「本当は甘いコーヒーが飲みたいのに、レジの店員さんに格好悪いと思われるのが嫌だから、飲みたくもないブラックコーヒーを買って、いつも後悔するんです」
飛ぶ鳥を落として焼いて食べるくらいの勢いで活躍しているお笑いコンビ、宮下草薙の草薙くんが、何かの番組でそんなことを言っていた。痛いほどに分かる。
趣味嗜好を人に暴くのは心の底から恐ろしい。「そういう人間なんだ」と一度思われたら、その引力からは二度と逃れられないような気がする。
自意識はオーバードライブするとどんどん悪い方向に働く。誰もそんなことは思わないはずなのに、自意識自身が「あなたは甘いコーヒーを買う人間なんですね、ははあ」と嘲笑する店員を自分の中に作り出してしまうのである。
自意識がとんでもないことになっている
そんなわけで好きなものや好きなこと、その他自分の選択を人に語ったり見られたりすることがたいへん苦手だ。だから気を許していない人間に「好きな映画はなんですか」なんて聞かれようものなら風の谷のナウシカのユパ様みたいな格好で窓から飛び出してその場から走り去りたくなる。
「好きな○○はなんですか」が苦手な理由は、主に以下の三つ。
- 「好きなもの」で相手にセンスを推し量られているような気がするから
- 「好きなもの」の一部分しか熱を持って語ることができないから
- 「○○が好きな自分」を演じることがストレスだから
今から、それぞれを順に説明していくわけだけれど、もう二十四にもなろう人間が他人の目を気にして好きな映画の一つや二つを語れないなんて、どうかしていると思う。なので、ぼくはこの文章を「好きなものが語れない」という自分の呪いを解くために書きます。好きな映画に対する愛を、精一杯ぶつけたいのです。
フラスコ飯店読者の皆様においては別の店ですっかり酔いつぶれた状態でやってきた新規客がほうぼうの体でカウンターに雪崩れ込み、度数の強い酒をかっくらいながらうだうだ愚痴を巻いていると思っていただければ結構。ぼくを肴に酒を飲むなり、たまたま持っていた生卵をぼくにぶつけるなり、テーブルの下で友達以上恋人未満といった関係性の人間にそっと手を重ねるなりしていてください。
ということで、まずは「好きなもの」で相手にセンスを推し量られているような気がする、という話から。
「貴様の技を見せてみろ」じゃねえよ
「好きな映画はなんなの?」
「イ、『インセプション』とか好きです……」
「あー(笑)いいよね(笑)ノーラン(笑)わかるわかる(笑)(全然分かってないなコイツ)」
好きな映画を聞かれると、その場をしのぐために無難な映画の名前を口にする。「笑」と「全然分かってないなコイツ」はぼく自身の自意識が勝手に作り出した架空の化け物なわけだけれど、会話のネタに好きな映画を聞いてくるような「映画好き」に好きな映画を聞かれたらたいていこうなってしまう。出てくる映画のセンスを推し量られ、「お前はその程度か」と思われるのが怖いのである。
だいたい、映画好きのひとが発する「好きな映画は?」からはじまる一連の会話は、ぼくにとってはいわば相手の戦いやすいフィールドに引きずり込まれて、「さあ貴様の技を我輩に見せてみよ」と言われているようなものだ。見せてみよじゃねーよ魔人探偵脳噛ネウロかお前は。
とりあえずジャブのように、相手に合わせて『インセプション』, 『時計仕掛けのオレンジ』, 『ショーシャンクの空に』あたりを繰り出すのだけれど、効いた試しがない。たいてい「あー(笑)あれね(笑)いいよね(笑)」で終わる。そうして決まって「なんだ貴様の技はその程度か」みたいな顔をされる。正確にはされていないのだけれど、自意識が視界にフィルタをかけてしまうのだ。
実際には会話下手なぼくに気を遣って話題を提供してくれているにも関わらず、上記のようなことを考えてしまうせいでまるで話が噛み合わない。ほんとうにすみません気を遣ってもらってるのにこんなことを考えてしまって、と思いながら、実際には面白いけれど一番ではない、無難な映画をその時その時で口にしている。
話題を出したところで語れない
ぼくが常々やっているような「相手に合わせて好きな映画をころころ変える」行為はほんとうに良くない。
できるだけ相手の好きそうな映画を言って、会話を弾ませようとする努力が実を結んだ試しがない。そのくせ、「あ、さっきちらっと見えたけど、この人携帯の待ち受け『レオン』のマチルダだ」なんて目ざとく見つけ出すと、「好きな映画話」になった瞬間に、「『レオン』好きですね~」などと言ってしまう。
そして、言い終わった後で、その映画について何も語れないことに気づく。映画にしろ小説にしろ、好きなシーン以外がすっぽり記憶から抜け落ちてしまうタイプなのである。だから些細な蘊蓄や細やかなシーンの話はできるくせに、全体のストーリーの話や映画史的な文脈に作品を当てはめることが全くできない。カルチャーを語るには致命的である。『レオン』はジャンレノが口を半開きにしてメチャメチャ面白そうに映画を観ているのが最高、ということ以外を語る自信がないし、この間はゲイリー・オールドマンが出ていたことをすっかり忘れていた。記憶能力が金田のバイクなみにピーキーなので、0か100かでしか覚えられないのである。
かと言って、辛うじて「語れる映画」を相手に合わせず放りだして、「あ……そうなんですね……」程度の盛り上がりで会話が終わってしまう方が怖い。だから、たいていは相手に合わせて好きそうな映画を言って、あとは脳内で記憶の残滓を浚いながら必死に相手の話に相槌を打っている。辛い。
「○○が好きな自分」を演じるのがつらい
最も辛いのは、一度「〇〇が好き」と言ってしまった相手の前では、ずっと「〇〇が好きな自分」を演じ続けなければいけないことだ。
知人にジャニーズがたいそう好きな方がいる。ぼくごときの「好き」という感情で片付けてよいのか分からないくらい愛の総量が多い方である。その方の文章を以下に引用する。
たとえば職場の同僚に週末の予定を聞かれたとする。ほんとうは友達と映画を観に行く約束をしているのに、「朝イチで原宿のジャニーズショップに並びます」と根も葉もないウソをついてしまうのだ。
わたしはウソをつこうとおもっているわけではない。自分のことを「生活の中心がジャニーズの人」だと認識している同僚に対して、なるべくその解釈に沿った回答をしようと意識しているだけなのである。なめこ「どうでもいいウソをついてしまう/ほんとうのことがいえない」
その結果、架空の予定をぽろりとこぼしてしまい、「なめこさんはさすがだなあ」などと変わり者好きの同僚から苦笑交じりの称賛を得たり得なかったりする。
(ダメです. )
http://damedesu.net/?p=655
気持ちがわかりすぎてつらい。我々には言葉の裏側に隠れる(もちろんジャニーズ追いかけてたんだよね?)という相手の期待をそこに見出してしまうのである。
人々はいつだって好きなものは常に行動や人となりに顕れると思っている。たとえば18世紀の法律家、そしてなにより『美味礼賛』を著したことで高名な美食家、ジャン・アンテルム・ブリア=サヴァランはこう言った。
あなたが今日食べたものを言ってみたまえ。あなたがどんな人か当ててみせよう。
現代語に意訳するとするなら、きっとこのようになるだろう。
「あなたが何の映画が好きかを言ってみたまえ。あなたがどんな人か当ててみせよう」
現代でプリア=サヴァランがTwitterでもやっていようものなら、きっとぼくは速攻で捨てアカウントを作成し、全てのツイートに「うっせーバカ、黙ってメシ食ってろお前は」とリプライを飛ばしていたことだろう。
「何かが好き」と表明することによって、人に「過剰」を求める輩が世の中には一定数居る……となぜか極端な被害妄想をしているぼくたちのような人間が、一定数居る。「ジャニーズが好きなんです」、「そうなんだ、この週末はなにしてたの?」、「(あ、来ました来ました、そういうことですよね、分かってますよ!)週末もジャニーズを追いかけてました!(と答えてほしいんですよね?)」と勝手な深読みをしてひとりで苦しんでいる人間がいる。
正直、こんな被害妄想からは一刻も早く抜け出したい。相手の好みに合わせてコロコロ好きなものを変えたりしたくない。自らの愛は自らの口で語りたい。
そして話は冒頭に戻る。この文章は自らの呪いを解くために書かれた文章で、だからぼくはここである映画への愛をしっかりと表明するつもりです。忌避していた「好きな映画はなんですか」という質問に、厚かましくもこの素敵なメディアで表明したいと思います。フラスコ飯店のお客様におきましては、各々お楽しみのところ大変申し訳ないのですが、手に持っているポップコーンや生卵、たったいま恋人になった人間のうつくしい手を離して、グラスを持ち、一斉に例の質問を唱和していただけますと幸い。
「一番好きな映画はなんですか?」
好きな映画ですか? 少林サッカーです。
少林サッカーはマジでやばい
そう、何を隠そう一番好きな映画は少林サッカーである。
思えば、この映画を好きだと公言したせいで「好きな○○は?」の質問に答えられないような人間になってしまった気がする。「好きな映画はなに?」「少林サッカーです」と答え、「へー(笑)カンフー映画好きなの(笑)?」「カンフーアクションできるでしょ(笑)やってみてよ(爆笑)」と訳のわからない雑な振り方をされてたいへん嫌な思いをしたことが多々あった。その時のどす黒い感情が「好きな映画はなんですか」の回答を濁らせ、心を閉ざし、人の感情の裏側を邪推し一人で苦しむような人間を形成したのかもしれない。
いやまあそんなことは置いといて、いずれにしろ、少林サッカーはやばい。だって少林でサッカーだから。少林でサッカーですよ? やばいじゃん。やばいですよね?
知らない方のために簡単にストーリーを説明すると、少林拳の普及を夢見る、武術のこと以外な~~~~~んにも知らない少林青年が落ちぶれたサッカー監督と出会い、各地に散らばった兄弟弟子たちを集めてサッカーをはじめ、最後は違法薬物で肉体がえらいことになった悪のサッカーチームをぶっ潰してハッピーエンド、あ、そういえば饅頭屋さんの綺麗な娘とも恋に落ちる(あと娘も武術の達人なのでラストバトルでキーパーをやってくれる)、みたいな内容です。意味わかりましたか? テキストにすると訳がわからないですね。wikipediaを参照。
主人公以外の兄弟子たちが最初は全然サッカーができず、基本的にめちゃめちゃ落ちぶれていてバカにされまくっているのがいい。最初の練習試合で不良たちにスパナでボコボコにされるのだけれど(少林サッカーの世界ではサッカーの試合にスパナが必要)、突如覚醒して不良たちをボコボコにし返す時の爽快感ったら!
『カンフーハッスル』しかり、周星馳の作品に共通することなのだけれど、最初はめっためたのぎったぎたにされて情けない思いをしたキャラクタが突如覚醒して相手をボコボコにし返すというストーリーのは単純明快で胸がスッとする。ドラマ『半沢直樹』でも同じようなカタルシスを得ることができた。あのドラマは悪役の「社会的失墜」が浄化作用になるわけだけれど、少林サッカーはもう、肉体的にボッコボコにするから余計気持ちがいい。これはネタバレですが、ラスボスは主人公のシュートを受け止めきれず全裸になります。
少林拳が強い。悪いやつが居る。だから悪いやつをやっつける(サッカーで)。少林サッカーの恐ろしいほど単純な勧善懲悪が恐ろしいほど複雑で黒か白か分からないグレーゾーンだらけの現代社会で生きるぼくたちの胸に突き刺さる。
とにかく好きなシーンがたくさんあって、語るべきところも多いのだろうけど、この映画のすごいところはいつなん時見ても面白いことだ。夏休みの宿題がまるで終わらなかった小学生のぼくも、自意識がとんでもないことになっていた中高生のぼくも、なにかを諦めはじめた大学生のぼくも、きっと目を輝かせながら炎を纏ったサッカーボールを眺めていた。きっとこれからも折れたゴールポストや脈絡なく始まる荒唐無稽なダンスシーンを観てけたけた笑い続けるだろう。
一度愛を表明すればこちらのもの。この文章を読んだあなたたちとなら、ぼくはもう映画というフィールドで戦うことができる。貴様の技を見せてみろ? おれの少林拳に敵うとお思いか?
解説『少林サッカー』(2001)(原題:少林足球)
監督:周星馳(チャウ・シンチー)
出演:周星馳(チャウ・シンチー)ほか
『食神』(1996)に続いて、周星馳(チャウ・シンチー)が監督・脚本・主演の三役を務めた。キャッチコピーは、「君はまだ、究極のサッカーを知らない。」。
この映画で「究極のサッカー」なるものを知った日本人はイナズマイレブンというお化けコンテンツを生み出したのだとか生み出していないのだとか。続編的作品として『カンフーハッスル』(原題:功夫)が撮られている。ぜひ、ラストバトルの周星馳の筋肉を見てほしいです。もう偽物みたいに完成しきっている。
文・渡良瀬ニュータウン(@cqhack)
編集・川合裕之
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