Te wo Arai mashou.

「本当に私って映画好きなの??」18歳、3歳のドロシーに問いかける
:『オズの魔法使』『レ・ミゼラブル』『ロシュフォールの恋人たち』

「あなたの趣味はなんですか?」

「私の趣味は映画を見ることです」

私にとって初めて会話する人との定番のやりとりだ。映画を見ることは面白い。当たり前だ。もちろん作品それぞれによって好みの差があったり、退屈に感じる作品もあるが基本的に全体として映画鑑賞という行為は楽しく、毎度ワクワクする。

でも時々フッと糸が切れたように映画を見る気が起きない時期がやってくる。映画を見ていることが当たり前になりすぎて、映画一本一本に対してのめり込むような感動や心からの「面白い」という感情を自分は本当に持っているのかわからなくなる。

え?? 本当に私って映画好きなの???

この文章は過去の私が抱いた映画に対する「面白い」という感情に真っ向から向き合い、「映画が好きな私」を取り戻す文章である。

「趣味は映画鑑賞です」の使命感

「今月は〇〇本見たな、上出来上出来。」

なんていう考えは映画好きがよく抱くものではないだろうか?

でもそんな時「映画を見て感動した自分」より「〇〇本も鑑賞した映画好きな自分」に対して満足しているのでは?

そんなことを思っていたらだんだん映画鑑賞に気が乗らなくなってくる。私は「映画好き」のはずなのに。「映画を見ることが趣味です。でも最近は映画を見ることに気分が乗りません」そんなしっちゃかめっちゃかな発言をすることになってしまう。

映画好きの話をもう一つするとすれば、「この作品見とかないと映画好き名乗れないよね〜」なんていう人がいる。

その言葉を聞くとちょっとムッとする自分がいる。人それぞれの好みがあるんだからみんなその映画を見ていて面白いと思っているなんてなんたる思い込み! 見る映画なんて自分が決める!

そもそも「映画好き」ってなんだろう? 映画が好きな人、それは当たり前だ。しかし、それなりの数の人が映画好きという肩書きを背負ってしまっているからこその使命感や縛りを感じてしまっているのではないだろうか。映画じゃなくてもいい。読書だって料理だってそうだ。

「本好きなのに夏目漱石読んだことないの?」
「料理好きなのに毎日自炊しないの?」

「〇〇好き」と名乗ることが時として負担となる。

関連記事:好きなものを語ることの恐ろしさについて、あるいは『少林サッカー』に対する恋文

「映画好きなんだから時間の許す限りたくさんの映画を見なければならない。」

「この世に言う名作を面白いと思わなかったら映画好き失格だ。」

そんな先入観が先走ってしまって結局映画そのものに対して自分が純粋に感動しているのかわからなくなってくる。

感動ってなんだっけ? 面白いってなんだっけ?

そんな疑問を持つ私に対して過去の私はいくつかの映画を以て答えを教えてくれる。

確かに「トキメ」いていた幼少期
『オズの魔法使』

みなさんは自分が初めて見た映画を覚えているだろうか?

金曜ロードショーでやってたジブリ映画? お父さんが好きで見てた『バック・トゥ・ザ・フューチャー』?

私にとって映画の一番古い記憶はたぶん3、4歳に遡る。映画『オズの魔法使』を見た時のトキメキはなかなか忘れられるものではない。自分が普段会う人たちとは違う目の色をした人々、自分が話す言葉とは違う言葉で歌われる歌、確立された世界観も相まってテレビの中に全く知らない世界が広がっていた。

IMdbより

『オズの魔法使』が好きすぎた4歳の私はお母さんが買ってくれたDVDを保育園から帰ってきたら毎日見た。保育園には毎日、主人公ドロシー(ジュディ・ガーランド)のシンボルである三つ編みおさげ(しかもお気に入りの髪留めはドロシーが着ているドレスの色と同じ水色!)で行って友達に自慢したけれど、ドロシーと言っても誰にも理解されなかった記憶がある。

自分は一本の作品にそこまで入り込むほど本当に大好きだったのだ。見るたびにドキドキして周りに呆れられるほど何度も同じ作品を見る。まだまだ知っている世界が少ないからこその新鮮さとトキメキ。

この感覚って18歳になった今はもう得ることのできないものなのかもしれない。

「感動」を初めて体験した小学生
『レ・ミゼラブル』

『オズの魔法使』へのトキメキから数年経ち小学生にもなると、私にも「周りの子が好きなもの=自分の好きなもの」というミーハー心が生まれてきたりした。みんなと足並みを揃えることが第一で、他の子が興味を示さない「映画」というジャンルにはあまり意識が向いてなかった時期の到来である。

新たな転換が訪れたのはそんなミーハーな自分がそれなりに成熟していたときだった。周りの子たちに合わせて当時人気だったなめこのグッズを集めることに執念している11歳の私に対して祖母が「映画館に『レ・ミゼラブル』を見に行こう」と声をかけてきた。それまで見ていたファミリー向け映画とは毛色が違ったし、小難しそうな映画より他の流行りのキャラクターの方に興味が向いていた私はその誘いに対して渋々だが行くことを決意した。

(C)Universal Pictures

結果、半強制そして前情報&期待値ゼロで見に行った『レ・ミゼラブル』に度肝を抜かれた。キャスト一人一人から溢れ出る生命力や愛、主人公ジャン・バルジャンがパン一つを盗んだ罪で19年間投獄された不遇さ、貧困に苦しむ市民や革命の波に翻弄される若者の姿はそれまで見ていたアドベンチャー映画とは確実に違っていた。その映画館で生まれて初めて「感動」して映画で泣くという体験をした。

小生意気でミーハーな小学生が「ちょっと大人の映画」の世界に初めて足を踏み入れ、それまでの自分からステップアップした瞬間だった。

関連記事:ジャン・バルジャンの目を通して学ぶ「フランス革命」|映画『レ・ミゼラブル』

新たな面白さのあり方を見つけた高校生
『ロシュフォールの恋人たち』

結局、映画を見て「面白い」と思うとき、私たちはその映画の何に対して面白いと思っているのだろうか?

これは私個人の想像だが、先の展開が読めないスピード感があるストーリーと泣けるラストがあればたいていの人はその映画に満足し、「面白かった」と言うのではないだろうか。ヒーローとヒロインの恋の行方にドキドキしたり、大切なものを守るために自分自身を犠牲にする主人公に泣くことは確かに見る者を満足させる。

しかし、どれだけストーリーが面白くても感動して滝のように涙が溢れても、全ての作品が深い印象に残るか、と言われるとはたまた完全にそうとも言い切れない。

『レ・ミゼラブル』を通して体験した感動から徐々に見る映画の本数が増えると同時に「何を以て素敵な作品は素敵なんだろう?」という疑問が自然と湧いてくるようになった。そんな自分に一つの答えをくれたのはジャック・ドゥミ監督の『ロシュフォールの恋人たち』(1967)だった。

軽やかかつ頭に残る音楽に合わせて踊る、主人公である双子姉妹をはじめとした登場人物たち。彼らがポップな衣装を着て恋に恋して歌って踊る姿は見る者の気分を晴れやかにする。その一方でこの『ロシュフォールの恋人たち』、ただ単純に楽しいだけではない。エッと突っ込んでしまいたくなる場面やちょっとスパイスが効いているようなシーンもあり、絶妙な甘辛具合となっている。

(C)cine tamaris 1996

ストーリーとしてはそれぞれの登場人物の恋模様をいちいち追いかける上、一人一人気持ちを歌で表現するので進みは遅いし、号泣を誘うようなシーンもない。

けれど確かに見終わった時私は『ロシュフォールの恋人たち』に「感動」していたのだ。

『ロシュフォールの恋人たち』に対して「感動したポイントはどこ?」と聞かれると本当に困るものだ。計算し尽くされ、エキストラの衣装にも気を遣ったジャック・ドゥミの執念? 単純には進まない登場人物たちの身の回りの出来事が幾重にも重なったまどろっこしいストーリー? フランスの超豪華キャストたちに加わるアメリカのスーパースター、ジーン・ケリーと『ウエスト・サイド物語』(1961)でオスカー俳優になったジョージ・チャキリスの絶妙な存在感? 挙げ始めるとキリがない。ストーリーが!とかキャストが!とかを通り越してもはや壮大な魅力を感じてそれらに「感動」しているのだ。

映画を見る本数を重ねると、その映画の「目に付くポイント」が増える。その監督の個性は立ってる? 映画全体の統一感は? この内容を歴史に照らし合わせるとどんなメッセージが見えてくる? 挙げ始めるとキリがない。より多くの作品を、よりたくさんのポイントで面白いと思えるようになる。これぞまさに無限の可能性。目の前に広がるほぼ無限にある選択肢たち(映画)に「次はどれにしよう?」と胸を高鳴らせるわけである。

関連記事:なに話したか覚えてないほうが心地いい | 映画『ロシュフォールの恋人たち』

何かを本気で好きでいることって難しいけど大切

映画を見る時の価値基準が増え、映画を見ることが楽しくなった。有名な作品もその場で目について気になった作品も貪るように見た。

「映画が好き」これは自他ともに認めるところとなっていた。

しかし、大きな洞窟に入っていって珍しい鉱石を探すことに集中しすぎてふと気付いたら暗闇の中で迷ってしまった冒険家のように、突然、自分の周りに溢れる映画たちの真ん中で立ち止まってしまう自分がいた。

「好き」に伴うプレッシャー

価値基準が増え「映画好き」を背負うことによって私の映画の見方はどんどん理屈っぽくなってきた。「ここの色の統一感が絶妙」「ストーリーの全体のバランスとスピード感計算され尽くしてるな〜流石」そんな見方をするようになっていた。そんな理屈っぽく映画を見てる自分に対してなんだか好感が持てなかった。

また、いわゆる名作を見るときは「これを面白いと思わなかったら映画好き失格になってしまう」といつの間にかプレッシャーを感じるようにもなってしまった。

映画好きなんだからたくさん映画を見ないと。面白いと思わないと。

結果私はそんなプレッシャーに負けてしばらく映画から離れる時期に入った。

お悩みにはやはり「適度な換気が必要です」

あまりにも好きすぎてそのものから逆に離れてしまう、なんて滑稽なジレンマだろう。

また幼少期に『オズの魔法使』を見たときのようなトキメキを感じたい。

また小学生時代に『レ・ミゼラブル』を見たときのように感動したい。

けれど、よく考えたらその感覚はなかなか得にくくなっているのは当たり前なのだ。だって大人になるにつれて否が応でも見える世界は広がるし、驚きや新しい経験は減っていく。私自身、映画を見ることから実際半年くらい離れて今でも昔みたいに貪るように見ることはできていない。

私って本当に映画が好きなのかな? もしかして本数を見ることに躍起になって本当の価値を見いだせていないんじゃないかな?

でもそんなことを考えつつ、テレビで映画関係の話題が取り上げられてたら食い入って見てしまうし、友人と共通の映画の話題になるときにはその映画の印象に残った部分がフラッシュバックしてきて胸がドキドキする。

この間こんなことがあった。「友人におすすめの映画を教えてくれ」と言われた。彼が今まで見て気に入った映画を聞き、性格や嗜好を思い出し「これ好きかな?」という作品を選定して教える。後日、その友人が「この前言ってくれた作品すごく好みで面白かった。やっぱり聞いて正解だったわ」と言ってくれた時、なんだかものすごく嬉しかったし、映画が好きで良かったと思った。

今年はご時世柄、どんな人も自分の奥底から湧いてくる着地のしようがない複雑な感情を持ち、悶々と向き合ったことだろう。

悶々と自分のなかで何かに悩み続ける時間ももちろん大切なのは言うまでもない。でも悩みすぎた時にはヒュッと新しい風を吹かせるように、他人の視点を取り入れたり、スパイスになるような環境に足を踏み入れてみるのも悪くはないのかもしれない。

もちろんそうするだけで答えが出て、すんなり問題が解決、スッキリ!なんてことはほとんどない。もしそうなら全国の書店からとっくに自己啓発本コーナーなんて

ものはなくなっているだろうし、「最近モヤモヤしてることがあってさ……」と人をご飯に誘う口実もなくなってしまう。

だから私はこれから先しばらくまだまだ悩みつづける。

悩んで悩んで新しい風を入れてまた悩む。

「密閉はダメです。ちゃんと一定時間ごとに換気しましょう。」

まさしくその通りだ。空気も思考も換気しよう。

そんなわけなので、もしあなたが何か熱中してることに対して本気で悩んでいるのなら誰かに聞くといい。「私って本当に〇〇好きなの?」

もし、あなたのそれに対しての愛ある行動を目の当たりにしたことが一度でもあったなら私はこう返す。

「当たり前じゃん! それを好きなあなたが一番輝いてるよ!」

だからやっぱり、私も映画が好き、なんだと思う。

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 文・Minami
 絵・Miharu Kobayashi
編集・安尾日向

「好き」って複雑

好きなものを語ることの恐ろしさについて、あるいは『少林サッカー』に対する恋文

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なに話したか覚えてないほうが心地いい| 映画『ロシュフォールの恋人たち』

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