ワニが死んだ。
喪に服す間もなく即グッズ展開、即ミュージックビデオ、即映画化。
げんなりした、という声も少なくありませんでした。たしかに、捉えようによってはまるで「いい話だと思ったら青汁のCMだった」あるいは「新聞のCMだった」というような肩透かしかもしれませんね。
さらに舞台袖からは国内最大手広告代理店がちらつき、「お前さんとこの会社が “死” を商品にするのかい」という指摘もあいまって、それはそれは盛大なまつりあげになってしまいました。
それはそうと。
筆者がいっとう気になったのは、このブームに際して「ぼくの・わたしの100日間」を紡ぐコラムが人々の手によって発表されていたことです。
きょうの文章は「これについて教えて!」というお客さんの要望にこたえた【リクエスト記事】です。
今回のお題は「100日後に死ぬワニ」。
これについてフラスコ飯店 店主が考えていきます。
100日間かけて認知されたそれぞれの登場人物たち。固有名詞を持たずしてこんなにも愛されるキャラクターは珍しいでしょう。
同人漫画、コラ画像、考察(*)、そしてオチの予想。さまざまな形態の「二次創作」がネットの海に投げ込まれて大きなトレンドとなりました。
その激しい潮の流れのなかで目を凝らすと「ぼくの・わたしの100日間」とでも言えようコラムのような短文がいくつか観測できます。あのワニに関するあれこれから飛躍的な距離をとり、まったく無関係な私事が語られているのです。これは大変興味深い出来事であり、いまの時代を象徴するような現象と言えるかもしれません、と筆者は考えています。
一体なぜこんなことが起こったのか。
きょうはそういうお話。
(*)考察:正確に考察と形容できないような代物も多数存在しますが、便宜上こう呼びました。
拡がり続ける「ぼくの・わたしの」私有空間
死んだワニとは関係のない――つまり漫画作品のテクストに一切向き合わない――私的な文章が語られたのは一体どうしてでしょう。
その理由は「100日後に死ぬワニ」がTwitterという空間で毎日更新される連載だったからではないかと筆者は睨んでいます。新聞の連載ではこうはならなかった。
SNS(いいえ敢えて略さずに「ソーシャル・ネットワーキング・サービス」と呼びましょう)の媒体で毎日連載されていたことが肝に違いありません。と言うのも「ソーシャル」つまり社会的な空間は、そのほとんどが私的な領域になっているからです。
ソーシャル空間の私有化
今日のソーシャル・ネットワークは、「ソーシャル(=社会的)」とは名ばかりで非常に私的な空間になっています。
たとえばTwitterの真髄は言うまでもなく「つぶやき」です。その場その場の出来事、およびそれにともなう感情をすぐさま投稿するわけです。サービスは変わりますが、もっとも分かり易いのはInstagramでしょうか。眼前の風景や出来事を写真・動画という形式に真空保存してシェアするのですから。オフラインの私的空間から直接チューブが伸びて、そのままインターネットに接続されているイメージでしょうか。
ソーシャル空間の私有化に拍車をかけるのは “フォロー” というシステム。僕たちは自分の好きなコンテンツ、自分に似たユーザーの投稿を選ぶのです。一度選べばこの傾向は固定化されます。リツイートなどで射程範囲外からの投稿が自分のタイムラインに現れることもあるでしょうが、ある程度の類似性があるはずです。というのも、あなたの選んだユーザーが選んでリツイートしたコンテンツなのですから。PULLに見せかけて実はPUSHで情報を受けている。所謂「フィルターバブル」のひとつです。
こうした仕組みで、全世界と地続きになっているはずのネット空間は、多くの人にとっては「自室」あるいはせいぜい「部室」程度の狭さに落ち着くことになります。「わたくしごと」がソーシャルに滲出するのです。
見出しでは「ソーシャル空間の私有化」と表現しましたが、多くのユーザーは「私有化」していることそれ自体すら意識していないでしょう。
インターネット上の空間は各々の持つ私有地の集合体となり、逆に現実世界は限りなくインターネットのための行動が増える。だってほら、タピオカミルクティーを写真撮らないで飲み干しちゃうのはもったいないじゃないですか。
阿吽の呼吸で提供される自分だけのコンテンツ
場合によっては「知らず知らずのうちに勝手に」私的空間にカスタマイズされていることも。イマドキはもう枚挙にいとまがないのでここでは多くを語りませんが、せっかくなのでひとつだけ例示しましょう。
Netflix は「サムネイル画像」をいくつも用意していることを知っていましたか?
たとえば『マトリックス』なら「アクション」「SF映画」「00年代」「キアヌ」などといった様々な要素に分解することができますよね。これらの要素ごとに、それぞれその特徴を最も強調するサムネイルがあるのです。このように細分化した解釈を、ユーザーの好みに合わせてぶつけていく。
いまやこのようなパーソナライズは当たり前といっても過言ではないでしょう。このような便利な環境は、ひとつの誤解を生みかねない。それは「この世は自分中心で回っている」という無意識のおごり。デジタル端末を通して提供されるコンテンツが自分の興味・感心に関連付けられているのが当たり前になった世界において最も陥りやすい誤謬です。繰り返しになりますが、今日の多くの人にとって、インターネットは不特定多数の行きかう社会的な場所とはもう言い難いのです。
インターネットは「自室」あるいはせいぜい「部室」になりつつあります。
このあたりは多くの先人が指摘している通りです。
私的空間に慣れると
私的な読みしかしなくなる
このような私的空間でキャッチした情報は、大抵は自分の持つ文脈で瞬時に読むことができます。
それ自体は決して悪いことではありません。危険なのはどんなテクストが飛んできても、自分の文脈「のみ」を使って勝手な解釈をするようになってしまうことです。深くまで潜って読解するのは面倒だし、相手の背景をわざわざ調べるなんて手間は省きたいのです。
そこに浮かび上がる模様の中から自分の任意の情報をはめ込んで、自分の好きな物語に変換して飲み込む。テクストそのものはもはや関係ない。自分と同じ境遇のキャラクターが居ればここぞとばかりに全力で「共感」する。さながらロールシャッハテストだ。
と、このような鑑賞の方法に僕自身は最大ボリュームで警鐘を鳴らしています。とはいえある程度は仕方のない、避けられない現象であるのも事実です。
人間はそもそもこの種の「余白」を感じてしまう動物なのですから。
余白を感じるニンゲンという動物
たとえば、多くの観客にとって映画『君の名は。』における「感動」の源泉は「わたくしごと」でしょう。空洞化した主人公たちの余白を間借りして、映画というテクストとはまったく別の世界に存在していたハズの自分自身の身の回り出来事を上手に配置して物語をつくりあげるのです。
それはきっと星座を作るのと同じです。
自分の手の内の情報のみを頼りに点と点を繋ぎ合わせることで、自分の解釈できる絵を作り上げる作業。
冷静になって考えてみてもくださいよ。ベテルギウス、リゲルをはじめとする冬の星々たち。あれ、人の形に見える? 本当に? 教科書で補助線を引いてもらってはじめて「まあ……」とちょっとだけ譲歩するようになります。
だとしても、その人型、オリオンに見える?断定できる? 本当に?
うっそだあ。僕は認められませんね。そんなの昔の人の恣意的な解釈じゃないですか。
このように、そもそもニンゲンは余白から「自分の」物語をつくってしまう動物なのです。
もちろんある程度は仕方ありません。たとえば日本人が「おいでおいで」と手招きしたつもりが、異なる文化圏の人にとっては「あっちへ行け」と追い払われたと勘違いされる。だからといって記号に頼らず生活していくのは不可能に近いので、自分たちの手の届く範囲の文化の記号に則って生活をするほかないのです。自分を取り巻く環境の記号や文脈からは逃れることはできませんから。
ワニの死と、わたしの自分史
話をワニに戻しましょう。
そんなニンゲンが、非常に私的な空間であるネット上で、ワニの死と邂逅する。今まで毎日接してきた(これは誤解なわけですが)ワニの絶命。
毎日見てきたワニが死んでしまったという事件はもはや私事になり、激しく感情を揺さぶられた「私」は口を開かずにはいられない。何かをそこに書かずにはいられないのです。
また、この漫画の定型がこの意欲をさらに掻き立てます。「100日後に死ぬワニ」と銘打たれた4コマの最上部には「10日目」のように残りのライフが表示され、4コマのすぐ下には「死ぬまであと90日」と残りの時間が突き付けられます。
枠の中の世界の住人であるワニは、フィクションの枠外に記された自分への死の宣告を知ることなく何てことのない日常を過ごすのです。
これを受けて読者は「自分だって100日後生きている保証はない」という事実を再確認し、共感を胸に自らの半生を振り返り、あるいはこれから先の未来に目を細めます。そうして彼らは身の上話を紡ぎ始めるのです。これが筆者の考える「ぼくの・わたしの100日間」のことの顛末です。
私的な読みや私的な解釈が必ずしも悪いということではありません。そういう気軽でカジュアルな遊びだって必要でしょう。けれども、きょう僕が言いたいのは、私的な読み「だけ」しかできない人間が社会の一員であるのは危険だということ。
大事なのは「共感」ではなく「理解」だ。「共感」できなくても「理解」できるかもしれない。少なくとも「理解」しようとすることを放棄してはならないのだ。
簡単に「共感」してくれるな | 小説『劇場』レビュー
別の記事で安尾くんが小説「劇場」評でこのように語っています。理解できないことを無視する社会は危ない。では理解のためには何が必要か。そのためには読解が必要なのです。自分の持っている文脈だけに頼らず、幅広い視野を持ち、場合によっては知識を新調し、自らの目を疑いながらテクストに向き合う姿勢を失ってはいけないのです。
しかし残念ながらいまのソーシャル空間において、こうした文化を醸成させるのはきっと難しい。
さらに私的になる日常
そのうえ、この私的な日常はより濃密なものになります。
というのも、昨今僕たちはかの感染症の影響で家にいることが多くなりました。外に出て楽しむことが制限されてしまいましたが、甘んじずに工夫するのが人間の素晴らしいところ。自宅で働くリモートワークが推奨され、配信コンテンツの数は急増。「Zoom 飲み会」を主流とするオンラインでの集会も活発になりました。
けれども良いことばかりじゃない。いま僕たちが置かれている環境は、最も私有な空間である 自室”が常にネットと接続されている状態です。そして繋いだその先の世界も “自室” だ。
物事を、自分の文脈でしか読むことのできない流れがさらに加速されないだろうかと僕は冷や冷やしている。もちろん、自分自身も。
そういえばネットにまた小さなバズが起こった。
ワニが死んでしばらくして「100日後に死ぬワニ」の人気ランキングが発表されたのだが、誰も投票なんてしていなかったのだ。1位のワニですら得票数は53ポイントしかない。
5月7日は四十九日の法要だったそうだ。あれからもう1か月余りも過ぎたなんて信じられない。あの頃の僕と言えば、まだ引っ越しの準備すらしていなかった。そういえば僕の祖父の四十九日のときは大学受験が忙しくて……
きょうの文章は「この映画について教えて!」「この題材で何か作って!」というお客さんの要望にこたえた【リクエスト記事】です。
今日のお題は「100日後に死ぬワニ」でした。
みなさんもお気軽にオーダーしてみてください。
お問い合わせはfrasco.htngmail.com または Twitter @frascoHtn のDMまで!
解説『100日後に死ぬワニ』(2020)
wikipediaによると略称は『100ワニ』。いやいやそんな略称は聞いたことがないけれども……。ネット上の毎日更新の4コマで、日を追うごとに死の瞬間がカウントダウンされる。ワニが死ぬその日にはTwitterトレンド入りするなど、賛否両論ありながらもなんだかんだみんな彼の結末を気にかけて過ごしていた。いま考えると平和だったね。
また、この場を借りて力強く表明しておきたいのは「電通」「広告」「ステマ」といったキーワードから連なる否定的な文脈に関して、僕はかなり楽観的だということ。プロモーションの速度はダサかった(=ある意味で間違えていた)かもしれないけれど、娯楽作品をお金にしようという発想、そのために自分よりも優れた組織に手を借りるという選択は別にまったく不思議ではない。決して間違いではないと思いますよ。
文・川合裕之(店主)
編集・和島咲藍
絵・miharu kobayashi (@386_drawing)
関連:共感の危うさ
「共感」の力であり危うさ。それは「理解」を飛び越えてしまうところにあるのだろう。他者の心情は他者のものである。それは決して自分のものにはならない。しかし「共感」はまるでそれが自分のものになったかのように感じさせる。だから速く強く心を揺さぶる。だけどそれは勘違いかもしれない。他者のものは他者のものなのだから。
他者のものを他者のもののまま、知ろうとすること、「理解」しようとすること。そしてその先で「共感」に近い何かが訪れるかもしれない。大事なのは「共感」ではなく「理解」だ。「共感」できなくても「理解」できるかもしれない。少なくとも「理解」しようとすることを放棄してはならないのだ。
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