもその内容や手触りを想像していただけるでしょう。

本も映画も音楽も服も、趣味という趣味が驚くほど一致していることを互いに知るふたり。そうなればあとはもうエスカレーター式。まるでクイックルワイパーで埃を拭きとるかの如く、それはそれは簡単に恋に落ち、交際がスタートするのです。

「有村架純の演じる絹と、菅田将暉の演じる麦の二人の恋のはじまりと、その終わりまでを描きます」と、表現してしまえばそれまでなのだが、この作品の中心に据えられた特異性はやはり作中に散りばめられる “カルチャー” にあり、そしてその合言葉の直前には(少しアングラで、いわば私たちだけの)という但し書きが必ず付いてくることは誰にも否定することはできないでしょう。これが無ければ画竜点睛を欠く。

趣味が合うと、好きになる。狭ければ狭いほどに。

あるある。そういうの、あるよね。

話がややスピンオフしますが、僕にもあった。具体的には西宮北口から塚口まで映画の話をしながら「350ml の缶ビール買ってきみと夜の散歩」をしたり、ファミレスで鞄に入っている小説を見せあって意気投合したり。ついこないだのことです。というかこの映画に出てきたことは冗談抜きで本当に全部やった。もれず引っ越しまで完璧にね。些細な共有財産の親権争いもしっかりやった。ちなみに言うと僕はいま25歳で、この映画に出てくる二人と同い年である。職業はご覧の通りの有様。実に俺すぎる。

共感しやすい物語に

スピンオフ失礼。話を戻します。

このような背景があり、個人的には勝手な(かつ浅はかな)共感を抱きながらスクリーンを前にして蛇に睨まれたが如くすっかり固まってしまったわけですが、何もそれは僕に限ったことではないでしょう。

そうでなくとも「共感」が容易い物語なのだから。

恋がはじまり、覚えたての性愛を享受する日々。穏やかな時間、そして生活はつづく。かのように思えたが、大学卒業・就職を機に可処分時間が大幅に減少。文化的な営みからはおよそ遠ざかってしまう。二人の価値観も変わり、いつしかすれ違う。よくある話です。はっとして気が付いたら、引き返せないほどの距離が隔たっている。

とにかくこの物語は恐らく市井あまねし恋愛談話の最大公約数たりえる。

好きなバンドのステッカーが
ベタベタと貼られた心の壁に

(C)2021「花束みたいな恋をした」製作委員

一般化すれば誰にでも当てはまるような物語でしょう。その中でもやはり、共感の引力を最大化する隠しアイテムは “カルチャー” もとい (ちょっぴりアングラな、私たちだけの)という限定条件が付与された “カルチャー” でしょう。

この “カルチャー” という無形の小道具がありふれた一般的な話を、個別化された「わたしだけの」物語へと綺麗に磨き上げた。僕たちはこの技をもってして腹を刺され、失血し、身動きを奪われてしまったわけです。

さて、ここからはいま以上に意地悪に興じますので、甘美なる映画の余韻に浸っていたいという方々はあらかじめご注意くださいませ。

「私と同じ XX という作品を好きな人は、きっと私と話が合うに違いない」という理由で交際にまで発展した経験を持つ観客を、この物語へとどっぷり引き込むにあたって、非常に非常に非常に効果的な方法がある。

なあに、そんな。簡単ですよ。「彼ら」の好みそうな固有名詞を散りばめれば良いのです。天竺鼠、きのこ帝国、ゴールデンカムイ。そうした名前の周辺に漂っている力を借りれば良い。

「自分たちのカルチャー」を好きでいる「同類」がそこにいる。つまりこれは私たちの物語なのである。と、都合良く勝手に誤認してくれるでしょうから。

さすればあとはもうエスカレーター式。まるでクイックルワイパーで埃を拭きとるかの如く、それはそれは簡単に共感して、作中人物への自己投影がスタートする。

というのも、好きな服は何ですか, 好きな本は, 好きな食べものは何? といった物差しを持ち合わせることで自己や他人を認識する人は、どうしてだか実に多いらしいから。もちろん僕だってそんな凡人のひとりであることを否定できません。

だから僕はこの映画にくすぐられてしまった。

「選ぶ / 選ばれる」と恋愛

“自称映画通” とやらが開口一番に紹介する “マイナー映画” があろうことか『ショーシャンクの空に』であることを白眼視し、押井守を知らない人間は愚昧だと断罪する……といった具合。

この映画に出てくる二人は「自分たちの認む文化」を糧に AT フィールドを構築する。

だからこそ、その壁を乗り越えた相手との自他の境界線は有耶無耶になり、とぷんと融解してしまう。完全なる同一視。だからこそ、相手が己と異なる価値観に染まるときには激しく動揺してしまう。碇君、私とひとつになりたい?

(C)2021「花束みたいな恋をした」製作委員

ニッチな芸術を自分だけが知っている。その素晴らしさを理解しているのは自分だけである。この上ない優越感です。さて、ここで左記の文章の「ニッチな芸術」という単語を「このひと」とパラフレーズしてみて欲しいのです。

<このひと> を自分だけが知っている。

その素晴らしさを理解しているのは自分だけである。

自分だけの文化を選ぶ、その文化圏に選ばれる、というのは恋愛と非常に近しい鏡像関係を結びます。時計の針が止まって見える現象の名前さえ知らない人はお呼びではない。俺たちは社会の本流からはズットずれているのだという勲章をぶら下げた選民思想の応用です。

パズドラに時間を浪費するなんてもってのほか。そんなのは愚かで低俗な文化的脳死である。惨酷だけれど、その暴力性こそが非常に心地よい。

傍から見ると痛々しいが、どうせガラスを割るならば素手でぶん殴る方が美しい。

花束みたいな恋を
<させられている>
ということ

サブカルチャーを媒介にした領域展開に閉じ込めたあとの攻撃術式は、絶対に当たる。

事実こうして当たっている。花束みたいな恋を <させられている> のです。

この感動は、この共感は、誰かに誘導されたものなのです。こと厄介なのは領域が展開されていることに気づかないこと / 気づきにくいこと。天沢聖司だって隠してたくらいです。

たとえばここに美味しいパスタがあったとしましょう。作ってくれた調理者の技量を評価するという思考回路はある意味では当然でしょう。しかしこの映画は監督の顔が見えない。隠してこそいないが、スポットライトが当たりづらいから。

人の造りしもの

広く一般的には「菅田将暉と有村架純のラブストーリー」と喧伝され、やや感度の高い観客にとっては「あの坂元裕二の脚本」として認知される本作ですが、彼らの陰に隠れるように監督を務めるのが土井裕泰です。『いま、会いにゆきます』(2004)、『涙そうそう』(2006)など、言うなれば麦くんや絹ちゃんが斜に構えて軽蔑しうる商業的な大味の作品を手がけた職人なのです。

ほうら、もうひとつ生産者の顔が見えてきた。

しかしこの映画を鑑賞するにあたり、感想の矛先は自己の内側に向けられることが多い。自分たちが消費者のターゲットとして選ばれたことに無自覚なまま「私が選んだ」という意識に浸ることができるようです。

(C)2021「花束みたいな恋をした」製作委員

多くの観客は涙をぬぐう。花束みたいな恋を <させられている> ことに無自覚なまま。

本当は、向こう側から恣意的に選ばれているだけかもしれないのに。

すべてを取り去ったときに何が残る?

ドンキ? ヴィレバン? グリフィンドール? 文化的な組み分けした末に与えられた一等席で享楽できる極上の共感体験。そうしたものを取り払ったあとに、この映画には何が残るのでしょうか。と、僕は自問してみます。

(C)2021「花束みたいな恋をした」製作委員

「サブカルチャー」を利用して教室の片隅の僕たちみたいな人間を方舟へと誘うような作品なら、最近ではたとえば『モテキ』、『勝手にふるえてろ』などもこれに該当するでしょうか。どれもこれも助演男優賞。ロメロだよ、それくらい観とけ! ってな具合です。しかしながらこれらを含む作品群は、反逆的な選民行為が無くたってエンタメや芸術として成立していたように僕は思います。

一方で本作の『花束みたいな恋をした』はどうでしょうか。

数々のサンプリングに足るほどの技量があったかしら、と私のゴーストが囁いているのよ。

衣裳を着た馬子

映像は記号的なものばかりだし、セリフやモノローグで舵を取ることがほとんどです。引用している作品群とはいささか不釣り合いなジャンクさがあります。

たとえばお揃いのジャックパーセルから、それぞれの革靴へ、という限りなくこの映画の主題に近い描写を振り返ってみましょうよ。淡々と任務を遂行し魂が吸い取られるような日々が二人を遠ざけてしまったことを示唆するこの場面は、物語の背骨を担うシーンのひとつなのに(いいやきっとそうであるからこそ)過剰なほど説明的です。とてもじゃないけど鍵括弧付きの「僕たち / 私たちだけの」エンタメに相応しい優れた演出であるとはとても言い難いのではないでしょうか。

(C)2021「花束みたいな恋をした」製作委員

そもそも、モノローグがあまりに多すぎやしないか。有村架純と菅田将暉の演技が腰を抜かしたくなるほど素晴らしいのでうっかり見落としてしまいそうになりますが、伝えるべき心情をここまですべて絨毯爆撃のように言語化する必要が本当にあったのだろうか。ほかにはコーヒーの描写も印象的です。お金が無くなったので、コーヒーはコンビニで買うようにした。なあんてそんなのはモノローグで言ってくれなくても画で見せれば誰だって勝手に読解できる。言い出したらキリがない。

何にでもルビを振ってあることそれ自体を追及するつもりはありません。しかしながら引用する数々の創作物と、作品それ自体のサイズがあまりに釣り合っていない。

最上級の本わさびと、玄人好みのこだわった醤油。美味しいけど、よく見たらザコ寿司じゃねえか。「花束」は全部「あ段」ばかりだからだろうか、ザコ寿司は口に入りやすい。勝手に口に入れられて、うっかり美味しいと感じてしまう。

書籍を単なるインテリアにしてしまった TSUTAYA への諦念のような、あるいはもはやどの地方のイオンにだって入っている格好ばかりのヴィレッジヴァンガードに対する虚しさのような。札束に火葬された文化の焦げ臭さを感じてしまいます。

あからさまなほどに降り注ぐ固有名詞は、観客をセグメント化する以外の目的を有するのでしょうかね。一方で「スダ・マサキ」と「アリムラ・カスミ」を武器に広い市場も狙いに行くのだから大変お上手な商品ですこと。

(C)2021「花束みたいな恋をした」製作委員

この『花束みたいな恋をした』という映画が引用・借用してきた数々のカルチャーを全て取り払ったとき、そこには何が残っていると思います? いや何も残らんのかい、ムール貝。ほら、たとえばいま貴方が読んでいるこのパラグラフから、いましがた借用した人様のギャグを取り払ったらば何が残ると思います? そうです、お察しの通り何もありません。いや何もないんかい、ムール貝。

じゃあ何が入っていると思います? それは虚ろな自己欺瞞でしかない。書いている僕は気持ち良いです。小さなクリシェでも、膨大に積み重ねると気持ちよくなってくる。酒蒸しで酔っぱらうような感覚です。実際の酒蒸しは、僕あんまり好きじゃないんですけれどもね。ムール貝。

二度と見たくないほど刺さった映画だが

(C)2021「花束みたいな恋をした」製作委員

さて、以上のような理由から僕は過剰にこの映画を評価しないことをここに表明します。良い映画ではある。うっかり共感して動けなくなった。災害レベルの大打撃。租唖に襲われた人々もまたこんな気分だったろう。ここまで心を揺さぶられたのは久方ぶりです。

つらい。もうあまり見たくない。ジャックパーセルなんて、二度と履くかと誓う。なんて照れ隠しをついつい叫んでしまう。

もちろんこの感情すらも、予定された感情でしょうがね。

 文・川合裕之
編集・安尾日向

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現実に目をつぶったら、こうなる

『花束みたいな恋をした』は夢をあきらめて現実を見る男性が登場するお話でしたが、それでは逆パターンはどうでしょうか。現実に目をつぶって藝術への夢を追い続ける男を描いた「劇場」という物語はいかが?

簡単に「共感」してくれるな | 小説『劇場』レビュー

「劇場」にはこのような「共感できない」シーンがたくさんある。「眼」は永田と一致できるのに、「内側」にまで到達できない。もちろん全てが全て共感できない訳ではないし、全てに共感する読者もいることだろう。僕には共感できなかったシーンが多かった。でもだからこそ、読書と「共感」について考えてしまうのだ。

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【映画パンフレット】『花束みたいな恋をした』

解説『花束みたいな恋をした』(2021)

監督:
土井裕泰

脚本:
坂元裕二

出演:
菅田将暉, 有村架純, 清原果耶, 細田佳央太, オダギリジョー, 戸田恵子, 岩松了, 小林薫

音楽:
大友良英

撮影:
鎌苅洋一

さて、執筆後記。散々に意地悪なことばかり書きましたが、物語の着地とかはすごく微笑ましくて大好きです。そして本稿では割愛しましたが、脚本はカルテットなどでお馴染みの坂元裕二。

固有名詞について非常に非常に辛辣なことを言ったその舌で言うのもなんなのですが、平成(そしてちょびっとだけ令和)の「言語化不能の作品の記録」という側面においては意義があるラインナップなのかなとも思いました。ノールックのバックハンド挨拶とか、ああいうの本当にずるいよね。痺れた。くぅ~~~~。敬意をこめてやはりこう書きましょう。二度と見るかコノヤローー!つらすぎるんじゃボケ~~~~!

編集後記 / 映画や記事の感想

よくもまあこんなにも好き勝手書いたものを最後まで読んでいただけたなと思います。感謝です。映画自体への評価は記事の通りですが、それでもここまで何かを(僕以外にも山ほどの記事やSNS投稿が溢れている)書かさせるほどの引力を含む映画である時点で成功なのかなとも思います。いわゆるUGCを作り出す余白を用意することこそが現代における映画興行の正解なのかもしれません。「ザコ寿司」の引用でお世話になりましたオズワルド、第42回のABCお笑いグランプリで優勝しましたね。おめでとうございます。何をいまさら誰に媚びを売ってるんだと怒り心頭の皆様におかれましてはトマトのご用意を。 (2021年7月某日、筆者)

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川合 裕之

95年生のライター/ 編集者。長髪を伸ばさしてもらってます。 フラスコ飯店では店主(編集長)をしています。

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