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(C)Pokemon (C)2020 ピカチュウプロジェクト
20年くらい前だろうか、小学生の頃のぼくはコロコロコミックに載っていた新しい伝説のポケモン「ホウオウ」の存在に胸が躍った。
虹色の羽を持つ唯一無二の存在。まるで永遠の命を持っているかのような神々しい姿。ポケモンは人間のペットでもなければ友達でもない。人間よりも高次元な存在の生物なのかもしれない。そんなふうに感じたからだろう。
20年以上続くポケットモンスターシリーズの定番となっている「伝説のポケモン」と「幻のポケモン」という設定は今も尚、形を変えて子どもたちの心を昂らせる存在である!
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2019年にリリースされた最新ゲームシリーズの『ポケットモンスター ソード・シールド』でも伝説のポケモンのザシアン、ザマゼンタ、ムゲンダイナが登場し、ゲーム内では登場しない「幻のポケモン」であるザルードの存在が既に発表されている。
そんな「幻のポケモン」ザルードが登場する『劇場版ポケットモンスター ココ』を見るためにぼくは劇場に足を運んだ。
「泣いた。めっちゃよかった」というような世間の評判と違って、家族愛の話は子どものいないぼくが共感するには少し難しかった。と言いつつたとえば家出をする息子のカバンに父親がひっそり食べ物を入れておくという演出は結局泣ける。
だから結局、父親ではないぼくだけど、「泣いた。めっちゃよかった」
しかも主人公である少年ココの父親というのがザルードなのだ。
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仲間の群れから離れてまでも人間の子どもを育てたポケモン。そして、そのふたりの関係性を思い出すとやっぱり結局泣けてくる。岡崎体育による作詞作曲、トータス松本の歌うメインテーマ曲『ふしぎなふしぎな生きもの』がかかった時はやっぱり涙が溢れてしまった。
本来、「ふしぎなふしぎな生きもの」とは全てのポケモンたちに向けられるはずの言葉であるのだが、メインテーマの歌詞の中では子育てをする父親から見た子どもを指す言葉として使われている。本当に秀逸で作品の良さを際立てる一曲だ。
だけど、なぜだろう。冒頭のザルードの群れの大合唱のシーンから最後のセレビィ登場シーンまで、常に感じていたあの違和感。
ぼくが『ポケットモンスター』というコンテンツに抱く期待を裏切られたような……だけど、本当にいい映画だったような……
「ふしぎなふしぎな生きもの」であるはずのポケモンが人間のように会話して人間のように感情を剥き出しにしていく姿。「幻のポケモン」であるはずのザルードが子育てを通じてドンドン人間味を帯びていく物語に惑わされながら映画を見ていたような気がする。
映画館からの帰り道、頭の中に浮かんだそういったモヤモヤたちをひとつづつ整理していくと、今作『劇場版ポケットモンスター ココ』が全世代のポケモンファンに向けた新しいアプローチを仕掛けている素晴らしい作品であることに気がついた!
まずは、ぼくの頭の中に浮かんだモヤモヤが、一体なんだったのかをじっくり考えてみるところからはじめよう。もしもぼくと同じモヤモヤを抱いている人がいるのならきっとぼくたちは気の合う友達になれるんじゃないだろうか!
幻のポケモンなのに、ザルードは神秘的ではない
今回新たに登場した「幻のポケモン」ザルード。大人になっても「幻のポケモン」には胸が躍る!『劇場版ポケットモンスター ココ』の中で初めて登場するザルードは一体どんなポケモンなのか。一見悪役のようなフォルムをしているけど、この見た目で「父ちゃん」なんだから楽しみで仕方がない!
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(C)Pokemon (C)2020 ピカチュウプロジェクト
そもそも「幻のポケモン」とは一体なんなのか。
幻のポケモンは劇場版ポケットモンスターでメイン、またはキーキャラクターとして登場することが多い。ゲーム版の『ポケットモンスター』シリーズ(1996〜)には大きく分けて8作もの作品がリリースされていて、作品ごとに「幻のポケモン」と呼ばれる特殊な入手方法でしか手に入らないポケモンが存在する。歴代の幻のポケモンはシリーズの中でゲームを進めても登場しないという点とNintendoの開催するイベントでの配布や劇場版の前売りチケットの特典として配布されるという点が共通している。もちろん、今回の前売り券にはザルード配布用のデータパスがついてくる!
しかし、今までの「幻のポケモン」と比べるとなんだか物足りなく感じてしまったのはぼくだけだろうか。
これまでの「幻のポケモン」は唯一無二の存在だったのに対してザルードは映画の冒頭から群れで行動する。つまり、いっぱい出てくるのだ。あくまで希少種のポケモンであり、ただ一匹の個体であるという “幻っぽさ” に欠けるところがある。
神秘的なイメージをまとった幻のポケモン、たとえばミュウなんかと比べるとレアな感じがしない。だって、映画の最初からいっぱい出てくるから。
そのため他の「幻のポケモン」に比べてザルードに対する「かっこいい!」という感情が少なかったように感じる。
→【関連】かっこいい!とは一体なんだ?
ポケモンとデジモンの違いについて考える
ザルードファンの方がいらっしゃれば本当に申し訳ない。決してザルードを蔑みたいだけで書いてるわけではないのです。
だけど!だけど!
ザルードってホウオウとかルギアみたいにでっかくないし、ザシアン、ザマゼンタみたいに “シュッと” してないじゃないですか!ごめんなさい。かなり主観です。
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それに、サトシだってザルードを見た時にそこまでテンションが上がっていたわけではなかったですよね!なんならピカチュウを丸呑みにしようとしていた鳥ポケモンのウッウを見た時の方がワクワクしていたような気がする。そして、映画を見ているぼくもまた、ザルードの持つポケモンとしての魅力に対してワクワクできなかったのかも。
それはきっと、ぼくのイメージする「幻のポケモン」の神秘的な魅力からズレていたからなのだろう。
ザルードはポケモンである前に「父ちゃんだ」
その違和感の正体、それが今作のキーワード。ザルードは「父ちゃん」であるということ!ぼくの期待していた “幻っぽさ” を持っていない代わりにザルードは素晴らしい魅力を持っている!それは “親近感” である!
ぼくが見てきたこれまでの「幻のポケモン」は言葉は通じないけどテレパシーで人間に語りかけてきたり、何百年も生きていて仙人のような思想を持っていりする。だけどザルードからはそういった要素はあまり感じられない。どちらかというとすごく人間味があっていい父ちゃんだ。
ザルードが神秘的に見えないのはやはり、「父ちゃん」であることが一番の理由だ。人間の息子を育てる父ちゃんザルードからは、どうしても感情や思考が観客に伝わってくる。それはザルードたちが言葉を使って会話をすることが大きく影響していて『ポケットモンスター ココ』が今までのポケモンと明らかに違う点はここだ。
今までのアニメポケモンシリーズではポケモンたちは感情表現こそするが、言葉を使わなかった。ピカチュウは「ピカピカー!」など、「ポケモン語」のような言葉を使用していて、それぞれ種族の違うポケモン同士でのコミニケーションはとれているように見えるが人間とポケモンは言葉でのコミニケーションをほとんどとってこなかった。(ロケット団のニャースなどは例外ね!)
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(C)Pokemon (C)2019 ピカチュウプロジェクト
しかし、『ポケットモンスター ココ』ではザルード同士の会話を観客に聞かせるのだ!あくまで「ポケモン語」を話しているという設定の元、ザルードたちの会話は日本語で翻訳されて観客に伝わる仕組みとなっている。
無表情で唯一無二の存在の幻のポケモン、ミュウやセレビィのような神秘的な魅力が群れで行動しながら言葉を扱っているザルードからは完全に排除されているのだ!
けれども、ポケモンであるザルードの心情が伝わるということが本作の新しくて素晴らしい部分であることは間違いない!「ポケモンに育てられた子どもを育てたポケモン」それがザルードなのだから!育てられた側の人間と同じくらい育てた側のポケモン、ザルードの心情までもが描かれている。それこそがこの物語の醍醐味なのだ!だからこそ父ちゃんザルードとココふたりの絆が観客の涙をさそう。
だけど、その心情が伝わるからこそ神秘性がかえって欠けてしまう。観客が父ちゃんザルードに親近感を抱けば抱くほどザルードから “幻っぽさ” が失われていってしまう。父ちゃんザルードは人間に近いポケモンであり、人間に似た感性を持ったポケモンであるからこそ唯一無二の存在ではあるのだけれど、だからこそ「幻のポケモン」としての神秘性が薄く感じてしまったのだろう。
そして、物語の中での描かれ方もザルードたちから神秘性を排除しているように感じる。
「幻のポケモン」の概念を変えたザルード
今回の悪役ビオトープカンパニー所長のゼッドがザルードたちの巣である「癒しの泉」に何十年もたどり着けなかったことから、ザルードの群れは「希少種のポケモン」ではあるのだけれど、決して「幻のポケモン」として扱われていない。
生態や生息地などは既に解明されているのか、研究員たちもサトシもザルードに対する執着はほとんど見せない。
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そのため、ビオトープカンパニーの研究対象はザルードではなく、あくまでも「癒しの泉」である。ザルードの生態に神秘の力が宿っていたり、人間の欲を駆り立てる能力があるわけではなく、あくまで「癒しの泉」という神秘のエネルギーを持った泉を守るポケモン。それがザルードなのだ。そう、ザルードの群れは実は幻の存在ではなかったのだ!
本作中にこんなシーンがある。いがみ合っていたザルードたちとオコヤの森のポケモンたち。森を侵略してくる人間に対し、自分たちだけでは太刀打ちができないとザルードたちと森のポケモンたちは手をとりあって立ち向かい勝利をおさめる。それまで「癒しの泉」を我がものとしていたザルードたちは自分たちが特別な存在ではなく、森の一因に過ぎないということに気がつく。そして「癒しの泉」を開放し、森のポケモンやビオトープカンパニーの人間たちと手を取り合って森を再建していく。
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ザルードたちが守ってきた癒しの泉を守るという「森の掟」は「ザルードたちの掟」ではなく、オコヤの森に住む全ての「ポケモンたちの掟」であったことに彼ら自身が気がついたのだ!
つまりザルードたちは「希少種のポケモン」であり「幻のポケモン」ではなかったのだ!ゲーム版のポケモンの中では「幻のポケモン」として成立しているのだけれど、これまでの「幻のポケモン」とは違った描き方をされているのが今回の劇場版に登場するザルードなのである。
作品を見ている観客たちから「幻のポケモン」とされているザルードたちが人間たちやそのほかのポケモンたちと目線を合わせることで、自らその荷をおろすという斬新なエンディングはぼくがそこにモヤモヤとした違和感を感じていたからこそ受け取ることができた素晴らしい着地点だった。
神秘性の塊、セレビィという存在
ぼくの感じたモヤモヤは「幻のポケモン」という存在が神秘的な存在ではなかったこと。そのモヤモヤを取っ払うことはできたのだけど、その更に奥にかかるモヤモヤが存在する。
それは、『劇場版ポケットモンスター ココ』という作品がなぜあんなにも神秘的なイメージを帯びた作品に仕上がっているのかという点だ。そう、20年前に「幻のポケモン」として登場したセレビィが少し姿を変えて登場した理由が結局またぼくの頭の中をモヤモヤとさせる。
本作品を見た人には伝わるかもしれないが、作中では「癒しの泉」の存在や怪我をしたザルードを人間のココが神秘的な力で治療するシーンなど、スピリチュアルな作用がいくつか発生していることには違いない。
それらの謎を一身に受け止めてくれる存在。本作の本当の「幻のポケモン」それがセレビィなのではないだろうか。
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今回の物語の中心はザルードとココの親子の絆を描くこと。そのためにザルードから神秘性を排除するような演出が多く施されている。
だけど、ポケモンというのは「ふしぎなふしぎな生きもの」である必要があるのだ。だからこそ過去の劇場版には神秘的な存在のポケモンが必ず登場して、ふしぎな力を見せてくれる。人間には到底理解できない力を発揮するポケモンが劇場版には必要不可欠なのだ!そこで登場するのがセレビィという神秘性の塊のような存在。
ときわたり (時渡り) と呼ばれる時空を超える能力によって綺麗な森に姿を現す「幻のポケモン」セレビィ。セレビィが劇場版『ポケットモンスター』に初めて登場したのは20年前の『劇場版ポケットモンスター セレビィ 時を超えた遭遇』(2001)という作品である。今回の『劇場版ポケットモンスター ココ』に登場するセレビィは当時の作品のセレビィと別個体として描かれているため色違いの姿で登場する。
映画.comより
しかし、『劇場版ポケットモンスター ココ』の中ではセレビィについて深く語られること少なく、20年間温められたセレビィの設定を借りて説明なしに物語がすすむ。その辺りをもう一度確認することでなぜセレビィが最後に登場したのか、なぜセレビィがこの物語に必要だったのかがわかるのだ!
今作品の中では語られていなかったのだが、ゲームやアニメの過去作の中で語られているセレビィの設定をいくつか紹介しよう。
セレビィには時空を超える能力があり、セレビィが現れた森は、草木が生い茂るほどに活力が満ち溢れると言われている。長らくセレビィが姿を消していたオコヤの森に物語の最後、姿を現すことで森の明るい未来を運んできてくれたことを表している。
セレビィが時渡りで去ってしまった後の森の奥では、タマゴが見つかることがあるのだが、このタマゴはセレビィが未来から持ってきたものと言われている。
ザルードの群れの長が父ちゃんザルードに対して「お前が森に現れてからセレビィは姿を消した」と伝えるシーンから父ちゃんザルードはセレビィが未来から運んできた卵から生まれた選ばれしポケモンだったのではないか?と考えられるのだ。
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だから、父ちゃんザルードには他のザルードにはない特別な治癒能力が備わっていたのではないか?そしてその神秘の力はセレビィから授かったものだったのではないかとも考えられるのだ!
そして、ココとザルードの出会いのシーンで赤ちゃんココの周りにピンクのオーブが描かれていたことを思い出して欲しい!セレビィが飛び去った後に残るあのピンクのオーブたちが赤ちゃんココの側にまだ残っていた。ということはココと父ちゃんザルードを引き寄せたのもセレビィが関係しているのではないかと考えることができるのだ!
解らないから面白い!
「ふしぎなふしぎな生きもの」それがポケモン
ここまで読んでくれたみなさん。本当にありがとうございます!ぼくの頭の中にあったモヤモヤが完全に消えました!なぜ「幻のポケモン」であるはずのザルードが神秘的に描かれなかったのか!なぜ20年も前に登場した「幻のポケモン」セレビィが時を超えて再登場したのか!
この二匹の「幻のポケモン」がポケモンというコンテンツの可能性をまた広げてくれたことを感じてぼくはワクワクしている。
ここまで敢えて語ってこなかったが、ゲームとの互換性による前売り券の売り上げを上げるために用意された「幻のポケモン」という考え方もできるかもしれない。だけど、それをぼくは悪だとは思わない!なぜならその関連性をここまできっちり描き切ってくれることで劇場版とゲーム作品のどちらにも相乗効果が生まれているから。
セレビィという神秘性の塊によって導かれた人間味のあるポケモンザルードは、新しい時代の「幻のポケモン」としてみんなに愛されるポケモンとなったのである!
今回の記事でぼくの行き過ぎた解釈もあったかもしれない。だけど、こんなにも夢中になって謎を解き明かしていくことができるコンテンツがまだまだ続いていくことを願っている。
もう30歳にもなる男が未だに理解できない「ふしぎなふしぎな生きもの」。それがポケットモンスター。縮めてポケモン。まだまだ謎と冒険が広がっていくことに期待している。
文・金城昌秀
編集・川合裕之(店主)
解説『ふしぎなふしぎな生きもの』トータス松本(2021)
歌:
トータス松本
作詞作曲:
岡崎体育
編曲:
野村陽一郎
前述したように本来、「ふしぎなふしぎな生きもの」とは全てのポケモンたちに向けられるはずの言葉であるのだが、メインテーマの歌詞の中では子育てをする父親から見た子どもを指す言葉として使われている。本当に秀逸で作品の良さを際立てる一曲だ。
作詞作曲を担当した岡崎体育は「僕の考える父親像で一番の理想がトータス松本さん」(引用元: https://corocoro.jp/132129/)という理由でオファーを出したと語っている。
また、岡崎体育も筆者と同世代でありポケモン第一世代。子どもの頃から『ポケットモンスター』というコンテンツの変化をリアルタイムで感じてきた世代である。
本作品の他にもアニメ『ポケットモンスター サン&ムーン』のテーマソング『キミの冒険』(2018)、『ジャリボーイ・ジャリガール』(2018)を担当しており、自他共に認める相当なポケモンファンである。
関連記事:ポケモンとデジモンの違いは?
ポケモン第一世代のぼくにとってもう一つ欠かせないコンテンツが存在する!それは『デジモンアドベンチャー』というアニメ作品だ。
ここではポケモンとデジモンの違い。そしてポケモンにはないデジモンの「かっこよさ」の秘密に迫る!?
リザードンとメタルグレイモンを比べたりしてます!(こっちの記事ではデジモンを褒めちぎってます!)ごめん!リザードン!