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思春期の錯乱 vs 信頼できる大人たち|『20センチュリー・ウーマン』

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「人は20歳から大人になるのだ」と教わって以来、19歳と20歳のはざまの00:00ちょうどに パチン と大人になるのだと思っていた。そうやって大人になったら、大人であるための決まりやふるまい方が自動的に脳にアップデートされるのだと。

大人になるのが
死ぬほど怖かった

1997年生まれ、22歳。成人はしたけれど、大人かと言われると、自信は持てない。「エッッまだ全然無理ですけど」と半べそをかきながら「大人になってたまるか、ケッッ」とも舌を出しつつ、それでも「かっこいい大人になりたいなあ」などと夢見ている。

わたしにとって、大人になることはとても怖いことだった。9歳になったみたいに、17歳になったみたいに20歳になるだけなのに、それがどうしても恐ろしかった。何か取り返しのつかないことが起こっている気がした。でもどうしてか、大人になることを誰よりも恐れていたわたしに必要だったのは、「信頼できる大人」だった。

暇な中学生だったわたしは図書室の本棚の右上から左下まで順番に全部読む、というやけっぱちの遊びを経て「信頼できる大人」を得た。それはつまり、作家たち、あるいは本の中の人々。「家」と「学校」から遠く離れたところでいつでもわたしを待っていてくれて、有名か無名に関係なく「わたしのための作品だ」と思わせてくれる、そういう、切実で惜しむところがなくて悲しくてさみしくて、強い人たち。

そうやって自分だけの部屋をこの世界に確保してやっと、自分のこわばりを解いて、混乱に立ち向かうことができたのだった。

思春期の錯乱
vs
信頼できる3人の女たち

歳をとるということは、ぱちぱち切り替わることではなくてほんとうは、じわじわ滲んでいくことなのかもしれない。ちょうどその「滲み」のど真ん中にいるのが映画『20センチュリー・ウーマン』のジェイミーという少年(ルーカス・ジェイド・ズマン)だ。

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舞台は1979年の南カリフォルニア。

15歳、思春期、子供と大人の間、庇護と自立の間、母が求める息子としての自分と、それに反して否応なく成長してしまう心と体。

幸せってなんなの? 母さんの僕へのその愛は本物なの? 一人で寂しくない? どうして何も話してくれないの? あの子はどうして同じベッドで寝るのにヤらせてくれないんだろう? 

考え事は多いし、答えは出ないし、車は燃える。それでなんとなくみんなに迎合して、ばかな遊びでわけもなく自分を傷つけてみたりする。時の流れは止まらず「滲み」はひとりでに広がり、もはやもう自分の手には負えない。

そんな彼のさまを見て、女性解放運動の申し子のようなキャリアウーマンの母・ドロシー(アネット・ベニング)ですら「日々彼をわからなくなる」と動揺し、2人の「信頼できる大人」をジェイミーに提示する。彼らの同居人でパンクと写真を愛する芸術家のアビー(グレタ・ガーウィグ)、ジェイミーの幼馴染で自称「自己破壊的」なジュリー(エル・ファニング)だ。

信頼できる大人たちがくれたもの

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当たり前のことだけれど、「信頼できる大人」は誰かに提示されるものではない。それでも、一晩の家出を経て、ジェイミーは彼女たちを自ら選び取る。

10代の頃に聴いていたら楽になれたと思う曲ばかり集めたミックステープ、夜中のクラブ、煙草のかっこいい吸い方、女性のオーガズム、悲しみに寄り添う方法、女性の口説き方、ニューヨークの混沌、フェミニズム、異性との友情、自己破壊行動について。

アビーがとジュリーがジェイミーに与えたもの、それは狼狽えさまよう彼が飛んでいかないよう、地面にしっかり立ってその手を離さないでいること、または一緒になってさまようこと。それはいつでもヒリヒリしていたけれど、お互いがお互いを癒し合う、健やかで瑞々しい有機的な交わりだ。

そして母・ドロシーもまた、ジェイミーにとって「信頼できる大人」であろうとする。彼を信じて大切な頼み事をし、彼が信頼する音楽を聴き、若者だらけのライブハウスにまで足を運ぶ。決して簡単なことではない。全てを解決するわけでもない。ましてや永遠でもない。この映画は「思春期の男の子の育て方」といった類のものでは決してない。人間そのものに特効薬なんてない。それでもいつでも真剣で、その真剣さが時には滑稽だったりもして、そうやってたまたま「親と子」でなくただの人間同士になれたその瞬間だけ、ちゃんと交わることができるのだ。

「僕には、母さんがいれば大丈夫だ」

いつの間にか通り過ぎるものに祝福を

友人が20歳の誕生日を迎える瞬間に立ち会ったことがある。ホラー映画を観ながら不安な音楽にどきどきして、寿命が縮む思いをしながら迎えたその瞬間、00:00を過ぎても、彼はいつも通りの彼だった。心のどこかで00:00ちょうどになったら隣の彼が パチン と弾けて「大人」という生き物に変態するかもしれない、とおののいていたけれど、当然、全然、そんなことはなかった。「正真正銘の大人の男性と一緒にいる!」という感慨はけっこう面白いものだったけど、どこから眺めても彼はやっぱり彼のままだった。

「大人になるスイッチ」なんてどこにもなく、なりたくたって急に大人になんてなれない。人生はカットではない、切り替わらない、ひと続きで、じわじわ滲んでゆくものなのだ。

いつの間にか年齢確認をされたり高校生に間違われたりしなくなって、いつの間にか大人の決まりやふるまい方を身につけてきた。お金を稼いで生き延びる方法も、百貨店のコスメカウンターへの挑み方も、冷蔵庫の中身のまわし方だって、いつの間にかわかってきた。ちょっと進んだりだいぶ下がったり、追い詰められたりしながら「いつの間にか」を積み重ねて、いつの間にか、大人になっていく。それでも、そのひとつひとつをちゃんと通り過ぎてきたあなたたちに、20世紀を生きた女たちに、ジェイミーに、そしてわたし自身に、わたしは心からの祝福と慈しみを贈りたいのです。

解説『20センチュリー・ウーマン』(2017年)

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監督:
マイク・ミルズ

出演:
アネット・ベニング, エル・ファニング, グレタ・ガーウィグ,ルーカス・ジェイド・ズマン ほか

マイク・ミルズ監督が自身の少年時代をモチーフにした自伝的映画。アビーとジュリーは監督のお姉さんがモデルになっているのだとか。

この記事では「思春期」に焦点を当てましたが、この映画は1920年代、1950年代、1960年代に生まれた「女たち」の物語であることはもちろん、音楽映画として鑑賞しても不足がないほど、ガールズパンクとフェミニズムの関係や劇中歌にもくすぐられます。

また、劇中でのアビーの写真作品の新しい構想は、自分の持ち物を全部撮影すること、それによって自分自身の姿を浮かび上がらせること。そのコンセプトは映画全体に行き渡っています。マイク・ミルズ監督はしばしば「テーマを結局雰囲気や映像のよさでごまかしてしまう」と批判されがちですが、わたしは、少なくともこの映画に限っては「わざとだ、そしてとてもうまくいっている」と断言したい。

特徴的なナレーションとして、多くの実際の写真とともに歴史的事実が述べられたり、登場人物の生まれ年、出身、家庭環境、趣味嗜好の羅列がなされるけれども、実際どういう人物かといったことは何も明言されません。現実世界がそうであるように、その人が何に喜びどんな風に笑うのか、何に傷ついてどんな風に泣くのかは言語化されず、我々自身で感じ取らなければならないのです。なぜなら、彼ら・彼女らは生きていたから。

アビーを演じたグレタ・ガーウィグはアカデミー賞脚本賞にノミネートされた『レディバード』(2017)や今年3月に日本公開の『ストーリー・オブ・マイライフ/私たちの若草物語』(2019)の監督・脚本を務めています。tanoshimi!!!

 文・和島咲藍
編集・平成文字化け女

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和島 咲藍 Written by:

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