川上弘美はもうマザーコンピューターになってしまいました| 『神様』から『某』まで

Last updated on 2019.11.06

好きなものを語ることが恐ろしい。好きな映画は? 好きな音楽は? 好きな女性のタイプは? そんな質問に答えようとするたびに喉の奥に冷たくてどろどろしたものが溜まってうまくことばが接げなくなるのだけれど、唯一「好きな作家は?」という質問にだけはすんなり答えることができる。川上弘美がたいそう好きである。平易と思われる文章の中にユーモアと晦渋なメタファーが埋め込まれ、道を歩いていたらいつの間にか異世界に飛ばされたり五百年くらい時が経っていたりするような心地がするから、好きである。

ところが、最近のぼくは川上弘美にまつわる二つの問題に悩まされている。一つは、川上弘美という作家が世間からは誤解されているような気がすること。もう一つは、川上弘美がすっかりマザーコンピューターになってしまったことである。

まずは前者の問題から説明していこう。ちなみに、前者の問題が結構長いので読者諸賢は心されたし。偉そうに言ってすみません。ちょっとだけ長いんですけどよければ読んでください。

川上弘美は「恋愛小説作家」?

「川上弘美が好きなんです」と伝えると、たいていこう返される。

「あー! 『センセイの鞄』の! 恋愛小説とか好きなんだ?」

『センセイの鞄』は2001年に平凡社から出版された作品で、その年の谷崎潤一郎賞を獲ったベストセラーである。70歳になろうかという元教師、松本春綱ーー「センセイ」と、その元教え子の四十代女性、ツキコさんの恋物語だ。

恋物語、といっても波乱万丈、海千山千を超えた純愛物語、というわけではない。二人は居酒屋で出会い、酒を飲み、時々花を愛でたり骨董を愛でたりし、島に旅行に行けばうすく愛撫しあい、泥のように眠る。

それじゃあ、次はどこに行きましょうか。
ディズニーランドなんか、いいですね。
デズニー、ですか。
ディズニー、です、センセイ。 

川上弘美『センセイの鞄』

なんでも小泉今日子と柄本明の主演で2003年にWOWOWでテレビドラマ化もされたらしい(が、ぼくはまだ見ていない)。15万部も売れたということだから、そりゃキョンキョンだって出演しますね。そんなこんなで、『センセイの鞄』は川上弘美を一躍売れっ子作家に押し上げた。

実写化した作品というと、『ニシノユキヒコの恋と冒険』も挙げられる。こちらは恋愛短編集。ニシノユキヒコという見た目も気配りもセックスも完璧に近いのにいつも人間に離れられてしまう男性が主人公。短編の中で徐々に歳を経て、二十代から五十代になっていくニシノユキヒコ。その時々で彼と近しい女性の視点から、ニシノを描く作品だ。

ニシノユキヒコ役に竹野内豊を据え、鳴海瑠璃子、尾野真千子、本田翼とほとんどオールスターに近い配役で挑んだ映画だが、どうやら評価は高くないらしい。たしかにぼくもこの作品は観たはずなのだが、あまり印象に残っていない。ただ竹野内豊がかっこいいだけの作品だった、ということしか覚えていないのである。

他にも、川上弘美は恋愛を扱った多数の短編・長編を書いている。『センセイの鞄』, 『ニシノユキヒコの恋と冒険』といった「恋愛小説」のヒットによって、彼女は世間の一部の層からは、「恋愛小説家」として見なされている節がある。

もちろん、川上弘美の恋愛小説はすばらしい。ほんとうにすばらしい。何がすばらしいのかを上手に説明できないのがもどかしく、そして川上弘美についての文章を書くのであれば何かしらの答えを用意しておけという話なのだが、それはまた別の機会にさせてください。とにかく川上弘美の作品は良いのだが、「恋愛小説家だよね」という色眼鏡を通して彼女を見つめるのは絶対に損である。

男と/女が/思いを/通じ合わせたり/通じ合わせられなかったりして/くっついたり/離れたりする/物語を/作る作家?

恋愛小説それ自体は素晴らしい。尊い。「ただの」恋愛小説家なんてこの世には一人だって存在しない。そんなことは重々承知している。承知している上で、川上弘美は「恋愛小説家」の範疇にはとどまらない。

川上弘美は想像以上にやばい

例えば、川上弘美のデビュー作、『神様』(1998)はこんな牧歌的な書き出しから始まる。

くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。歩いて二十分ほどのところにある川原である。

『神様』

「くま」である。まごうことなき「くま」である。この「くま」は隣に住んでいる。この日は弁当を持って、ひとりといっぴきで川原に散歩やハイキングに行くのである。

その「くま」と異種間で恋に落ちるわけでもない。ただハイキングに行って、神様の話をしたり、くまが川でお土産用の魚を取ってくれたり、「わたし」用のブランケットを差し出してくれたりする話だ。何を隠そうこのくまは非常に紳士的な「くま」なのである。異種間のコミュニケーションには友愛としての触れ合いはあれど、恋愛の「れ」の字も描かれることはない。

思い返してみれば、1996年の芥川賞を受賞した「蛇を踏む」は、踏んでしまった蛇が老女に変化して家に棲みつき、最終的には身体の穴という穴から体内に潜り込む話だし、『蛇を踏む』とともに単行本に収録されている「惜夜記」は「背中が痒いと思ったら、夜が少しばかり食い込んでいるのだった」という書き出しからはじまったかと思えば、あとは悪夢的な「変化」のイメージが炸裂し続けるドラッグハイな短編である。

そもそも川上弘美はお茶の水女子大学の理学部生物学科でバフンウニについて研究する傍ら、SF研究会に所属し、卒業後はSF雑誌の制作を行っていた。ちなみに、そのSF誌が休刊の憂き目に遭った後は理科教師として働いている。同僚の教師に『田紳有楽』を勧められて授業をサボって職員室で読む話などがエッセイ集にも載っているので、興味のある方はぜひ。

そして、先ほど引用した『神様』はインターネット文学賞の走りであるパスカル短編文学賞を受賞しており、その審査委員として筒井康隆が加わっている。川上弘美のルーツがSF的作品に在りそう、ということが空気感でなんとなくお分かりいただけるだろうか。

たとえば「存在/不在」を主要なテーマに置いた『真鶴』という作品を読んでみると、川上弘美が「恋愛小説家」にとどまらないということがよくわかる。礼という名の夫が突如失踪し、16歳の娘(名は百。百、と書いてもも、と読む)とともに取り残された作家の女性が主人公(名は京。京、と書いてけい、と読む)の長編小説である。

置いてゆかれたその後も、愛していた。愛することをやめられなかった。ないものを愛することは、むずかしい。愛している、そのこころもちが、こころもち自身の中に、はいりこんでしまう。袋が裏がえるように、こころもちも、裏がえってしまう。

『真鶴』

夫の失踪、そして百が時折感じる「ついてくるもの」の存在ーーいるのにいない、いないのにいる。『真鶴』がただの恋愛小説にとどまらないことをこの引用を読んで少しでも感じ取っていただければ幸いである。居なくなった夫(「礼」=「れい」=「0」)を夢幻の世界に求める京(10の16乗)の独白と、「真鶴」という特殊な磁場に誘われ、異界へ向かい、形ない存在と血と肉の間で揺れる。そんな詳細な描写を見ると、ああもう川上弘美にはかなわない、という気持ちになるんですよねぼくは。

そして、徐々に川上弘美はどんどんひとつの完成形に向かっていく。『なめらかで熱くて甘苦しくて』(2013)に収録されている「aer」の書き出しは、こんなふうだ。

そのしろものはとてもやわらかくて垢がたまりやすくて熱くてよくわめくものだった。しろものが出てきた時は苦しくていたくてずるっとしていて時々は途中で眠ってしまってようやく出てきたらあんまり紫色でみにくいのでがっかりした。

「aer」

この文章における「そのしろもの」とは、自らが産んだ子のことである。ぼくはこの描写を読んで、なんだか既視感をおぼえた。フィクションにおける人工知能やアンドロイドが、「どうして人間は恋愛なんて無意味な行為を行うのでしょうか」と疑問を呈すあの感じがフラッシュバックしたのである。浦沢直樹の漫画『PLUTO』でゲジヒトも同じようなこと言ってた。

あれ、川上弘美、なんかマザーコンピューターみたいになってきたな。なんか、すごいことになってきたな。そう思っていたら、案の定、とんでもない作品が生まれてきたのである。

川上弘美はマザーコンピューターである

今この話を語りはじめるにあたり、わたしは少しばかり感傷的になっています。いや、感傷的という言葉は正確ではありませんね。わたしはこれまでの長い時の流れの中で、感傷的になったことは一度もありませんでしたし、そもそも感傷的になるという状態自体がわたしにとっては大変難しいことなのです。にもかかわらず、あなたたちに向かってこの話を語る、というそのことの中には、どうしようもないさみしさがあるのです。

『大きな鳥にさらわれないよう』

川上弘美がひとびとの営みーー恋、愛、名と呼びかけーーに対して向けていた眼差しは、もうとっくに人間のそれから遠く離れてしまったのかもしれない。失踪した夫の痕跡を追い、幻視の世界に沈む女性を描き、産んだこどもを「しろもの(代物)」と呼び、隔たりを感じる女性を描いた彼女は、とうとう人間に向かって「あなたたち」と呼びかけはじめたのである。これで「幸福は義務です」などと言い出そうものならたちまちパラノイアの世界だ。

『大きな鳥にさらわれないよう』(2016)は、人類が滅びんとしている遠い未来の世界を描いた、全部で十四の章から成る長編小説である。国家間の諍い等々で急速に人口を減らした人類は、遺伝子の進化の可能性に賭け、異なる環境/異なる文化に分かれて小さなグループ単位で暮らしはじめた。長い長い月日が経ち、「工場」と呼ばれる場所から生まれる、「形見」という短編では動物の名残を残したひとびとが現れ、や「Interview」では光合成を行う個体が生まれはじめる。

かつての人類が各地で様々に進化し発展していく中で、その様子をエリアごとに観測する「見守り」とその「見守り」を支援するパブリックドメインである「母」なる存在が出てくるのだが、この「母」というのが、お察しの通り人工知能なのである。人工知能は「わたし」という此岸から「あなたたち」という彼岸の営みに疑問符を投じながらも、愛し、観測する。生殖の必要なく自己複製を行いながら、セックスに励む人々を不思議そうに眺めている。

くまと出会い、蛇を踏み、数々の恋愛小説を経て人間の営みを描き続けてきた川上弘美は、とうとう人間として人間を描くことを辞めてしまった。もうすっかり、川上弘美はマザーコンピューターなのである。

そして『某』にいたる

そして、マザーコンピューター化した川上弘美を存分に味わえるのが最新作の『某』である。某、と書いて、ぼう、と読む。そのままですね。あらすじは以下の通り。

ある日自然発生した「某」なる存在が主人公。目覚めた時には病院にいて、自らに関する記憶は一つもない。その体は男性のものでも女性のものでもなく、年齢だってわからない。なんなら姿かたちを自由に変える能力まで備わっていた。

「これから治療には入りましょう」

「蔵」という名の医師が提案した治療方法はひどく奇妙なものだった。彼が指定した人間に擬態し生活を送るというものだったのである。絵を描くのが好きな高校一年生「ハルカ」、性欲旺盛な高校生「春眠」、その学校の教職員である「文夫」。

次々に変化し、やがて病院を飛び出した「某」。恋と愛、生と死。人間の営みの中に紛れる「某」の元に、「仲間」を名乗る男が現れてーー。ともかく、性別、年齢問わずいろんな姿に変化できる「某」という生き物についての物語なのだな、と分かればよい。日常生活の中にそういう生き物が当たり前のように暮らしていることを読んで、『神様』における「くま」を、川上作品の「変化」と読んで、『蛇を踏む』の老女、惜夜記の万化を思い出すのであればなおよいと思う。もちろん思い出さなくたってよいとも思う。

何者にでもなれるが故に何者にもなることができない「某」は、その対象が代替不可能である「恋」、「愛」をはじめとする人間の営みを薄ぼんやり眺めている。「つきあった女とするセックスの方が面白いのはなぜだろう」、「性欲のようなものを感じたのかもしれない」、「この身体は、性欲を発露できない身体なのかもしれない」、「塗り絵を塗りつぶすように、あたしは、生活、ということをはじめた」。

人間の感情や営みをまるで人ごとのように描くし、段落すら分かれていないほんの一瞬の描写で数ヶ月、数年が経ってしまうことも多々ある。このような表現はSF的ともいえるし、川上弘美はこういう時間の流れを吹き飛ばすようなことをよく行う。ぼくはそれを読むにつけ、川上弘美の生活や時間の感覚がまるで人間と隔てられているかのような印象を覚えるのだ。

死ぬことは、今も怖い。恋してからは、ますます怖くなっている。

『大きな鳥にさらわれないよう』でマザーコンピューター的な視点を獲得した川上弘美。その最新作『某』の帯が、上記の引用文だ。恋や愛をうまく解さず、突如として生まれ、そして死ぬことはない「某」。そんな存在を描く本作の帯文が「死ぬことは、今も怖い。」とはどういうことだろう。何にせよ読んでみてほしい。とにかく読んでほしいんです。できれば物語の詳細には触れたくないのだけれど、ひとつだけ。恋とか愛はする必要がないひとにとっては全くしなくてもよいものだし、する必要があるひとにとっては衣食住全てを投げ打ってでもしなければならないものである。

友愛、性愛、家族愛……未分化の愛はことばによって分化される。あるいは、それらを分かたなければならないと思っている。であるならば、死なず、性別もなく、どんな形にでも変化できる「某」は、そして川上弘美はそれらをどう見つめ、そして言祝ぐのだろう? その微かな光が、この本に差し込んでいる。

解説

『某』川上弘美, 幻冬社(2019年)


『ぼくの死体をよろしくたのむ』以来の川上弘美の長編作品。あらすじは文中で記載した通り。「ハルカ」「春眠」など変化した人間の名前で、全8章に分けられています。

いや〜〜〜〜面白かったですこの本。文章中でも書いたのだけれど、すらすら読んでいけるものの、時折腹を刺されるような文章が出てきたりする。そうしたら、「今までするする読んできたけど、本当にこんな読めちゃうるものかしら」と不安になって、再度読み直したらまたどこかで刺される、を繰り返すような作品です。

表紙のデザインがかわいいです。作中の「某」は人間の形をしているのですが、表紙にはもこもこしたりうすぼんやりしたりしている不定形の「某」と思われるものがたくさん描いてあります。イラストレーターは三好愛さん。ここ最近でいっとう好きな表紙です。かわいい。

 文・渡良瀬ニュータウン (@cqhack
編集・川合裕之

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