I’m back. Omatase. 

信じられるものを見つけて、愛してると言えますように
|Netflix映画『ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから』

IMDbより

一度だけ、「愛してる」と言った。冗談で。途端に身体と顔は燃え上がり、心臓は壊れたように騒ぎ出した。それ以来、言えない。「愛」という言葉は理の外にあるみたいだ。誰に言ったのかも覚えていない。この人に言ったかなと思う人に電話して聞いてみたが違った。「あなたに愛してると言いましたか? 」と尋ねるのは恥ずかしくて、「あー」とか「うー」とか言って分かってもらった。なんという不誠実さ! ともあれ、それくらい適当に言った。

とにかく、僕は逃げた。

「好き」と「愛してる」はかなり違う

「愛してるくらい言える。目を見て言える」というみなさん。素晴らしい! そのまま励んでください。僕はあなた達になりたかった。

僕の人生は、とても嫌な表現だが、「客観的」にみるとつまらないと思う(人生はいつだって主観だ)。映画や小説なんかには今のところ、なりそうもない。そんな人生だったらいいのになあ、とは思う。悲劇の主人公じゃないから、愛を知らないわけじゃない。肉親は僕を愛してくれていると感じる。他人の人生を覗き見すると、これは愛だなと思ったりもする。僕が見てきた限り、それが悲劇であろうと、「愛」は、たいていの場合、カッコよく、力強く、そして美しかった。「愛してる」と言えば物語の登場人物に近づけるんじゃないかと思った。でも、無理だった。逃げた。何もわからなくなった。

本当は「愛」がわからない、なんて感じない方がいい。母親に真面目腐って、「愛がわからない」とか言う不届き者なんて僕だけで十分だ。考えずにわかる方がいい。今すぐ気になるあの子に LINE をして、「愛してる」と50回くらい送る方が有意義なんだろう。でも、僕にはそれができない。24年も生きて、一度も彼女ができたことないのもそれが原因だろう。(「違う」って? 分かってます。)

僕だって「好き」ぐらいは言える。ギリギリ。多分。だいぶ手遅れになってからだが。「好きな子いる?」とか「○○好き?」とか結構言ってきた。でも、「愛してる子いる?」とか「○○愛してる?」とかは言えない。ちょっと話が違うと思われるかも知れない。お前それ好きって言ってねぇじゃん。と怒りだすみなさんの姿が目に浮かぶ。言えるってだけで照れはする。察してください。

「好き」は言えるけれど、「愛してる」は言ったこともない。そういう人は多いんじゃないか? 多いですよね? 多いんです。僕も「愛してる」は、誰に、いつ言ったのかも覚えていないその一回だけだ。両親にも言ってない。

なぜ、「愛してる」がこんなに難しいかは分からない。目を背けて、考えないようにしてきた。「好き」の話もまともにできない恥ずかしがり屋さんなら、「愛してる」って言えないのはただ恥ずかしいだけじゃない? と思われるかもしれない。だけど僕には、単なる羞恥心だとは思えない。「愛してる」という一言を言ったときには、好きな人に「好き」と言うのとはちがう、重たい何かが体の中で暴れまわった。それほどまでに、あのとき冗談で適当に言った「愛してる」は特異だった。似た意味の「好き」とは絶対に違った。そして、言えなくなった。言えるようになろうともせず、目を背けていた。

『ハーフ・オブ・イット』

IMDbより

僕に愛について再び考えるきっかけをくれたのは、 Netflix で見た映画『ハーフ・オブ・イット -面白いのはこれから-』だった。 SNSで流れてきたから、見た。僕は女性同士の恋愛を描いた百合と呼ばれるジャンルが好きで、この映画がよいと誰かがつぶやいていた。それだけの理由だった。百合の話はお互いの首に刃を突きつけた上で今度しよう。いいですね? 

ネタバレは避けたいので、簡単にあらすじだけを書こうと思う。

アメリカの白人だらけの街が舞台で、主人公はエリー・チュウ。中国系のアメリカ人の女の子だ。高校生の知的な女の子で、英語をうまく話せない父親と二人暮らし。他人のレポートを代筆してお金を稼いでいる。その彼女がラブレターの代筆を頼まれる。依頼人はアメフト部の補欠、ポール・マンスキー。宛先はマドンナ、アスター・フローレス。エリーはアスターに密かに好意を抱いていた。最初、依頼を断るが、電気代の支払いが迫っていることから承諾する。

そのラブレターをきっかけに、エリーはアスターに、アスターはエリーが扮するポールに惹かれていく。お互いに完璧な理解者を得られたと思っていた。

エリーはポールの恋をサポートし、彼にアスターが好きなこと、芸術や文学、哲学について教えていく。そうした中で二人も友情を育んでいく。

昔の人が語る愛

作中ではいくつも映画や古典が出てくる。今回は、その中の巨人の著書から、「愛」についての言葉を紹介しようと思う。ついでに、それに対する僕の感想も。

まず、プラトンの『饗宴』からの一文。

完全性に対する欲望と追求、それに単に愛という名が授けられているのである

古代ギリシャ人のアリストパネスの言葉だ。人間はかつて二つで一つであった。人間を恐れた神々が、人を半分に切り裂いた。だからこそ、人は自らの半身を探し求めているのだ。それが愛だと。

78億人の中から完璧な半身を探す? 無理だ。

オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』からは

自分を欺いて始まり、他人を欺いて終わる。それが恋愛だ

というセリフが引用されている。これはワイルドの作品の中でも悪魔的な存在である、ヘンリー・ウォットン卿の言葉だ。

恐ろしい。あまりに皮肉が効きすぎている。この言葉に賛同するには、僕はいささか善良すぎる。それに、「愛」という言葉に憧れすぎている。

そして聖書の言葉。これはアスターの恋人のトリッグが使った。トリッグは街で一番の金持ちの息子で、自信満々。アスター曰く、「彼には迷いがない」。噛み砕いて言うと、陽キャだ。教会で集会を開いているときに、みんなの前でこの言葉を言って、アスターに結婚を申し込む。

愛は寛容、愛は親切、人をねたまない。自慢せず、謙虚である

舐めるなクソが。きれいごと言ってんじゃねぇよ。それで済むなら苦労はしねえんだよ。僕の善良さと「愛」への憧れはこの程度だ。

それはさておき、要するにこういうことだ。偉い人が考え込んでくれた言葉を聞いても、「愛」ってよくわからない。わかりました?

向き合った人たち

『ハーフ・オブ・イット』の登場人物達は「愛」に向き合っている。ポールはアスターの中での自分(つまり、ポールの代わりにやり取りをしているエリー)に近づけるように努力する。エリーは、最初に書いたラブレターでは、ある映画の中の言葉を盗用し、愛を語っていたが、最後には、自分の言葉を紡ぐ。アスターは、幸せ(これもあいまいなよくわからない言葉だけれど、ここでは安定した家庭とか、富とかそういう意味だ)になれるであろう、トリッグの迷いない愛に流されなくなる。

いろいろな愛の形がある。この映画はそれを描いている。エリーの父親からエリーへの愛。ポールからエリーへの親愛。エリーからアスターへの愛。トリッグからアスターへの愛だって、きっと愛なんだ。

前述した、教会でのシーン。アスターに求婚したトリッグに、エリーは待ったをかける。「愛は……」と語りだすエリーだが言葉に詰まってしまう。そこで、ポールがその言葉を引き継いで、自分なりに「愛」について語りだす。それを聞いて、エリーも自分なりの愛の定義を言葉にする。

愛は厄介、おぞましくて利己的、それに大胆。

この言葉は、エリーがアスターとポールとの関係を通じて得た、自分だけの愛の定義だ。本に書いてある言葉じゃない。自分で愛に向き合って生まれた、自分の言葉だ。このような自分なりの愛の定義が必要なのかもしれない、と僕は思った。

信じられるものを見つけてね

IMDbより

しかし、愛の定義を見つけることだけでは十分じゃないと僕はすぐ後に気づくことになった。それは、エリーとアスターの最後の会話のシーンからだ。

作中のアスターの最後の台詞に出る字幕はこうだ。

信じられるものを見つけてね

映画の中ではトリッグ以外、「愛してる」と言わない。その他の登場人物たちには迷いがあるから。エリーだって、自分で「愛」を定義できたけれど、「愛してる」とは言わない。行動は起こせたけれど。

彼らは確証が得られていない。自分の愛を信じられていない。多分、このせいなのだ。僕が「愛してる」と言って何もわからなくなったのも、彼女らが「愛してる」と言えないのも、このためなんだ。自分なりの愛の定義とそれを信じる必要があるんだ。適当に言うようなものじゃなかったんだ。僕にも、彼女たちにも、「愛してる」と言うには「信じられるもの」が必要なんだ。信じられる、自分なりの愛の定義が。愛が半身を探すことだっていい。自分や他人を偽ることだって、寛容だって、それが自分の言葉であり、信じられるならば、なんだっていいんだろう。

映画を見て、「そうじゃない」と言う人もいるだろう。行動の方が尊いのだと言う人もいるだろう。

でも、僕は信じている 。「信じられるもの」が必要なんだ。そうすれば「愛してる」と言える。目を見て言える。渾身で。精一杯。力の限り。そのはずなんだ。

誰だって「愛」に向き合えば見つけられる。「信じられるもの」を。そうすれば言える。「愛してる」と。僕は、それを信じている。僕は見つけようと思う。それを、信じてみようと思う。僕だけの「信じられるもの」を見つける。物語の登場人物になるためじゃなくていい。冗談でじゃない。適当にじゃない。今度は心から、「愛してる」と言う。

 文・後藤洋平
編集・和島咲藍

解説『ハーフ・オブ・イット』(2020)

IMDbより

監督:
アリス・ウー
出演:
リア・ルイス、ダニエル・ディーマー、アレクシス・レミールほか

アリス・ウー監督が、自身の大学時代の経験をもとに、ロスタンの戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』のエッセンスを加えた脚本。

高校生の登場人物たちを中心に描かれている、「愛」についての話だ。作品は知的で美しい。この記事で紹介した以外にもいろんな本が出てくる。映画もいっぱい出てくる。それでいて気取っておらず、とても見やすい。「文学も映画も興味ねーよ」という方でも十二分に楽しめる。もちろん、「文学や映画を愛してる」という方だって楽しめる。

あのシーンとか特に美しいですよね。僕はあそこが一番好きです。あそこですよ。皆さん。あの曲が流れているところです。言葉で説明しても(かなりいやですが)いいけれど、映像でぜひ。

文・後藤洋平

1996年生まれ。ぬるいオタクです。正社員にはなれませんでした。

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