Te wo Arai mashou.

簡単に「共感」してくれるな
| 小説『劇場』レビュー

——あなたなら、①と②のどちらを選ぶだろうか? 僕は①の「だけど」を選ぶ人のほうが多いと予想する。

どうして「②だから」ではなく「①だけど」が入ったほうが自然な文に思えてしまうのか。この記事のテーマはまさにこの疑問にある。

「共感」と「おもしろいかどうか」。2つの間に結ばれた関係はどのようなものか。小説「劇場」を通して考えてみよう。

劇作家・永田が見る世界

又吉直樹(以下敬称略)の小説第2作「劇場」は、演劇を志す永田が金もなくボロボロの状態で東京の街をうろうろと歩き回る描写から始まる。誰もが永田に嫌な視線を投げつけてくる。しかし、永田がとある画廊の窓を覗いているとき、となりに1人の女性が現れる。その女性は自分と同じように窓のなかを覗いていた。それが沙希との出会いだった——。

作者の又吉はこう語る。

「劇場」という小説は、恋愛というものの構造がほとんど理解できていない人間が書いた恋愛小説です。

映画ナタリーニュースより

そう、これは「恋愛小説」なのだ。うだつの上がらない劇作家の永田と服飾の大学に通う沙希という2人の人間の関係が、永田の演劇への取り組みとともに、永田の視点で描かれている。

永田の眼が見て、耳が聞いて、頭が考え、心が感じたことだけを読むことができる。恋愛には複数の人間が必要だが、そのなかの1人が体験した世界だけを、読者の僕らは追体験していく。

(C)2019 Hinata Yasuo

一人称視点と作品理解

文学理論には「視点」という考え方がある。誰が見た世界を、誰が語っているのか。これが視点である。お気づきの通り、これは「見る」視点と「語る」視点の2つの次元に分けて考えることができる。

たとえば、太宰治の「走れメロス」は、「メロスは激怒した」という書き出しからもわかるように、メロス本人が語っているのではない。メロス本人が語っているのであれば、「私は激怒した」となるはずだ。だから「語る」視点はメロスではない第3者のものだ。しかし、物語はメロスが体験する世界を中心に展開する(注1)。つまり「見る」視点はメロスのものであることが多い。まとめると、「走れメロス」はメロスが見た世界を、第3者である語り手が語っているのだ。

このように「見る」視点と「語る」視点のそれぞれによって、文学作品の視点を分析することができる。作品内でそれらが一貫しているものもあれば、どんどん移り変わっていく作品もある。たとえばベストセラー、朝井リョウの『桐島、部活やめるってよ』は、各章で視点人物が変わりそれぞれが語っていく形式をとっている。芥川賞を受賞した円城塔の「道化師の蝶」も一人称「わたし」が指し示す人物が変化していく(というかもう誰が何だかわからなくてそこがおもしろい)。

では読者の僕らにとって、作品の視点はどのような意味を持つのだろう? 文学作品を読んで理解するとき「視点」はどのように作用するのだろうか

他者の心情の理解と視点

ここで一冊の本を参照しよう。その名も『視点』という著作で、認知心理学の専門家が視点と理解の関係性を解き明かしてくれる。

文学作品を読みながら登場人物の気持ちを理解することは、もっと広く、他者の心情を理解することの一つのあり方。この本はそう捉えたうえで、読書において読者がどのように登場人物の心情を理解しているのか分析している。

文学作品を読んで登場人物の気持ちを理解するとき、あなたはどのような過程をイメージするだろう。それはあるいは次のようなものかもしれない。

仮想的な自己である“小びと”を作り出し、作品世界に派遣する。その眼を通して世界を見たり、小びとになってその気持ちを体験する。

このイメージは『視点』で論じられているものである。小びと=仮想的自己の「眼」の働きによって情景を理解し、仮想的自己の「内側」の働きによって心情を理解する。登場人物の体験する世界と心情は、これら2つの働きが双方向的に助け合うことで理解されていくのだ。

しかし、双方向的で相補的なはずの2つの働きだが、他者の心情理解においては実は「眼」のほうが優位に働くかもしれないことが指摘されている。つまり、他者の心情を直接想像するよりも、他者が置かれている状況を想像し、その人が見ている世界を見てからのほうが、その気持ちがわかりやすいというのだ。

だからこそ、文学作品の理解において視点は大きな意味を持つ。その文章が、誰の見た世界を誰が語ったものなのかがわからなければ、読者は自分の“小びと”をどのように派遣すればよいのかわからない。逆に視点がわかれば “小びと”を簡単に派遣することができる。視点は文学の読解の入り口になる。

(C)2019 Hinata Yasuo

「劇場」の視点

では「劇場」はどうか。先ほど指摘したように、「見る」・「語る」どちらも永田による視点で貫かれている。永田が見た世界を、永田が語っている。完全な一人称視点の作品だ。読者である僕らは、永田の言葉で作品世界を知ってゆく。

一人称視点の作品は、ある意味で一番「わかりやすい」のかもしれない。だってどこにどのように“小びと”を派遣すればよいのか、火を見るより明らかだ。地の文は状況説明に加えてモノローグ、独白にもなっている。視点人物が何を見て何を感じているのか、読めばわかるようになっているはずだ。

これは『視点』でいうところの、仮想的自己の「眼」の役割を永田と完全に一致させることができるということだ。「眼」は「内側」に対して優位に働くから、「眼」を一致させることができれば、「内側」を一致させやすくなるはずだ。

しかし、永田は「内側」まで一致させてくれない。「劇場」はそういう「わかりやすい」作品ではないのだ。

簡単には「共感」させてくれない「劇場」

あるシーンを見てみよう。学生の沙希が親からの仕送りを開けながら、永田に “ある言葉” をこぼしてしまうシーンだ。

 僕は稼ぎがほとんどなかったし、沙希はまだ学生だった。アパートの家賃は彼女が大学を卒業するまでは親が払うということになっていて、実家から食料が定期的に小包で送られてきた。その小包を沙希はいつも嬉しそうに抱えたり、重さなどから中身を予想したりして、床に置くと大胆にガムテープをはがした。
「お母さんが、小包送っても半分は知らない男に食べられると思ったら嫌だって言ってたよ」沙希が上機嫌の調子で僕に言った。
 二人で少しだけ酒を飲んでいたので、普段なら言わないようなことが、つい口からでてしまったのだろう。
「なんで、そんなこと言うん?」
 沙希はガムテープをはがす手を止めて僕を見た。自分を嫌っている人から与えられたものを食べて生きることほど惨めなことはない。ましてや、僕の場合は与えられてさえもいなかった。母から娘に送られたものを横から無理やり奪って食っていたのだ。
「気にしなくていいよ。お母さん、本当に嫌だったら送ってこないから」
 沙希は僕の雰囲気の変化を察知し、優しい声でそう言ったが、僕の気持ちは収まらなかった。
「俺、沙希ちゃんのおばはん嫌いやわ」
 彼女はしばらく無言で僕の顔を見つめていた。そして、小包の中身を取りだしながら、
「駄目だよ、そんなこと言っちゃあ。お母さんは悪くないよ」
 感情を抑えた声で沙希が言った。
「俺が送る立場やったら、そんな嫌味わざわざ言わんけどな」
 沙希は手を止めて小包を見つめている。
「ごめんね。わたしの言い方が悪かったね。お母さん怒ってないよ」
 沙希は無理やり笑顔を作ろうとしている。
「怒ってるかどうかという話やないねん。わざわざ、そんなこと言わんでええやん。性格悪くない?」語気が強くなっていることに自分でも気づいていた。
 沙希の動きが止まった。

『劇場』p.68-70

沙希が少しのアルコールのせいもあってこぼした一言に、永田は自分の惨めさを思い知る。「自分を嫌っている人から与えられたものを食べて生きることほど惨めなことはない」という気持ちは理解できる。しかしだからといって、「俺、沙希ちゃんのおばはん嫌いやわ」と言ってしまう永田に、自分の“小びと”を彼に派遣していた僕は驚いてしまう。そんな言い方はないじゃないか。

よくある展開なら、ここで「ごめんな。俺が不甲斐ないばっかりに」みたいな贖罪の言葉が続きそうなものだ。というか僕らはそういう「共感できる展開」を身に付けてしまっていると言ったほうが正しいか。だからこそ永田の意地汚いセリフを“小びと”の耳で聞いたとき、戸惑ってしまうのだ。

「劇場」にはこのような「共感できない」シーンがたくさんある。「眼」は永田と一致できるのに、「内側」にまで到達できない。もちろん全てが全て共感できない訳ではないし、全てに共感する読者もいることだろう。僕には共感できなかったシーンが多かった。でもだからこそ、読書と「共感」について考えてしまうのだ。

(C)2019 Hinata Yasuo

又吉「共感だけを求めて本を選ぶのはもったいない」

「劇場」を読みながら、簡単には「共感」させてくれない物語展開を目の当たりにし、僕は作者である又吉の言葉を思い出していた。数年前、何かのテレビ番組で言っていた「共感を基準にすることに違和感がある」という発言だった。いつ、何の番組だったかも覚えていないので不確かな記憶だが、調べてみると最近も同じことを言っているようだった。

あるインタビューにて。

昨今は、『共感しました』が最高のほめ言葉になっていますが、共感だけを求めて本を選ぶのはもったいない。もちろん、読書には自分が普段から感じている言語化できない言葉に出会い、共感するおもしろさもあります。でも、自分と全然違う考え方や発想を提示してくれて、自分の視点が増えていくのも、読書の楽しみのひとつじゃないかなと思いますね。それによって、いろんな人間がいるんだって学べます

ESSEによるインタビューより

またフジテレビの「ボクらの時代」においても、「共感はただ共感であるだけで、共感できたけど刺激的じゃないから嫌いもありうるし、逆に共感できないけどおもしろいもあるはず」ということを言っていたようだ(注2)。

やはり又吉は「共感」を軸に置かない。「共感」と「おもしろさ」を真っ直ぐにつなげることを拒否する態度が、「劇場」には現れているのだ。

「共感しました!」でいいの?

しかし「共感」は大きな力を持っている。なぜなら「共感」とは、他人事を自分事のように感じる能力だからだ。他人のことには真剣になれなくても、自分のことには真剣にならざるを得ない。あなたも身に覚えがあるだろう。だから他人事のような状況や問題を、自分事として捉えることは行動を促進する可能性を秘めている。それは世界を変えていく大きな力となるかもしれない。

ではやはり「共感」は至上価値なのか? 実は「共感」はある危うさを孕んでいる。

「共感」の限界

紛争・テロ解決活動家の永井陽右による「共感にあらがえ」という連載記事がある。タイトル通り「共感」が孕む危うさを知り、「共感」だけに頼らない社会のあり方、社会の変え方を模索しようとする示唆に富むシリーズだ。

その第2回から「共感」の持つ危なっかしさについて引用してみよう。

目の前に次の2人がいると仮定しよう。ひとりは、内戦に追われて難民となり独りぼっちで食べるものが無く服もボロボロで今にも餓死してしまいそうな10歳の白人の女の子と、もうひとりは、道端に力なく座り込み服もボロボロで今にも餓死してしまいそうな中年の黒人の男性だ。さて、あなたはどちらに共感するだろうか。想像してみてほしい。

次に、後者に少し背景情報を付け加えてみたい。その男性は、ギャンブルに失敗して全てを無くし、金も食料も底をついて道端に力なく座り込む、今にも餓死しそうな60歳の黒人男性である。 あなたの共感に何か変化はあるだろうか。さらに、その男性が自分と敵対するコミュニティーに属しているとしよう。さらなる変化はあるだろうか。

一般的にこの世界では、前者の女の子のほうがはるかに多くの共感を獲得する。また、後者の男性に、上記のような背景情報が加われば加わるほど、彼に対する共感は減っていく。 2人とも同じ人間であり、同じ苦しみを同じ瞬間に持っているのにもかかわらず、なぜこのような違いが生まれるのだろうか。私の問題意識はまさにここにある。

現実の世界でも、前者の女の子だけが、誰かにさしのべられた手によって、飢えから救われることは起きうる。私はこれまでの活動を通じて、獲得できる共感の濃淡によって、個人の人生が変わるということの危うさをひしひしと感じているのだ

&M「共感にあらがえ」第2回より引用。太字は筆者が施した。

永井自身、紛争解決の活動のなかで「共感」の「大いなる可能性」を感じているという。しかしだからこそ、「共感されない人たち」を助けることの困難さに直面しているのだ。これを指して永井は「共感は“万能薬”ではない」と主張している。

(C)2019 Hinata Yasuo

「共感」の危うさは身近なところにも

先日、志村けんが新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなった。長く親しんできたコメディアンの死に世間は深い悲しみに沈んだ。そして著名人の死を通してウイルスの恐ろしさを改めて感じた人も多かっただろう。実際、東京都知事の小池百合子も追悼の言葉とともに「最後に悲しみとコロナウイルスの危険性について、しっかりメッセージを皆さんに届けてくださったという、最後の功績も大変大きいものがあると思っています」という発言をして賛否の声が飛び交った。

どうして著名人の死をもって、ウイルスの脅威を再認識するのか。ここにも「共感」の力が働いている。自分の過去から現在にかけてずっと活躍していた彼が感染してしまい、ついには亡くなってしまった。それによって他人事と思えていたウイルスが現実味を増し、自分事に思えたのだ。「よく知っている」から「共感」しやすかったのだ。

それ自体は悪いことではないだろう。しかし「共感」の力をあてにして、他人の死を勝手に意味づけるような発言は許されるものではない。他人の死を勝手に功績にしてはならない。

「共感」ではなく「理解」を

たしかに「共感」には力がある。それは否めない。でも安易な「共感」は、自分事にしか心が動かないことの証左であるかもしれないのだ。

映画『JOKER』の凄さの一つに、アーサーという「ちょっとヤバイ奴」が見る世界を映像によって観客に体験させることで、彼があのコメディアンを撃ち抜いてしまう気持ちが何となくわかってしまうところまで持っていく、その描写の力があると思う。これは単なる「共感」ではない。アーサーの抱える文脈をこれでもかというほど知ったからこそ、彼の気持ちが「理解」できるような気になるのだ。彼の表情や身体、声を通して「理解」してしまった。だからこそ彼の笑いが観客である僕らに重くのしかかるのである。

(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics

関連記事:数分後、ハイタッチをする予定がある|(共感性)羞恥と『JOKER』

「共感」の力であり危うさ。それは「理解」を飛び越えてしまうところにあるのだろう。他者の心情は他者のものである。それは決して自分のものにはならない。しかし「共感」はまるでそれが自分のものになったかのように感じさせる。だから速く強く心を揺さぶる。だけどそれは勘違いかもしれない。他者のものは他者のものなのだから。

他者のものを他者のもののまま、知ろうとすること、「理解」しようとすること。そしてその先で「共感」に近い何かが訪れるかもしれない。大事なのは「共感」ではなく「理解」だ。「共感」できなくても「理解」できるかもしれない。少なくとも「理解」しようとすることを放棄してはならないのだ。

永田には「共感」できないけど、だからこそ

僕は「劇場」の永田に「共感」できなかった。でも彼の視点で描かれる世界を見て、彼を「理解」しようとした。「理解」できたかはわからない。でも確実に言える。「劇場」という小説は、おもしろい。

簡単に「共感」させてくれない「劇場」。又吉の「共感」に軸を置くことの拒否が色濃く表れた作品だが、その試みを「恋愛小説」という「共感」がものをいうジャンルで行っていることに敬意を評したい。

最後に冒頭の問いに僕なりに答えて終わろう。

「劇場」という小説を読んだ。共感できなかった。だからこそ、とてもおもしろかった。

解説『劇場』(2017)

作:又吉直樹
出版:新潮社

小説デビュー作『火花』で芥川賞を受賞した又吉直樹の2作目。2020年に行定勲監督(『世界の中心で、愛をさけぶ』『リバーズ・エッジ』『GO』)の手により映画化されているが、公開は延期が決定している。主演は山崎賢人、松岡茉優。

注釈

(注1)実際には一部、暴君ディオニソスの心情が間接話法で書かれている部分もある。これを視点がディオニソスに移ったとするかは多義的な解釈がある。

(注2)残念ながら筆者はこの番組を見ておらず、ネット上の書き起こしをもとに要約している。

参考文献

映画ナタリー「又吉直樹の「劇場」映画化、山崎賢人と松岡茉優が“どうしようもない男と女”に」(https://natalie.mu/eiga/news/339799

太宰治「走れメロス」

宮崎清孝・上野直樹『視点:新装版』(2008)東京大学出版会

ESSE online「又吉直樹さんの読書論。「共感できる」を求める風潮に疑問」(https://esse-online.jp/trend/202093 )

永井陽右「〈02〉見過ごされる“共感されにくい人たち” どう救うべきか?」(https://www.asahi.com/and_M/20180921/156179/

 文・安尾日向
編集・川合裕之(フラスコ飯店 店主)

他者理解を放棄しないために

岸政彦『図書室』—思い出すこと/思い出せないこと/思い出さないこと—

作者の岸政彦は社会学者でもある。彼は社会学研究における調査、特に彼自身が行っている生活史の聞き取りという調査を、「他者」を「なんとかして理解しようとする」営みだと捉えている。「完全に」理解することはできないし、できると思っては傲慢だが、理解しようと努める姿勢が求められるのだ。

これはマイノリティに限らず、誰に対してもあてはまることだ。たまたま電車で乗り合わせた隣のおじさんにも、その人の人生があり、あらゆる過去を背負って、いまも生きている。彼の人生を完全に理解することはできない。ましてや、電車に乗り合わせただけの人にいちいち話を聞くなんてことはできない。でもだからといって、理解すべき何かがあることを理解しようとすることを放棄してはいけないのだ。理解を放棄することは、その人の人間としての生を軽視することだ。私たちは、そんな当たり前のことを忘れて生きている。

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映画『劇場』評

映画『劇場』論考_ 目を疑う / 視点 / 映画の2人称

耳を疑うとはまさにこのこと。

その時、嘘みたいにゴテゴテした劇伴音楽が流れたことに僕は本当にがっかりした。

永田(演・山崎賢人)が贖罪する。「これは演劇なのだ」という皮をかぶってこれまでの罪をすすぎ沙希ちゃん(演・松岡茉優)への愛を不器用に語る。彼女もまたそれを正面から受け止め、そして返す。

観客の僕は涙を必死で我慢する。

まさにその時、仰々しいほどの劇伴が流れたのです。ありえない。信じられない。その時、僕は行定勲を見損なった。まさか最後の最後、こんな作り物みたいな音楽を挿入するなんて。この掛け合いは絶対に演出しちゃいけないのに。

と、その瞬間――

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安尾日向 Written by:

いつまでもくよくよしてやるよ(97年生、大学院生) https://www.instagram.com/__sorekara