どうしようもなくへこんでしまったら、とりあえず踊りませんか。
曲をかけて、好きに体を動かすだけ。すごく簡単です。
みんなは普段、人前で踊りますか?
私は踊りません。ほぼ。
生活って難しい
毎日元気100%で暮らせたらそんなの本当にスペシャルハッピーライフ。
日々を過ごす中で悩みは尽きない。気分が落ちてしまう理由なんて、友人と仲違いしてしまったとか、なんだかやること為すこと全部うまくいかないとか、好きな人が優しくなかったとか。雨なのに傘を忘れたとか生卵を床に落としてしまい割れただとか。
そんな些細なことでも十分。積み重なってのしかかってきてすぐに落ちてしまう。
四六時中全部うまくいって、選ぶ選択肢全部正解最高だよ!って毎日はいつになったら過ごせるんだろう。そんな生活が楽しいのか、おもしろいのかは分からないけれどでもずっと元気がないよりはいい気がする。
と毎日考えたり喜んだり傷ついたり悲しんだりしながら過ごしているとやはりすごくハッピーな日もあればけちょんけちょんにダウナーになる日もある。
ハッピーな日はとことんハッピーを堪能して幸せな気分が連鎖していくけれど落ち込んでしまう日の過ごし方って未だに正解がない。自分の元気の出し方にまた悩んで落ち込んで、とことん負の連鎖で落ちていく。
毎日楽しく暮らすのって、かなり難しい。
という答えをいつか言える時は来るのかな。
ミュージカル映画みたいに生きたい
ミュージカルは、ストーリーの随所で登場人物たちの自己紹介や高ぶった感情、傷ついた心情などを歌や踊りで全力でポップに伝えてくれる。
もちろんストーリーを“魅せる”為のミュージカルシーンもあるけれど、「めちゃめちゃ嬉しいーーー!ハッピー!」な時は陽気な曲で陽気なダンス、せつない気持ちの時なんかは落ち着いた曲でしっとりとした歌を、というように登場人物が今どんな気分なのか曲調やダンスの様子で手に取るように分かることができるし、軽やかに受け止めることができる。
きっと今よりもっとスムーズに他人に歩み寄れる気がする。悲しいと思ったら泣きながら悲しい歌を歌う。嬉しいと思ったらハチャメチャに陽気な曲で踊る。そこが駅のホームでも、すき家でも。でも実際にこんなことをしたら“やばいヤツ”だ。
どうしても日常ではありえないシーン。でも表ではありえないだけで、自分たちの体の中ではそんなミュージカルのようなポップネスな世界が広がっているに違いないのだ。
そして私は何よりも、「ミュージカル“映画”」の生々しさにいつもくらくらする。自分が映画の中に居ると錯覚してしまうくらいに。
もちろん劇場で観るミュージカルも最高だし、生の空気感や臨場感がそこにはある。でもやはり大道具や小道具、衣装を使い数時間まっさらな箱をキッチン風に変えたり路地裏風に変えたりして物語を進めるミュージカルと、元々あるキッチンを作品の中の生活に合わせてアレンジする映画とでは視覚の生々しさがやはり全く違うと思うと思うのだ。(役者はまた別として)
視覚が生々しいと、錯覚を起こす。隣町に彼らが居るんじゃないだろうかと。今絶望の淵で感情露わに咽び歌っているんじゃないだろうかと。
私はミュージカル映画を観るたびに願ってしまう。
と。
ミュージカル映画こそ何よりもリアルなのでは
ミュージカル映画は「非現実」だからこそ憧れてしまう、踊りや歌があるおかげでキャッチーに楽しく観れるものだ、と思っていた。
でもよく考えるとそんなこと全然ないと気づいた。嬉しすぎて踊り出しちゃったり、悲しくなってどん底で歌い叫んだり、つまりは自分の感情を体現している。感情が剥き出しの状態で解放される。そう、ミュージカル映画の歌や踊りはキャッチーさや楽しく観る為だけのものではない。ましてや非現実的なものでも全くなく、生ものの感情と表現がきれいで新鮮なまま飛び交う中々に際どい映画ジャンルなのだ。
私たちは日常で “感情のコントロール” をして生きている。人を傷つけてしまわないように、つまづかないように、人に好かれるために。様々な理由の下で心の中ではもうバキバキに怒っていても我慢したり、狂って浮きそうなくらい嬉しくてもそつない反応をしたり、とにかく生きやすく生きたいからそうする。
多くの人が、たくさん我慢しているのだ。
ミュージカル映画はそんな私たちを蹴散らすように激情なものだ。
例えば『雨に唄えば』という映画で有名な雨の中でジーン・ケリーが踊り歌うシーンがある。
恋がいい感じに進み、嬉しさがとめられない様子のドン(ジーン・ケリー)。お互いに束の間の別れを惜しみながらも、彼女は家の中へ帰っていく。ドンはその様子を1コマたりとて見逃すまいといわんばかりの視線で見届ける。ドアが閉まり、余韻に浸りながらも帰ろうとするドンだが雨が降っている。いつもならタクシーに乗って帰宅するところを待っていたタクシーに去るように諭す。もしかするとこのシーンで彼は雨で頭を冷やしながら歩こうかなという気持ちもあったのかも。でももう雨なんかで覚めないよ!という空気に変わっていき彼は雨の中傘を閉じ終始ニヤニヤした顔で歌い、ダンスをする。
意中の相手とウキウキすることがあった日には家でも外でも晴れでも雨でも誰かに言いたくなるし、スキップなんかしてしまいたく、なる。大いになる。
それをしっかり時間を割いて最大限に魅せてくるなんて、なんて生々しいんだミュージカル映画は!
ミュージカル映画はそんなウキウキしたシーンももちろんだが悲しいシーンも当たり前に生々しい。そしてその落差がはっきりとカラーリングされている派手な作品が多く、個人的にはミュージカル映画ってそういった派手さも魅力だなと思ってはいるのですが、そんな自分の先入観を恥じる作品も実はたくさんあります。そしてそういった作品こそ、どんなに「リアルだ」とうたわれる映画よりも「リアル」だと思う。
『シェルブールの雨傘』という映画は本当にこれで、表現のグラデーションが非常に綺麗で、それでいて濃密だ。
ひとつの恋が始まり、置いてけぼりにされるストーリーは字面で見ると単純明快なストーリーに思える。
でもだからこそ、登場人物たちがこまかくも強い感情と向き合うシーンが多い。
「茶柱がたったわ」「お茶が薄かった」「母はお茶を淹れるのがうまかったな」「こぼして火傷してしまったら一目散に彼が飛んできて心配してくれた」
日々私たちが湯呑みにお茶を注ぐだけでも、感情やストーリーはたくさん生むことができる。
他人が見ると単純で小さな出来事で、ささやかな気持ちに見られるようなこともミュージカル映画で強く目の当たりにすることで生々しさが増す。
先程例にあげたお茶を注ぐという出来事でも、とある女性がお茶を淹れて泣いているとする。彼女の中では「茶柱がたったわ。はじめてよ。つい昨日に大好きな飼い猫が亡くなってしまったというのに、縁起のいいことが今日起こるだなんてなんて皮肉なの。最悪の気分だわ。いいことなんて何もあるはずがないのに責められているような気分よ…。もうここから逃げてしまいたい。」と様々な感情が渦巻いている。
でもこの様子を全くの他人が見た時きっと「女の人がお茶淹れてる」「なんか泣いてるな、なんかあったんだろうな」としかならない。小さくても、強い感情を抱く際に叫びたくなったり地団駄を踏みたくなったり水の中に飛び込んでみたくなったり、そんなコソコソした考えが体現されているミュージカル映画は「非現実的」だと思う反面、超「現実的」なものなのだ。
キャベツの千切りより踊る方が圧倒的にいい
みなさんは元気がなくなってしまった時、どうしますか?
嬉しくて仕方なくなった時、どうしていますか。
たとえば何かを解決する時って、根本の原因究明から入ることが多い。コナンくんもまずは現場をめちゃめちゃ漁って「どのようにしてこの殺人事件は起こったのか」を究明して犯人を突きとめて事件を解決する。でも「気分が突然ダウナー事件」では、何が原因なのか分からない、原因がたくさんありすぎてもうてんやわんや、なんだかとりあえず疲れた、などなど元気がなくなってしまったことに対して明確な理由なんか考えないでいい。どうしようもなく嬉しくなった時も本当はくるくる回ったりジャンプしたりしたいはずなのに、必死に上品でいる。言語化して排出できるように丁寧に用意しようとして渦巻く思いをうまく外に排出できずに落ち込む。全部壊してやる勢いで悲しんでいても富士山を一気に駆けのぼれそうなくらい喜んでいても私たちはばかみたいに必死に“綺麗”でいようとする。
最近今日の運勢やモヤモヤする時のライフハックで、「キャベツなど野菜を千切りをすると心が落ち着いてスッキリする」という文章をよく見かける。昨年あたりからよく見かけるようになった。流行ってるのかな。私はこれを知った時、「なるほど、確かに良さそうだ。」と納得した。でも5秒後にはもうそんな考えはすっかり無くなった。
「いや待って?千切りできないんだが?」
千切り、できない。いや細かく言うと千切りぽいものはできるんだけど、綺麗な千切りできない。
千切りがうまくできない人間もたくさんいるけれど、千切りが上手にできる人間ならもうそりゃスッキリするかもしれない。モヤモヤも消えるかもしれない、千切りが上手にできる人間ならば。
この発散方法、千切りができる人とできない人でかなり差が出てしまう。千切りが人間のデフォルト能力じゃないから。そして千切りができる人であっても千切りをした後の片付けめちゃめちゃ面倒じゃないですか?
まな板にも手にもひっついてくる千切りのかけらたちとかもう煩わしすぎる。
仮にキャベツの千切りをしてスッキリしたとしても、千切り後の後片付けなんて地獄だよ。千切りができる人間も、できない人間も共にかなりのリスクがある。
どうにも激しい感情が抑えられなくなった時はキャベツの千切りよりも、踊る方が絶対にいい。簡単だし、ラク。
安野モヨコさん作の「ハッピーマニア」という漫画でもこんな一コマがある。
この「じゃあ踊りなよ」と発言しているのがシゲタという女性なんだけど、作中でかなりバカ正直でバカ素直でバカ(作中で度々色んな人からバカと言われている)として描かれていてもう本能のままに駆け抜ける人なのだが、そんな本能剥き出しの人が踊りなよと諭すシーン。これこそ真理だ。
好きな音楽をかけるでしょう、好きに踊るでしょう、満足したら音楽を止めるだけ。
ちゃんとしたダンスじゃなくていい。ダンススクールに通っていなくても自分のどこかしらを動かすことさえできればいい。他人からみれば不恰好なポーズ、気持ち悪い動き、合ってないリズム、全部それで大丈夫。今部屋に一人だし、誰も見てないし、正解のダンスなんてないんだし。ヘンテコに好きに踊って、少しでも自分に正直になれるといいな。
私は私を励ます
おいしいご飯、うつくしいチーズケーキ、やさしい本、好きな色の爪、心地よい音楽。これは全部私の好きなものだけどこれで100%元気になれるか分からない。どれかでハッピーになるかもしれないしどれも意味無いこともあるしこのリストに無い何かでひょんな感じで回復することだってある。
「自分のことは自分が一番分かっている」という言葉があるけれど、そうなりたい。20年と少し生きているけれど「自分のこと自分でもずっと分からない」。だからその時々で私は私に「どうしたの?何すればいい?」と問い続ける。
自分でも分からない自分は、他人のようだ。まだまだ分からなくて、理解できない自分に向き合い続ける。日々自分以外のたくさんの人々とも向き合いまくっているのに自分とも向き合うだなんてそりゃ疲れちゃうよ。私たちは嫌でも毎日何かしらを感じてしまう。考えても分からなくて、分からないことが苦しくてとことん深くて暗いところに進んでいってしまうことがある。無意識だから止まれない。
止まれないから、踊ってみてください。
▷文・くどうしゅうこ
主にイラストを描いています。
シーサイドガール。最近しろい部屋に住み始めました。
文と絵・くどうしゅうこ
編集・川合裕之(フラスコ飯店 店主)
ミュージカル映画って、いいよね。
| 映画『ロシュフォールの恋人たち”>なに話したか覚えてないほうが心地いい | 映画『ロシュフォールの恋人たち』
楽しかった日の帰り道、「楽しかったな〜最高だな〜〜」とニコニコしながら帰る。ふと思い返したら「あれ? そういえばなに喋ってたっけ……」となる瞬間がよくある。数日経ったら思い出せたりするが、なぜだか一時的にハテとなる。めちゃめちゃ笑ったことは覚えているのに。なにで笑ったんだっけ、と。
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