クィア・アイというリアリティーショーをご存じですか。決して誰も傷つけることのない無条件の愛に満ちた幸せなリアリティーショーです。人生に疲れてしまった人のもとに「ファブ・ファイブ」が足を運びます。その人たちはカルチャー、食、ファッション、ヘアメイクやインテリアなどのスペシャリスト。衣食住をあらゆる角度から見直し、疲れたその人の暮らしを人生を輝かせて再起させてくれるのです。
海外ドラマファンやネトフリフリークのみなさんにとっては「何をいまさら」と思われるかもしれませんね。知っている人は知っている超オバケコンテンツ。2018年に配信がスタートした Netflix オリジナルドラマであり、これまで6つものシーズンが配信されています。いいなあ。僕の所にも来てくれないかなあ。
僕も大好きなシリーズです。
けれど、どうにもこうにも心配性の僕は、手放しに喜べない。
もしかしたらこの企画、実は惨酷なのかもしれません。
重大な欠陥
「化粧水はこれを使ってね」
「こんな服着てたらダメだよ、もっとフレッシュな気持ちでお洒落しないとね」
「このハム賞味期限とっくに過ぎてるじゃん!捨てだ!捨て捨て!!」
ファブ・ファイブの面々たちは陽気に、それでいて的確に私生活を改善しようと奮闘します。
褒めて伸ばし、間違いをただすときも褒める。褒める、褒める、褒める。もしファブ・ファイブが束になってカイワレでも育てようもんなら、キレ過ぎて成長しちゃったときのゴンさんの髪の毛みたいになるに違いない。
陽気な声で、力強い激励で、そしてテンポの良い編集で、その回のターゲットはどんどん魅力的になっていく。外面はもちろん、内面から自信が溢れ出すのです。クリシェなんかではなく、本当に目の色が違ってくるのですから不思議です。およそ1時間かけて、ターゲットはファブ・ファイブの手によって「救済」されます。
しかし、この「救済」には実は重大な欠陥があるのです。
それはファブ・ファイブが召喚されるためには「紹介者」が必要だということ。つまり自薦ではなく他薦なのです。
この意味、わかりますか。ものすごく残酷です。
ファブ・ファイブは福祉ではない
誰しもが救われるわけではない。
「この人を救ってあげたい」
「この人がこんなところでくすぶっているのは可哀そう」
そういった周りの声が無い限りファブ・ファイブが駆けつけてくれることはありません。だからこの企画は間違っても「福祉」ではないのです。
福祉とは広義には「とにかくハッピーであること」です。狭義に、そして同時に一般的には国や行政などの “公的な機関が” 生活困窮者などを対象にハッピーの底上げをして支援することです。
①公的な機関が
②ハッピーを底上げしてアシストする
一度立ち止まってまとめると、以上の2つが一般的な「福祉」の定義としましょう。ファブ・ファイブは②を十分に満たしているわけですが、肝心の①を担っていないのです。お世辞にも福祉国家とは口が裂けても言えない強者のクニ、アメリカにおいて余計に忘れがちになってしまう要素かもしれません。いいや、だからこそファブ・ファイブのような存在がシンボリックな救世主として君臨するわけですが、だからといって福祉の不在を見過ごすわけにはいきません。たとえば「自助・共助・公助」という言葉だって、慈しみ深い意味があるのに違いありませんが、それって政府が言って意味ある? どの口が言うてる?
そうそう、余談かもしれませんがお金配りおじさんもとい前澤社長の成金チャンス企画なんかも同様です。これも一見社会貢献のようで、その実は福祉ではない。たしかに余剰の富を持たざる者へ再分配するのは素敵です。けれどもそれは個人の眉の動き一つで左右されるイベントであってはいけないのです。顔色伺ってゴマ擦って、それでいいわけがありません。一見すると公平ですが、穴はいくらでもある。ポリンキーくらいスカスカです。たとえばTwitter のアカウントを持っていなければお金配りイベントの存在すら知ることもありませんから。悪いことではありません。しかしながらオールマイティーな正義の象徴として相応しいとも言えません。少なくとも今の僕はそう考えている。
さらに余談ですが、こうした企画は往々にしてリツイートが応募条件ですが、そこからたどって悪意剥き出しの業者にリストアップされる……という事例もあるので本当に注意してくださいね。当選確率はほんの数%ですが、リストに入れられる可能性はもっともっと高いです。そして自分が跪いていることを100%の確率で周囲に知らせることになってしまいます。ご自身でよく考えてからボタンを押してください。本当に文字通り死ぬほどお金が必要なのであれば、ちゃんとした消費者金融や自治体の制度を利用することを強くオススメします。
閑話休題。ファブ・ファイブの存在は、福祉的ではあるにせよ、完全な福祉ではありません。全員がファブ・ファイブを頼ることはできない。そこにあるのは選挙権ではなく抽選券だ。そしてその抽選券は、信用や友情の残高を持つ人のみが有するのです。
Netflix や前澤友作といった巨大な資本が共助の穴を埋める。すると本来そこにあった福祉の不在が、見えづらくなる。――というのもまた社会のバグのひとつだ。
「誰にも見られない」という孤独
クィア・アイを見ていると、うっすらと涙が浮かぶ。半分はもちろん本筋のドラマに感化された涙。でも、残りの半分は過剰に想像したその先にある現実に対してです。「この人を助けてあげて」と推薦されることすらない、誰からも手を差し伸べれない孤独の真ん中で臥すその人に対してのお節介な同情が浮かんでしまう。
「誰にも見られない」という寂しさがそこにある。
そしてさらに惨酷なことに、その孤独に喘ぐその人を、僕たちのほとんどは見つけることができません。
なぜって、誰にも見られない孤独は誰にも見られないのだから。誰にも見られないから孤独だし、その孤独へ第三者がアクセスする道は無い。道が無いからこの先もずっと孤独だ。どこからも光が差さない黒塗りされたペンローズの無限階段。そんな人はさすがにいないんじゃないのか、とも思うけれど、完全な不在を証明するのは困難です。別にいてもおかしくない。でなければ孤独死という言葉が生まれることはないのだから。
いや、もちろん良い番組であることに変わりはありません。不公平であることの批判は、その不公平を生んだ社会や行政に対して行うべきであり、それを是正しようとする個人に対して石を投げてはいけない。とにかく筆舌を尽くしがたいほど面白いし、魚を与えるのではなく魚の釣り方をこそ教えるスタンスも現代的で素敵。みるみるうちに人の顔が明るくなっていく。見ていて清々しい。それだけで自分の心も明るくなる。月並みな表現だけれども、本当です。
だから、忘れそうになる。
スポットライトが美しいのは、暗闇とのコントラストがあるから。誰もが幸せな社会で、このバラエティは成立しえない。
文・川合裕之(編集長)
編集・安尾日向
絵・miharu kobayashi
毎度!
最後まで読んでいただきありがとうございました。
フラスコ飯店の最新の更新をチェックしてみてください!
上のイラストをクリックすると遷移します!(店主より)
解説『クィア・アイ』
制作:
Netflix
出演:
Antoni Porowski, Tan France, Karamo Brown, Bobby Berk, Jonathan Van Ness
Netflix オリジナル作品。服捨てたりされるシーン、いつもモヤモヤするけど、Mari Kondo がウケてるし、そもそも本人が渋々なりとも承諾しているのでOKなんだろうな。あ、そういえば日本にも来てましたね。
個人的には最初のシーズンが一番好き。
どのエピソードも、「ファッション」や「美容」といった表面的な課題を解決しながらも本質的な「自己実現」「自己肯定」を育むところまでしっかり踏み込んでいるのが素敵。
あと余談ですが、変身前を必要以上に貶して攻撃するような言動がないのが嬉しい。たとえば「大改造!!劇的ビフォーアフター」とか僕は共感性羞恥がエグくて見れないんですよね。改装前の家のことをボロクソ言うじゃないですか。あの権威的かつ高圧的な態度が――しかも一見そうと悟られない穏やかな口調で――本当に無理で……。(この文自体が「大改造!!劇的ビフォーアフター」を貶すことになるので、お互い様なんですけれども)
そんなわけでクィア・アイ、色々書きましたが基本的には本当に大好きです。何回見ても面白いですからね。何度も見ましょう。