500日間すれ違い続ける男女の話

Last updated on 2020.03.12

ぼくには夢中になって自分をコントロールすることができなくなるほど好意を持ってしまった恋人がいた。

もう10年ほど前の恋愛なので後悔などひとつも残ってないが。『(500)日のサマー』を観るとあの頃を思い出す。この映画をはじめて観た時はそんなトラウマ恋愛の直後で自分を主人公トムに重ねてえらく感動していた。小悪魔系女子により量産された被害者への救済映画だと思って繰り返し観ては恋愛自己肯定感を高めていた。


10年たって久しぶりにこの映画を観ると「あれ?ヒロインのサマーってそんなに身勝手なことをしてるわけじゃなくてトムの人生経験不足なんじゃないか?」という疑惑がぼくの心の中に浮かんできた。

今ならわかるぞ!サマーがどうして映画『卒業』のラストシーンで号泣していたのかが!なぜ婚約中のパーティーに恋人未満セフレ以上のトムを招待したのか!

全国のトムくんにこのコラムを是非読んでもらいたい!そしてできれば10年前の自分自身に読んでもらいたい。そして知ってもらいたい。トムとサマーは500日もの間、すれ違い続けただけなのだということを。

この物語はラブストーリーではない

(C)2009 TWENTIETH CENTURY FOX

『(500)日のサマー』の主人公はLAのグリーディングカード会社に務める冴えない青年トム。職場にはおばさんばかりで出会いもなく恋愛なんて程遠い生活を送っていた。そんなある日職場に秘書として入社したサマーという女性に一目惚れ。子どもの頃からラブソングやラブストーリーを信じて生きてきたトムにとって運命の出会い。彼女との500日間のラブストーリーが始まるはずだった。

トム主観でストーリーが進められるこの作品、あらすじを読む限りどう考えてもラブストーリーだ。絶対にそうあるべきなのだ。しかし、映画の冒頭ではこんな語りが入る。

この物語は男女の出会いの物語。ではあるのだが、ラブストーリーではない

一体全体どういう意味なのか!ぼくはもう10年もの間この映画を何度も見返しているのだけど、冒頭のこの語りの意味を理解したのは実はつい最近だったりする。 この語りの中に出てくる「ラブストーリー」というのは世間一般のそれとは少しずれているのかもしれない。

トムが信じていたラブストーリー。つまりそれは運命の出会いであったり、そこに生じる悲劇であったりする「そんなことある訳ないじゃないか!」と言ってしまいたくなるような映画の中ならではの出来事。そう言った類の事件は一切起こらない作品なのだ!

この映画はラブストーリーではない。運命の出会いは現実に起こりうると信じてやまない青年トムがサマーという女性と出会い夢に敗れ、その真意に気づく物語なのだ!

ではなぜ、10年もかかってぼくがその見解に至ったのか。それは、青年トムではなく、はじめてサマーの気持ちを考えて『(500)日のサマー』を観た時に答えが見つかった。

あの500日の間にサマーは一体何を考えてトムと向き合っていたのか。ぼくのわかる範囲内での女心というものを書いてみることにしたので女性読者はお手柔らかに読んでもらいたい。

サマーの気持ちを巧みに隠す構成

まず、マーク・ウェブ監督の『(500)日のサマー』というこの作品。隠れたメッセージが多すぎる。「この物語はラブストーリーではない」という言葉ひとつとっても理解するのがぼくにとってはとても難しかった。それはトム主観で作られたシナリオをよりトム主観で描くための演出が多すぎるのだ。

本編に入る直前に原作者のメモが目に飛び込む。

“Author’s Note: The following is a work of fiction. Any resemblance to persons living or dead is purely coincidental. Especially you Jenny Beckman. Bitch.”

「これはフィクションである。生きている者もしくは死者と似ている部分があったとして、まぎれもなく偶然である。特にジェニー・ベックマン。クソ女め」

まだどんな映画かもわからない段階で ビッチへの復讐心を突然見せつけられるのだ。

そして「ジェニー・ベックマンてだれ?」 という謎を抱きながら映画へ入っていくのだが、そんな人物作中にも出てこない。つまり、本当に原作者のリアルメモなのだ。

謎の人物ジェニー・ベックマンは
一体何を表しているのか

「ジェニー・ベックマン」は原作者、脚本家のスコット・ノイスタッターが捨てられてしまった実在する女性の名前。そんな女性をモデルに作られたのがサマーというキャラクターなのだ。スコット・ノイスタッターはそんな経験を生かしこの作品を生み出したに違いない。

この一文がある以上、サマーはBitchとして描かれているのだ。それはトム主観で進むストーリーであるための表現であり、紛れもなく原作者自身の言葉である。

しかしこの一文を置くことと本当のサマーの気持ちは別問題である。

つまり「この映画の中ではサマーはBitchに見えるように描かれてます」という証明でありメッセージなんだとぼくは考える。

そういった演出がサマーをドンドンBitchに見せるのだ。「あんなクソ女に引っかかったトムがバカなんだ!」なんて意見がでるように巧みに演出を重ねるもんだからサマーがかわいそうに思えてくるほどだ。

派手な演出はサマーの心を隠している

それにしてもこの映画、とにかくサマーの気持ちを表現するシーンが少ない。トムとサマーの500日間の物語を時系列をぐちゃぐちゃに混ぜてサマーの気持ちが今どんな風に変わって行ったのかを巧みに隠している。

トムがネガティブな時はトムの髪の毛はボサボサで、表情、声のトーン、BGMに至るまで全演出を注いで彼の感情を表現する。ポジティブな時なんて軽快な音楽に乗ってトムの周りの街の人たちまで踊り出す。そのあたりの演出が楽しすぎて何度も繰り返し観たくなる映画ではあるのだけど、そんな演出に紛れてヒロインのサマーの感情はほとんど描かれない。もはや映画内の計画的「ハブり」行為だ。あれは制作サイドのサマーイジメだ。

だけど、この映画はただのクソ女に対する復讐映画ではない。それらの演出から表現されているのは恋愛に不器用な男の心理描写によく似ている。

ぼくはその事実に気がつかないほどトムの感情を追っかけ続けていた。恋愛に夢中になっている最中のぼくは相手の気持ちどころか自分の情緒すらまともにコントロールできていない。それを映画として表現しているだけでこの作品がいかに優れているかがわかる。

では、本題のサマーの心情は一体どこに隠れているのか。ほとんど感情を表に出すことのないキャラクターであるサマーが作中、一度だけ大号泣するシーンがある。それは映画『卒業』のラストシーンを観ている時。一緒に観ていたトムもそのふたりを観ているぼくもあのいつも冷静で無表情のサマーが一体なぜ大号泣しているのか全く理解できないのだ。

そう、トムの心を追いかけるように映画を観ている以上、トムが理解できないことは理解できないように作られているのだ。この辺りこの映画本当によくできている!

ぼくもトムもあの映画のラストシーンの意味がわからない訳ではない。

花嫁を結婚式当日の協会に奪いにいく主人公とそれに応じる花嫁。式場から飛び出した二人はバスに飛び乗り。笑顔で見つめ合いながら最後部の座席に着く。カメラは二人を真正面から捉える。二人の表情は徐々に笑顔から真顔に。そしてエンドロールへ。

映画史に残る伝説のエンディングである。映画の登場人物たちの人生はこの後まだまだ続く。それを考えると真顔になるのは当たり前だ。

ただ、そのシーンを観て大号泣するサマーは一体どんな感情を抱いていたのか。『(500)日のサマー』という映画はそのあたりを巧みに隠すのだ。だからこそあの大号泣には何か大きなメッセージが隠されていると考える。

その微かなメッセージの香りを頼りにかなり時間を掛けてサマーの心を探してみた。
まず、あの500日間の時系列を整理して、その都度サマーが何を思っているか、ぼくの見解を交えて紹介する。さあBitchクソ女扱いされてるサマーを助けに行こうぜ。

サマー視点で
物語を時系列順に追ってみる

(C)2009 TWENTIETH CENTURY FOX

一体、サマーは500日の間、何をしたかったのだろう。

「500日」というのはあくまでトム視点の500日なのでサマー視点の「1日目」をはじめてトムが自分に好意を抱いていると知ったカラオケバーの日と設定する。そしてそこから順を追ってサマーの心を見て行こう。

出会ってすぐのカラオケバーでの会話(28日目)

トムが自分に好意を持っていることはわかっている。嫌いではないから一応フラグだけたててみるが思ったより食いついてこないなぁ。といった印象。

社内のコピー室でのキス(31日目)

恋愛に奥手な男が相手ならこちらから仕掛けるサマー。どうせ仕掛けるなら派手な方が面白いでしょ?まぁ、向こうが好意を持っていることはお見通しだしね。恋愛に本気になるなんて馬鹿らしいと考えているからこれくらいのこと簡単にできちゃう。

IKEAでのデート(34日目)

「真剣に付き合う気はない。気軽な友達でいてほしい。怒る人もいるけどどうかしら?」と確認する。

コピー室でのキスにしてもこの発言にしてもサマーはとにかく「楽しみたい」のだ。そしてトムにも同じ気持ちでいてほしいからこそこんなことをサラッと言えちゃう。

世の中のトムくんたちよ!決してサマーは弄びたい訳ではないのだよ。サマーはトムも自分と同じ感覚の持ち主であって欲しかった。もしそうではないのなら変わってもらえるかもしれないと感じていたのだ。

自宅にトムを招いて……(109日目)

夢の話をする。

“私は空飛ぶ夢を良く見るの。レースみたいに全速力で走ってると、地面がゴツゴツした坂道になるの。
さらに走ると足が地面から離れ
身体が浮き上がる。すごいでしょ?
自由で安らぎを感じるの
そして気づく。私は独りぼっちだって”

続けて「こんなこと話したのははじめて」なんて言っちゃうもんだからトムくんは勘違いしちゃうよ。自分は特別な存在なんだって。だけどサマーはいつも本当の気持ちを口に出しているだけなのだ。このシーンでサマーは自分だけの秘密を誰かに喋ってしまったことをただ驚いているだけ。
トムの願う「運命の出会い」「真実の愛」とは全く関係のないことなんだよ!

映画『卒業』を観て大号泣(290日目)

「運命」や「恋愛」を信じないと豪語していたサマーが映画『卒業』のラストシーンを観て大号泣。映画のような恋愛に冷めているようなそぶりをし続けて生きてきたサマーであったが、トムとの生活の中でどこかでそんな出会いを期待しているんだということに気がつきはじめていた。それはきっとトムの影響もあるはず。そんな中『卒業』のラストシーンである。あの「真顔」を観て「ほら。やっぱり現実はこんなもんなんだ」と思い知り、大号泣。
もう一度確認しておこう!サマーは最初から素直に感情を表に出すタイプの女の子なだけであって、トムを弄んでる訳ではないのだ!


キスしたければ職場だろうがキスするし、秘密の話をしたい時に目の前にいる相手にしちゃうんだ。泣きたい時はそれはもう大号泣だよ。

そして戸惑うトムに対して「会うのを控えましょう」の言葉。そりゃもうトムからすれば意味不明である。でもサマーはカラオケバーの時点で「誰かの持ち物になるのは嫌」と言っているじゃないか。そしてトムとの関係性を信じて楽しんで頑張ってみたのだ。だけどやっぱりダメでした。ってことでしょう。

ミリーの結婚式(402日目)

3ヶ月以上もあっていなかったトムとサマーが元同僚の結婚式場へ向かう電車内にて遭遇。
ふたりの会話がはじめてかみ合いだす。トムもサマーも偽ることもなく本音を語る。ふたりの会話はBGMにかき消され聞こえない。この辺り少しづつ近づいて来ていた両極端だった双方の「恋愛観」がちょうど交わっている。この後逆方向へずれていくことも知らずに。
サマーはトムをパーティーに誘う。後になってわかるのだがこの時すでに別の男からの求婚中。そうなのだ!サマーはもしかするとトムに何か期待を込めたんじゃないか?

※この辺りから本当にぼくの想像なので「こんな解釈もあるんだなぁ」程度に読んでね!

パーティー当日(408日目)

サマーははじめてトムに本音の気持ちを語らない。映画『卒業』のようにこの場から連れ去って欲しかったんじゃないか?と仮説を立てる。以前までのサマーなら「私を連れ去ってよ!」なんて言ってきそうなもんだけど、今のサマーは違うのだ。「理想と現実」の中で戦っていたのはトムだけじゃなかったんじゃないだろうか。そしてふたりの理想は大きくすれ違い、サマーが婚約指輪を友達に見せているところを目撃したトムはその場から逃げ出してしまう。

トム覚醒(442日目)

サマーは描かれていないけどトムが仕事を辞める際に放つ言葉はまさにこの映画のテーマだと言える。

「本音を語るべきなんだ。映画もポップスも嘘ばかりだ。 “愛” だって?そんなものには意味がない」

カラオケバーでのサマーとは言葉の選び方は違えどトムはこのあたりからサマーと同じような感情を抱き始めたのだ。そして、トムは再就職のため “理想” としてではなく、 “現実的” に建築の勉強を始める。

思い出のベンチにて(488日目)

サマー最後の登場シーン。

「トム、あなたが正しかったのよ。偶然デリで知り合ったのが今の旦那さん。運命を感じたのよ……」

トムは言う。

「僕の信じていたものは全部ウソだった。運命。心の友。真実の愛なんて」

このやりとり、ふたりの理想と現実がカラオケバーの会話から逆転しているのだ。

そしてサマーはトムの手を握る。おい!トム!いけよ!お前の望んでいた理想が目の前に現れたんだぞ!その手を握って走り出せばお前の望んだ恋愛ができるじゃないか!でも、今のトムはすっかり「現実派」。理想の先にある現実を考えると走り出したりできないのだ。「幸せになることを願う」なんて空っぽの言葉をサマーに投げかけてしまう。サマーは苦笑いを浮かべ、黙ってトムの前から去っていく。

サマーが最後にトムの手を握ったのはきっと「これがトムとの最後のチャンス」と考えたからではないだろうか。運命を信じるトムなら私を連れ去ってくれるのではないかと。最後に一度だけ「真実の愛」にかけてみたのではないだろうか。
「この物語は男女の出会いの物語。ではあるのだが、ラブストーリーではない」

冒頭に語られたあの言葉はこのシーンで回収される。もし、あの時トムがサマーの手を握り走り出せば、ふたりに訪れた出会いは「運命」であり『(500)日のサマー』はラブストーリーになれたのだ。

トムはもうあの頃のトムには戻れない

結局トムとサマーはすれ違い続けたのだ。

理想と現実のバランスがほとんど真逆なふたりが出会い、お互いの持ってない感覚に惹かれあいドンドン盛り上がるラブストーリー。そんなの嘘なんだ。きっとそこにはトムとサマーのようなすれ違いがあるだけ。

10年前のぼくはいつもそんな理想に魅せられて映画のような恋を求めていたのかもしれない。

だけどこの10年の間に気づいてしまったんだ。「現実」の恐ろしさとその強さに。今のぼくならサマーの結婚相手になれるのかも。だけど、もう二度とトムには戻れない。理想を追い求めるトムが現実に気付いたようにぼくにはもう走り出す勇気はなくなってしまった。だからこそサマーの気持ちに共感できた。そして、10年間理解できなかった「この物語はラブストーリーではない」という語りの意味がわかったんだ。

解説『500日のサマー』

監督:
マーク・ウェブ

脚本:
スコット・ノイスタッター, マイケル・H・ウェバー

出演:
ジョセフ・ゴードン=レヴィット, ズーイー・デシャネル, クラーク・グレッグ, ミンカ・ケリー, ジェフリー・エアンド, ポール – マシュー・グレイ・ギュブラー, クロエ・グレース・モレッツ, レイチェル・ボストン, パトリシア・ベルチャー ほか

ミュージックビデオ作品を多く手がけてきたマーク・ウェブ監督の長編デビュー作。後に『アメイジング・スパイダーマン The Amazing Spider-Man』(2012), 『アメイジング・スパイダーマン2 The Amazing Spider-Man 2』』 (2014) などを手がける。

ミュージックビデオ作品ではWeezer, Green dayなどのアーティストたちの楽曲にのせ、ドラマ仕立ての作品が多く、アーティストを知らなくても映像作品として楽しめるものばかり。

『500日のサマー』のサマー役ズーイー・デシャネルが所属するバンドShe&himの『Why Do You Let me Stay Here?(Version 2)』という楽曲のミュージックビデオではトム役のジョセフ・ゴードン=レヴィット演じる銀行強盗とズーイー・デシャネル演じる銀行員のミュージカル仕立ての作品が見られる。

 文・金城昌秀
編集・川合裕之(フラスコ飯店 店主)

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金城昌秀 Written by:

ロックバンド「愛はズボーン」でGt.Voを担当。 様々なアーティストのMV監督や動画編集、グッズやCDジャケットといったアートワークも手がける。