IMDbより
ある夜、ふとゴッドタンの “腐り芸人セラピー” を観ていると、お笑いコンビAマッソの加納さんが切実な悩みを語っていた。「お笑いをやりたくてこの世界に入ったのにテレビでは女性としての意見しか求められない」。女芸人は男性の芸人とは違って、芸そのものの面白さではなく、イケメン俳優がスタジオに登場した時の「黄色い悲鳴要員」として、または「NGなしの赤裸々な恋愛トーク要員」としての立ち振る舞いだけを求められている。しかし、それは私のやりたいことではない。私は「芸人」なのだ、と。
これに対して劇団ひとりやインパルス板倉は「でも求められることをやるのがテレビだし芸能界だから。それをちゃんとこなした上で「これもできますよ」というのを出していくのがプロ」と彼女を諭していて、それにもある程度は納得がいった。芸能界はある意味で特殊な世界だし、確かに彼女は “プロ” なのだ。それでも、「面白いやつがのし上がる」という建前に夢を見て入った世界の本質は全然そうでないこと、そもそも同じ職業でも女と男で求められる役割が違うこと、自分が望まない役割だけを求められ、それを果たさなければ表舞台に出ることを許されないことは、そりゃあ辛いだろうな、と思った。
『フォレスト・ガンプ』への違和感
この息苦しさには覚えがある。映画『フォレスト・ガンプ』だ。確かに名作だし、わたしも大人になってからとっても面白く鑑賞したけれど、ずっと拭えない違和感があったのだ。
この映画はたいてい「諦めない心の大切さを教えてくれる」だとか「頑張れば報われる」という言葉で高く評価されている。確かに彼は幼馴染への恋愛の面に関しては眩しいくらい一途で、粘りに粘って最後には彼女と幸せになるのだが、他の面ではどうか。つまり、彼の人生が「すごくうまくいく」ことについて。
フォレストは強運の持ち主だ。たまたま走りの才能が開花し、たまたまアメフトのコートに乱入して、たまたま強豪大学のコーチの見初められる。暇つぶしに卓球をすればたまたまめちゃくちゃ上手だし、エビ漁師になればたまたま大漁が続き、たまたま投資した会社は大成功する。失恋の痛手に走り出せば、たまたまみんなが後ろから付いてきてテレビに取り上げられ、たまたまそれを想い人が観る。
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これは「諦めなかった」結果か? いいえ。アメフトの試合のシーンに顕著なことだけれど、彼はアメフトのルールもわからないのに「走れ!」と言われたからとにかく走って、それがうまくいったのを周りが喜んで眺めているだけだ。周りが喜んでいるからフォレストもなんだか嬉しいという、ただそれだけ。
フォレストは何も選ばないし何も嫌がらない。周囲の無責任なけしかけに全てを委ねていて、この「一人称のなさ」に胸がぎゅっとなる。フォレストはなぜこんな描かれ方をしなければならなかったのだろう?
「無垢な人」
そもそも単に波乱万丈なサクセスストーリーを描くだけなら必ずしも主人公がハンディキャップを持っている必要はない。ではなぜ『フォレスト・ガンプ』ではわざわざ主人公に「IQが75しかない」という設定があるのか?
観客のより強いカタルシスのため、というのが妥当ではないかと思う。知能が低く、映画の前半では曲がった背骨のせいでろくに歩くこともできない。周りに面倒をかけて疎まれるいじめられっ子。そんな風にカーストの最底辺にいた少年が、社会的に大成功を収めて周囲を見返すのは、とっても気持ちがいい。逆転劇を描くなら、最初の境遇はよりひどい方がいい。この構造の痛快さが、この作品の人気や評価の大きな要素であるのは疑いようがないだろう。
©Everett Collection/アフロ
ここであらすじに返ってみよう。今どの映画情報サイトのあらすじを読んでみても「人より知能指数が劣るが純真な心を持つ主人公が波乱万丈な人生を送る」といった表現がなされている。つまり、フォレストが知能指数の低さというハンディキャップを背負いながらも好感を持って観客に受け入れられるためには、フォレストには「純真」でいてもらわなくてはならなかったのだ。
さらにフォレストは「純真」なので、成功を収める過程で「あいつにギャフンと言わせてやろう」だとか、「お金もうけがしたい」などという俗で汚い感情は持たないように作られている。そのおかげで、わたしたちは彼に「理想の、嫌味でない成功者像」を見出すことができ、フォレストを素直な気持ちで応援することができる。物語はより純粋に「いい話」になってゆく。
フォレスト、つまりハンディキャップを持った人に「純真である」という役割を押し付けて一人称を奪うことが、わたしが『フォレスト・ガンプ』に抱いた息苦しさの正体だったのだ。
このようにハンディキャップを持った主人公が「純真な心の持ち主」や「無垢な人」として描かれている作品や企画は、24時間テレビや映画『レインマン』をはじめとして、枚挙にいとまがない。
「gift」によって免罪される人々
さらにもう一つ、ハンディキャップのある人のフィクションでの描かれ方として指摘しておきたいのが『ハンディキャップのある人はしばしば「gift=突出した才能」によって免罪される』ということだ。
例えば、韓国ドラマの翻案として2018年7月に山崎賢人主演で放映されたドラマ『グッド・ドクター』だ。
第一話で自閉症スペクトラムの主人公(山崎賢人)を後期研修医として受け入れるのに難色を示す病院上層部に対して、主人公を紹介した病院長(柄本明)が放つ「彼は自閉症ではありますが、サヴァン症候群です」というセリフ。これは「障害者でも天才ならオッケー」発言に他ならない。そしてその場はざわつき「サヴァンなら、天才なら、まあいいかな」という空気になり、主人公は一旦病院に受け入れられることとなる。
つまり、このドラマの主人公はハンディキャップを持ちながらも「gift=突出した才能」に免罪されることで、健常者の舞台に存在する事を許されているのだ。
わたしが強調しておきたいのは、このドラマの物語自体はそんなに悪くないということだ。自閉症スペクトラムという「生まれ」を「実力」で乗り越えてゆく。そしてその実力が正当に評価され、主人公の信念を持った治療が多くの人々の命を救う。この構造は一見、ある種の平等を実現している。
しかし、「彼は自閉症ではありますが、サヴァン症候群です」を決めゼリフとして消費してしまう世の中で、本当にいいのだろうか? では「天才でない、免罪されない人」は?
「ハンデがあるけど、天才なのでオッケー」という言葉に取りこぼされる人は一体どれぐらいいることだろう。想像もつかない。きっとこれを書いているわたしだって、あなただって、ひとたびハンデを抱えればこのセリフに置いていかれる一人だ。そもそも「免罪」というからにはハンディキャップそのものが「罪」なのである。これを「平等」と呼んでしまって、本当にいいのだろうか?
感動ポルノの幸福な呪い
「感動ポルノ」という言葉がある。人権アクティビストで自身も障害を持つステラ・ヤングが2014年の演説「私たちはあなたの感動のためにいるんじゃない」で提唱したものだ。世の中が主に身体障害者を「困難に負けず前向きに努力する “清く正しい障害者” として健常者の感動のために利用する」ことを指す。
「ハンデがあるのに頑張っててすごい」「ハンデがある人でもここまでできるなんて励まされた」といった言説がこれにあたる。
ステラが提唱したこの語自体は現実世界にのみ言及したものだが、わたしがこの記事でこれまでに語った、ハンディキャップを持つ人々のフィクションでの描かれ方への違和感をまとめると「フィクションにおける感動ポルノ」の存在が浮かび上がってくる。
⑴ハンディキャップのある人はフィクションで「無垢な人」にされる。
⑵ハンディキャップはフィクションにおいて「gift(=突出した才能)」によって免罪される。
ここで言う「ハンディキャップ」には、身体障害だけでなく知能や発達に関するものも含まれる。表出の形は違えど「障害者に身勝手な虚像を求める」といった点では、現実世界の「感動ポルノ」と根は同じだ。
フィクションにおいて「ハンディキャップ」という題材は、この感動ポルノの幸福な呪いにかけられている。フィクションにはおおよそ「純真な人」か「gifted(= giftを与えられた人)」である障害者しか登場しない。と言うより、そもそも「純真な人」か「gifted」である障害者しか、フィクションに登場することを許されていないのだ。
フィクションにおける「ハンディキャップ」という題材は、エンタメ業界・ひいてはそれを擁する現実世界から「フィクションにおける感動ポルノ」を押しつけられている。さらには幸福にも、障害を持つ登場人物本人には「無垢であること」が課されているために、呪いにかけられていることにすら気づかないし、気づいてはならないのだ。
この記事では、ある場所に存在するために望まない役割を押し付けられるのってしんどいよね、というところから、国内外の映画とドラマを例に、フィクションにおいて “ハンディキャップ” という題材は「感動ポルノの幸福な呪い」に晒されているのでは? ということを述べました。
そんな「呪い」を鮮やかに解いた『僕と世界の方程式』という映画について、そして、そういった作品がこの世に存在することの意義については、次の記事で語ります。
次の記事:「giftという免罪符」からの解放 | 『僕と世界の方程式』
文・和島咲藍
編集・川合裕之(店主)
「労働ポルノ」にもご注意
労働ポルノ、の時代に|映画『前田建設ファンタジー営業部』 レビュー
「マジンガーの格納庫、作っちゃおう!」
小木博明が揚々と発するこのフレーズが記憶に残っているラジオリスナーは多いかもしれない。ここ数ヶ月、盛んに深夜ラジオのコマーシャル枠で宣伝されている(というかラジオ以外で宣伝されていたのを目にしたことがない)『前田建設ファンタジー営業部』。見てきました。
そして、これから「労働ポルノ」の話をします。
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文・渡良瀬ニュータウン