(C)ORIGIN PICTURES (X&Y PROD) LIMITED/THE BRITISH FILM INSTITUTE / BRITISH BROADCASTING CORPORATION 2014
「望むと望まざるとにかかわらず、大阪大学に入学したみなさんは色んな意味で “社会のエリート” になる人たちですから “エリートでない” 人々のことも責任を持って考えてもらえたら……」
教授は広い教室をぐるっと見回して、大きくうなずきながら、そう言った。
大学に入学してすぐのオリエンテーション、わたしの期待に膨らんだ胸は、一瞬でしおしおになってしまった。プシューーー
わたしはとにかくショックだった。「社会のエリート」になるためじゃなく、学問をしにこの大学に入ったのに。どう考えても自分のことだけで精一杯なのに。しかも、わたしが望むと望まざるとに関わらず? わたしの人生なのに? どうしてそんなひどいことが言えるんだろう? そんなの暴力じゃないか。勝手に人の選択に意味を見出して聞こえのいいラベルを貼りやがって、ふざけんなよ。
でも教授に言われたことの意味はすぐにわかった。母の友人に会っても尋ねられるのは将来の就職先のことばかり。「日本を頼む」とまで(!)言われたこともあった。飲み屋で出会った人に大学名を知られてしまったら、そこからは何をしゃべっても嫌味に受け取られたり、逆に何を言っても感心されたり。
旧帝大の名前は、自分で思っていた何倍も重いらしかった。わたしは「和島咲藍」という生身の人間なのに、否応無しに「大阪大学の人」にされてしまう。こんなの呪いじゃないか。
自分が望まない役割を背負わされるのは、こんなにも息苦しい。だけどたぶん、明確な加害者被害者がいるわけじゃない。「自分は誰も呪っていない」とは口が裂けても言えないし、わたしを呪った誰かだって、どこかでは他の誰かに呪われているのだろう。
「呪い」は蔓延っている。それはきっと、フィクションの世界にも。
この記事では、映画『僕と世界の方程式』がフィクションにおける「感動ポルノの幸福な呪い」に屈さず、生身の人間を描いたことの意義深さや、それがいかに我々にとって救いであるかを考えていきます。
フォレスト・ガンプの人生はどうしてあんなに “すごくうまくいく” のか、またドラマ『グッド・ドクター』での決めゼリフ「彼は自閉症ではありますが、サヴァン症候群です」の何がそんなに罪深いのか。
フィクションにおいて“ハンディキャップ”という題材がどれほど「感動ポルノ」に呪われていたのか、そもそもフィクションにおける「感動ポルノ」とは何なのか? については、コチラの記事をどうぞ。
前の記事:感動ポルノの幸福な呪い | 『フォレスト・ガンプ』『グッド・ドクター』
呪いを解く物語
前の記事で、かなりの分量を割いて「フィクションにおける感動ポルノの幸福な呪い」について語ってきた。しかし、そんな「呪い」を解く物語がある。2014年公開の映画『僕と世界の方程式』だ。
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主人公のネイサン(エイサ・バターフィールド)は父親を幼い頃に交通事故で亡くし、母のジュリー(サリー・ホーキンス)と二人で暮らしている。ネイサンは自閉症スペクトラムというハンディキャップから日常生活のあらゆる場面に強いこだわりを持ち、他人とのコミュニケーションが苦手な一方で、天才的な数学の才能を持っており、小学生の頃から高度数学の個人レッスンを受けていた。高校生になった彼は国際数学オリンピックの代表メンバー候補に選出される。
ーーと、あらすじを書いてみるとありがちな天才物語のように見えるのだが、この映画はそうではない。この映画はネイサンを「無垢な障害者」として描かないし、彼が持って生まれた「gift(=突出した才能)」の使い道は自分で決める。徹底して「生身の青年」として主人公を描き、彼の人格にきちんと向き合っているのだ。
たしかにネイサンはハンディキャップを持っていて、giftedだ。だけどそれ以前に、思春期の、ただの青年でもある。いつも不機嫌で母親には冷たく当たってしまうし、恋だってする。数学オリンピックの合宿では慣れない環境に加え、自分より数学の才能に恵まれた人を見て萎縮したりもする。彼は全然「純真無垢」ではないし、彼の「gift」はそれさえ持っていれば全部解決、といった類のものではない。
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物語の最後、ネイサンは想い人であるチャン・メイ(ジョー・ヤン)を追いかけて、せっかく代表メンバーにまでなった国際数学オリンピック本戦の会場から飛び出してしまう。彼は自分で自分の「gift」を台無しにするのだ。
だけど、誰もそれを咎めない。国際数学オリンピックを棄権したネイサンは、ようやく母のジュリーと対話を持つ。そこで語られるのは「いかにネイサンがもったいないことをしたのか」ではなく、どうしてお父さんは死んでしまったのか、愛とは一体なんなのか。ネイサンにとって理解できない、数学とは違って明確な解のない、だけど生きてゆく上で決して避けられない、とても大切な問題についてだ。
いわゆる「ハンディキャップを持ちながらも飛び抜けた才能によって周囲の鼻をあかしたり迷惑をかけた人に恩返しする呪われた物語」ならば、こんな展開はありえない。
この映画ではネイサンの「gift」はそこまで大した問題ではない。自分の「gift」を活かさないという選択肢を、当然彼は持っている。ネイサンは「無垢」でなくても「gift」という免罪符がなくてもそこに存在していていいし、愛されてよいのだ。
「無垢」でも「gifted」でもない彼ら
国際数学オリンピックの代表争いに敗れたルーク(ジェイク・デイビス)がネイサンにこう語り、泣き崩れる場面がある。
「君も自閉症だろ? 親になんて言われた? うちは『人とは違うけれど特別な才能がある( “god made me unique”. )』だった。でも才能がなければ? 数学をやっていても、楽しくないんだ」
ルークにとって数学は「この世界に自分が存在することを許される」ための手段だった。それを失ったいま、彼は自分の居場所のなさに苛まれている。
このセリフは、ルークが「障害があっても天才なのでオッケー」という考え方の犠牲者、つまり「免罪されなかった障害者」であることを物語っている。自身の境遇に喘ぐルークもまた「無垢な人」ではないし、免罪に足るほどの「gift」も持っていなかった。ルークのこの苦しみはもしかしたらネイサンが味わっていたかもしれないし、わたしやあなたがいつか味わうものかもしれない。
「免罪されない障害者」という点では、ネイサンの数学の師匠であるマーティン(レイフ・スポール)は、ALS(多発性筋硬化症)による身体のハンディキャップを持っている。彼は病によって数学への夢を諦めた「かつての」天才であり、「もう免罪されないgifted」でもある。そんな彼の煩悶や生来の朗らかさも、劇中では丁寧に描かれている。
実際にイギリスの国際数学オリンピック代表候補チームを取材した映画の制作チームはフィクションにおける「感動ポルノの幸福な呪い」に間違いなく自覚的で、だからこそ、ネイサンだけでなくルークやマーティンの苦悩をも丹念に描写したのだろう。
「感動ポルノの幸福な呪い」から解き放たれた彼らはハンディキャッパーとしてではなく、その時代、その場所で生きている「たったひとりの人間」として、驚くほどの瑞々しさを持ってわたしたちの心に迫ってくる。だからこの映画は「自閉症スペクトラムを抱えた天才の物語」でありながらも「感動ポルノの幸福な呪い」を解いた、完璧な「ただの青春映画」なのだ。
(C)ORIGIN PICTURES (X&Y PROD) LIMITED/THE BRITISH FILM INSTITUTE / BRITISH BROADCASTING CORPORATION 2014
「感動ポルノの幸福な呪い」はなくならないけれど
ここまで散々「ハンディキャップ」という題材が受けている呪いについて語ってきたけれど、わたしはある作品が「呪い」の要素を含んでいるからといって即唾棄されるべきであるとも言わない。映画『フォレスト・ガンプ』やドラマ『グッド・ドクター』の構造的面白さは変わらないし、「自分たちの存在が世にひろまるなら形はなんでもいい」と考える当事者だって多いだろう。何よりこれから先「感動ポルノ」に加担する作品がなくなるとは、全然、全く、思わないからだ。
それに、なにも呪われているのはハンディキャップを持った人々だけではない。フィクションに登場するゲイやクィアの人々だって「金持ちで清潔で趣味とルックスのいい、悩める女性の良き相談相手」の役割に縛られてきたし、Aマッソの加納さんは「女芸人」という役割に呪われている。「高学歴の人」というラベルに呪われてきたわたしは幸いにも、わたしになにも期待しない寛容な両親に呪いを解いてもらうことができたけれど、次なる呪詛たちは列をなしてわたしを待ち構えている。
現実は厳しい。何度も絶望するし、それってめちゃくちゃ疲れるし、もうやめちゃおっかな、と思うこともしばしばだ。
だからこそ、それでも『僕と世界の方程式』のような、呪いを解いて個別具体的な人々の姿をきちんと描く映画がこの世界に存在することそれ自体が、あらゆる「役割」を背負わされている我々に投げかけられた愛であり、救いなのではないだろうか。
「君も自閉症だろ? 親に何て言われた?」
この質問にネイサンは答えなかったけれど、彼が幼少期に父親からくりかえし言い聞かされてきた言葉はこうだ。
「愛し合うのをやめちゃダメだ」
解説『僕と世界の方程式』(2017年)
監督:
モーガン・マシューズ
出演:
エイサ・バターフィールド, サリー・ホーキンス, レイフ・スポール, ジェイク・デイビスほか
監督のモーガン・マシューズはもともとドキュメンタリーの分野で高い評価を得ていました。本作は彼がイギリスの数学オリンピック代表候補チームを取材して制作したドキュメンタリー映画化『Beautiful Young Minds』(2007)をもとに、5年以上の構想を経て撮影されたものです。
『縞模様のパジャマの少年』(2008)やNetflicks配信の『Sex Education』で主演を務めるエイサ・バターフィールドと、第74回ベネチア映画祭で金獅子賞を受賞した『シェイプ・オブ・ウォーター』(2018)でヒロインを演じたサリー・ホーキンスが親子役を務めている、というだけでも魅力的な本作。エイサはモーガン監督が取材したチームや支援学校を実際に訪れ、主人公ネイサンのモデルとなった人物とも対話を重ねて役作りに挑み、その演技は自閉症スペクトラム当事者たちからも高い評価を得ています。
完全に余談ではありますが、 エイサは日本のアニメやゲームの大ファンで、Instagramにはジブリ音楽をピアノで演奏する動画も!
エイサ(Asa)という名前は古代ヘブライ語で「癒す人」「医者」を意味し、ポルトガル語では「羽根」、グリーンランド語では「愛される者」、インドネシア語では「希望」という意味があるそうです。いつか猫とか小鳥とか飼うことがあったら絶対エイサって名付けたい。
文・和島咲藍
編集・川合裕之(店主)
参考文献
※本記事と前の記事(感動ポルノの幸福な呪い | 『フォレスト・ガンプ』『グッド・ドクター』)の両編において参考にした書籍です
『増補新版 人間の条件——そんなものない』立岩真也著 イーストプレス社(2018)
「できるできないに関わらず生きられていい、人の価値をそういうところに置かない」
そう宣言するこの本は、とっても簡単な日本語で書かれた、とっても難しい本です。
立命館大学の教授で “生存学のたおやかな巨匠” と呼ばれる著者。彼が「中学生でもわかるように書いた」と述べている通り、難しい言葉は出てこず、優しい語り口で体系的に話が進んでゆきます。しかし、語られる内容は「人間がそのままの姿で生きることの価値と意味」という、深淵で途方もないテーマです。
成果主義、能力主義、自己決定、尊厳死、介護、格差、貧困、税。
正直言ってわたしもこの本を完全に理解したわけではありません。だけどことあるごとに色んな一行が脳裏をよぎり、わたしの存在そのものを優しく言祝いでくれるのです。
『ゲイの可視化を読む——現代文学に描かれる〈性の多様性〉?』黒岩裕一著 晃洋書房 (2016)
性的マイノリティが「LGBT」という表記のもと、様々な形で可視化されるようになって随分経ちます。彼らが「いないもの」とされていた時から考えれば、これは間違いなく大きな進歩です。しかし、その「可視化」のされ方は未だにとても恣意的なのではないか?
この本では、村上春樹や吉本ばなな、川上弘美ら人気作家の作品に登場する「都会的でクリエイティブ」な役割を背負わされたゲイやクィアの彼らについて、渋谷区のパートナー条例の施行やネオリベラリズムなど、現実社会の動きも交えながら、丁寧に読み解きます。
LGBTや文学に興味のある方はもちろん、「ネオリベ」「ポリコレ」といったワードにピンときた方にもおすすめの一冊です。
「呪い」を解くために
テーマは「社会に着せられたいろいろを一旦脱いで、たった一人の、愛おしい生命体としての “自分” を取り戻す」、題して「ハピネスチャージ!ひとりカラオケ定食」です。
「ひとりでカラオケに行く」というのは、何か特別な行為のように思います。友達や家族とではなく、一人で、誰にも気を遣わず、歌う曲の順番も知名度もおかまいなし。好きな曲を、好きなように、好きな顔で、好きなアレンジで、声に出して歌う。下手くそな歌だって、自分が気持ちよければそれで100点です。
歌っているのは自分のはずなのに、ひとりでにリズムを刻みだす手や足に苦笑してみたり、「わたしってこんなにはっちゃけられる人間なんだ」と気付いたり、普段は聴きながす歌詞が妙に刺さってしまって涙ぐんだり。一人でカラオケに行くと、社会で真っ当に生きていくための武装をぜんぶ取り払った、無防備な、だからこそ愛おしいひとつの生命体としての “自分” と出会えるような気がするのです。
「ひとりカラオケ」のように、社会に着せられたいろいろを一旦脱いで、たった一人の、愛おしい生命体としての「自分」を取り戻す勇気を与えてくれる作品をご紹介します。
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文・和島咲藍