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営業再開のお知らせ:エンタメ批評は本当に必要か?

インターネットで二次創作をすること

わかりやすく説明して台無しにする。自分以外の誰かの作った芸術の威を借りて上手いことを言おうとする競技。と、前項で僕は「映画批評」をこのようにパラフレーズしました。すでに世の中に広く流通している言葉を借りて表現するなら「二次創作」でしょうか。

要するに自分のやっていることが二次創作に過ぎないことがあほらしくなったのです。あくまでも無気力だった当時は、という括弧書きの注釈が付くのですが。

結論が出ているのならもう良いのではないかと呆れられそうですが、今回においては僕はこの直感を大事にしてみたいと思います。なぜそう錯覚していたのだろうか。さらに掘り下げたところに、小さな問いが隠れています。二次創作はそんなにも悪なのか。当然これは誤りに違いない。だったらどうしてここまで心を沈めていたのだろう。

きっと僕が引っかかっていたのは、「インターネットで二次創作をすること」の裏側に潜む病理についてです。後から言い訳しても仕方がないのですが、もし紙媒体だったなら、僕はこんなにも更新ブランクを空けることはなかったかもしれない。

ここから、少し遠回りをしながらにはなりますが「インターネットで二次創作をすること」の欠点とも言える問題点を、いくつかの段階を踏んで整理します。

前提:「人気」は資本だ。

「人気」は狭義にも広義にも資本主義的です。狭義は簡単、言わずもがなでしょう。マーケティング、流通、商品開発、採用ーーあらゆる側面において、富の多寡が勝負を決めます。グーよりチョキよりパーより銭なのです。どの業界も左団扇ではありませんから、十把一絡げにイージーゲームだとは口が裂けても言えませんが、一度でも財を成した者がそれを継続・増幅させることは極端に極端に極端に難しいわけではないはずです。

狭義の資本主義に対して、僕は大きな反発心を持っていません。あるはずがない。あったとして、僕がそんなことを書ける立場ではありません。十分にその恩恵にあずかっているのだから。たとえばほら、ディズニーやピクサーをTOHOシネマズで見て心底から楽しんでいるし、分割払いでMacを買って、Netflixでオリジナルドラマを呑気に流し見している。

類似の例は枚挙にいとまありません。こうした経済成長で生まれるエンタメがあるし、その反対に富の流動性が極めて停滞している日本国内インディー映画シーンの先行きなんかは冬の夕方みたいにうんざりするほど暗いのはご承知の通り。狭義の資本主義についてこれ以上の説明は不要でしょう。あとはシリコンバレーのエリートとかにお任せします。さて、僕の心を化膿させたのは人気が持つ「広義の」資本主義的側面です。

広義の人気資本主義

人気が人気を増幅させ、多くの人間が揃って同じ方向を見上げている。僕が注目したいのはこうした広義の資本主義構造です。まどろっこしくて申し訳ないのですが、これも絶対的な悪ではないと思っています。人気を資本とした成長もずっとずっと昔から続いてきました。いまさら廃することはできないでしょう。

だってほら、人間の心理とはそういうものじゃないですか。アカデミー賞と言われればその映画を見たくなるし、マツコが美味いと言うのなら一口それを食べてみたいと思ってしまう。ジャスティン・ビーバーのリツイートひとつで人生なんて簡単に逆転できる。

広義の資本主義も狭義の資本主義と同様に三角形の権力構造を象っています。持つ者と持たざる者の関係は、当然非対称的です。既に権威を持つ人間が、一方的にフックアップした新しい芽を市場に並べる仕組みです。たしかに運の要素も大きく機会は必ずしも均等でないだろうが、実力主義であることには変わりありません。どんな強運であろうと一芸に秀でていなければ権威者の目を引くことはできないのです。

しかしながら人気の資本主義はいつしか不健全でアナーキーな方向へと傾きつつあります。この文章を読んでくれている人なら、なんとなく肌でそう感じている人も多いのではないでしょうか。

21世紀、創作行為の民主化と革命。

ピラミッドの頂上から井戸の水を汲むような構造は、少しずつなし崩しになっていきます。

誰もが “名前を持ったコンテンツメーカー” になる自由が市民に放たれてからは随分と時間が経つ。制作とスポットライトの民主化です。もはや最近のことではありませんよね。「歌い手」「踊り手」などという言葉はもうおよそ死語に近い、と例を挙げて説明すればご納得いただけるでしょう。あまりに当たり前すぎて首を傾げている世代の読者もいらっしゃるかもしれません。

クリエーションの「民主化」

ポケットの中にタイプライターがあり、カメラがあり、マイクがあり、5G通信がある。かつて吉幾三が渇望していた物は、ベコ以外なら全部あるのが当たり前になりました。東京に行かなくても十分だし、その気になればVRで銀座に山だって作れてしまいます。

活字の流通や映像の供給はすっかり民主化されて出版社や放送局だけの特権ではなくなりました。誰もが簡単にコンテンツを作れる。踊ってみるだけでいいし歌ってみるだけで構わない。

作ったからには見られたい。インターネット黎明期の有名コンテンツは大半が「詠み人しらず」の匿名的ミームでしたが、民主化されたコンテンツは次第に強度な自我を持ち始めます。広義の資本主義に沿った成長を期待して、コンテンツを作らないと生き残れないとファンにすら指摘される時代です。(別にスターにならなくたって死ぬわけでもないのに、不思議ですね)

「資本主義に沿った成長戦略」とは、自分よりも知名度のある者からのフックアップ狙いの売名だったり、アルゴリズムの攻略だったり、あるいは一攫千金を狙ったブルーオーシャンへの冒険だったり。その程度の粗挽きのイメージで大丈夫です。

多少乱暴なりとも断言しましょう。再生数が反落して半狂乱のYouTuberからいいねの数の多寡にいじけるティーンエイジャーまで程度に差はあれど、民主化の影響により大多数の人が「人気の資本主義」に巻き込まれるようになりました。従来とは違い、誰もが人気の多寡を物差しで測られる機会と隣り合わせでいます。

「民主化」から「革命」へ

「民主化」が成熟し、ある一定のラインを超えてついに「革命」が起こります。テクノロジーによる言論行為の民主化が10年前のアラブでまさに文字通りの革命を起こしたように、制作とスポットライトの民主化も革命を引き起こします。

その「革命」とは自分のコンテンツに勝手に権威者を召喚できるようになったことです。「有名人に取り上げられれば世にでるチャンスになる」ではなく、「有名人を取り上げれば数字になる」という裏技が定着しはじめます。しかも、この革命に大義名分はありません。

極端な例ですが、2022年に賛否を呼んだ「ファスト映画」はまだ皆さんの記憶にも新しいでしょう。二次創作が守るべき一線を超えてもはや剽窃だと断罪されたそのデスクワークは、字幕フォントの美しさにも気を配れないほどの凡人には明らかに不相応な莫大な収益を生み出しました。それこそ、法や世論に睨まれてしまうほどに。

とりあえず乗っかっておけば注目を集められる「雑務」に近いとも表現できるでしょう。そして規則を踏み越えた二次創作は、やはり簡単に効率よく数字を集めてくれます。

余談ですが、残念ながら僕は対岸の火事の話をしているのではありません。僕個人にとっては此岸にある犯罪行為。薄給でグレーな雑務に身をやつす青年たちの顔を知っているし、あれを恥ずかしげもなく「事業」と言い切ってしまった汚い金髪中年の振る舞う下品な高級酒の不味さをまだ覚えています。

持たざる者が、富む者の知的財産を無断で侵食できる闘争状態はまさに革命期の混乱に似ています。倫理やプライドを無視して法則に従えば数字が得られるし、うまくいけばお金にもなる。そしてその近道の一つが「二次創作」だったのです。こうした時代の背景が僕の悩みの膿の芯だったと思います。

二次創作は「コスパ」が良い

「革命」の以前からも、二次創作は非常に有効な手段でした。まず一定数の需要がすでに可視化されているので獲得できる数字にある程度の下限がある。さらに、オリジネイターに許諾を取らずとも発表することができるので、時間効率も悪くない。そして「二次創作」は相手のディフェンスラインのギリギリを攻めれば攻めるほど、量的効果を発揮する。

いつしか越えてはいけない一線が透明になり、事態は急加速。なんでもありの闘争状態が常態化します。

ここまであまり大きく触れてきませんでしたが「制作の民主化」のみならず「スポットライトの民主化」の影響も大きいです。誰もがその可能性を手のひらのデバイスの中に秘めており、かつ人気者でいられることはそれだけで麻薬的です。この記事で僕があげつらっている人たちほどの悪意がなくとも、油断していると無意識にその誘惑に負けてしまいます。たとえば既存楽曲を無断使用してバズったダンス動画は、オリジネイターであるミュージシャンの保有するスポットライトの一部を強制的に分配する行為です。ちなみに補足をすると、誰の得にもならず一銭も儲からなくたってバズると死ぬほど気持ちいい。

これも少し前の話になりますが、TikTokやYouTubeはオリジネイターへ適切な分配をすることを条件に、二次利用によるスポットライトの借用・収益の獲得を容認しています。僕の目には妥協点で与えることにしたパンとサーカスのように見えます。

広義に公権力ともいえるプラットフォーム側が彼らを容認することで、剽窃と借用の違いは曖昧で不明瞭なものになっていきます。創作の門戸が開かれると同時に、二次利用ユーザーは無自覚にすべて自分の手柄であると誤認識してしまう危険性が潜んでいます。

革命渦中の市街地内戦で

インターネットを中心としたテクノロジーは制作とスポットライトを民主化しましたが、ことインディーコンテンツにおいては既存の民主主義が崩壊しつつあります。かつてのインターネットは「その気になって機材を揃えて技術を磨けば人気者になれるかもしれないステージ」くらいのものでしたが、ハードウェアの進化とプラットフォームの充実よって「油断すると人気者になりたいという欲望を誘惑してくる存在」へと変容しました。

かつては情報格差を埋める「知識の供給源」だったりアンダーグラウンドの市民がペンを握れるようになった「民主化の立役者」だったりしたインターネットは、数字を奪い合う戦場になったのです。

※決して平和ではない今日において、センシティブな比喩表現を連発して申し訳ございません。しかしながらwebマーケティングの業界で恒常的に染み付いているいけすかない横文字の多くは、元来軍事的な語彙だったことにも留意したいです。

わかりやすさやインパクトばかりを優先して「革命」と表現しましたが、民主主義の拡大によるほつれという意味では「ポピュリズム」などと言い換えた方がより正確かもしれません。多数決が優先されやすいアルゴリズムである現状、人間の総体が私利私欲に満ちた魔獣ことリヴァイアサンであるなら、ネット空間は闘争状態 ……とまで言わずとも無秩序になりやすい場所とみることもできるでしょう。ちなみにリヴァイアサンとは旧約聖書に現れる海の怪物だそう。まさにぴったりです。

Google などはYMYL*に関するコンテンツに対しては専政的な規制を行ってきましたが、芸術や文芸、エンターテイメントといった質的価値測定が多義的な領域においてはその限りではありません。それこそが民主的なスポットライトのありかたですが、結果的に現状はあまり健全で快適とは言えません。

YMYL:Your Money or Your Life の略。人々の幸福、健康、経済的安定、安全に影響を与える可能性のあるコンテンツのこと。クレジットカードの記事とか。

もし自分の妹が天才女優だったとして

ダイナミックに迂回しましたが、話を映画批評とフラスコ飯店に戻します。

僕が迷っていたのは「そもそも既存のエンタメの二次創作である批評なんぞ不要かもしれない」ということ。そして「インターネットでの二次創作は行儀が悪くて暴力的だ」ということです。(後者の説明にウェイトをかけ過ぎてしまいましたが、ようやく本筋に戻ります)

・批評という行為はある意味で二次創作であること

・二次創作は、とくにインターネットでは行儀良くしないといけないこと

この2点が頭の中で言語化されるとともに、僕の心はすり減っていきました。自分以外の誰かの作った芸術の威を借りて上手いことを言おうとする競技を、とくにインターネットでやるにはめっぽう姑息に思えました。映画を検索ボリュームで比較することに何の意味があるのでしょうか。自分の体験を伝えるために映画を踏み台にするのは下品ではないだろうか。こうした囁きに心を折られてしまったわけです。

「何の意味があるねん」「誰が興味あんねん」といった自己否定は、創作を志す人間の心に巣食う悪魔のレギュラーメンバーだそうです。つまり読む人が読めば「こんなのは陳腐な “あるある” だ」と一蹴するかもしれません。それでもやはり「人の作った映画を踏み台にしてまで ……」という部分に大きな後ろめたさがありました。

「妹の名前を出してテレビに出ても、君が面白かったら問題ないじゃないか」

うのの弟であるハマカーン神田伸一郎が、沙莉の兄・オズワルド伊藤俊介にかけた言葉を思い出して自分を鼓舞することにします。引用を理由に一行足らずの紙幅でとびきりの有名人の名を4つも借りてしまった。構いませんよね? 「君が面白かったら問題ないじゃないか」なのだから。

ここまで字数を割いて言い訳しても、批評という行為の危うさはそれでも完全に消え去ることはありません。少なくとも一時的には「いらない」「下品だ」と心を閉ざしてしまったことはたしかです。自傷的かつ自嘲的な鬱の刃は、常にこちらを向いている。なんていうかこう、るろうに剣心の逆刃刀みたいな感じでガッツで押し返すしかないっぽいです。

この続きからは有料です。

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