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自分が自分でなくなる怖さ
| 映画『マスク』レビュー

誰にも見られていない一人きりの部屋の中でぼくは何をする?

全ての欲望を完全に解放するなら何をする?

そして、それら全てを完全に隠し通すことができるなら本当の本当に何をする?

誰にも見られていない状況でそれらを全て隠し通すことができて、なおかつ、何もかもを解放できるなら……

きっとここには書けないようなあんなことやこんなこと、あらゆる欲望を満たすだろう。

だけど、それらを実現したことって今まで意外となかったりする。

「××を大量に用意して〇〇の状態で△△を※※する」ような欲望の解放をなぜ実現せずに今まで生きてきたのだろう。

それはきっと自分の中の常識が崩れてしまうのが怖いから。

そんな行為に一度手を出してしまうともう元の生活に戻ってこれなくなるんじゃないかと考えているからじゃないかな。

欲望の解放というのはきっと怖いことなんだ。

それは自分が自分でなくなってしまうことへの恐怖なのだから。

不気味さには人を惹きつけるパワーがある

ぼくが映画『マスク』をはじめて観たのは小学生の頃。

カラフルなビジュアルにちょっとエッチな内容と軽快なリズムの音楽。そんな世界観に魅せられて母親が録画してくれたビデオテープを兄とふたりで何度も見返していた。

CG技術の進歩によって実現したカートゥーンの動きがミックスされたジム・キャリー演じるマスクの動きはこれまで見たことのないコミカルな描写だらけで子ども心をくすぶりまくってくれた!

あとは、ヒロインのキャメロン・ディアス演じるティナがセクシーで小学生ながらに性を感じた覚えがある。

IMDbより引用

だけど、あの映画にはどこか不気味さを感じていた。

悪役のピーター・グリーン演じるドリアンのキャラクターや見た目に恐怖していた訳ではない。

もっと感覚的にその不気味さに気がついていたのかもしれない。

それもそのはず、この記事を書くにあたってダークホース社から出版されている原作コミックス『THE MASK』について調べてみたところ、原作コミックスでのマスクは北欧神話に登場する悪知恵に長けた悪戯好きの神「ロキ」が宿っている。

仮面をつけることでスーパーパワーを手にした主人公スタンリーが自分の意思に反して恨んでいる人間たちを次々に虐殺してしまうというサイコホラー作品だったのだ。

そんなサイコホラー作品に監督のチャールズ・ラッセルが大幅なアレンジを加えコメディ映画に変えてしまったのが映画『マスク』だったのだ!

ホラー映画『エルム街の悪夢3 惨劇の館』(1987)の監督も務めているチャールズ・ラッセルはこう語っている。

「自分のビションのために戦った良い例だったね。僕らはホラー映画作品をコメディ作品に変えたんだから。あの作品は当初ホラー映画作品の予定だったんだ。ニュー・ライン(映画製作会社)は(『エルム街の悪夢3 惨劇の館』の主人公)フレディ・クルーガーが出るような作品が作りたかったものだから、かなり本気の戦いだったよ」

「XFINITY」

Photo by Hulton Archive/Getty Images – © 2004 Getty Images

子どもが観ても楽しめるコメディ映画と変貌を遂げた『マスク』ではあるのだが、その根本にある原作の不気味さが尚更際立っているように感じる。

人は欲望を解放した時、自分が自分でなくなるということ。そしてそれを簡単に叶えてしまう “マスク” の存在の危うさ。

パワーを手にした代償は「自分が自分でなくなる」というなんとも怖ろしい設定。それをあんなにもコミカルに描くものだから余計に不気味だ。

チャールズ・ラッセル監督がサイコホラー作品である原作『THE MASK』を実写化する際なぜコメディ映画にしたのか。

それはほんのり香る不気味さを軽快な音楽やダンス、そしてあのジム・キャリーのコミカルな演技によって覆い隠すためだったのではないか!

小学生の頃のぼくはきっと、不気味なものに惹かれてしまうヒトの心理をくすぐる映画『マスク』に魅せられながらその不気味さを楽しんでいたのだろう。

あの不気味でコミカルな動きやビジュアルは一体、どこから来るのだろうか。

マスクは主人公スタンリー・イプキスの理想の姿

あの滑らかな動きのルーツはテックス・アヴェリーというアニメーターの作品たちが元になっている。

バッグス・バニーやダフィー・ダックといった個性的なキャラクターの登場するカートゥーン作品『ルーニー・テューンズ』(1930)で有名だ。

IMDbより引用

仕事で疲れて帰宅したスタンリーがリラックスするためにVHSを再生するシーンでは『おかしな赤ずきん』(1943)がブラウン管に映し出されたり、職場のデスクの引き出しの中には『ルーニー・テューンズ』のコミック雑誌が隠されていたりとスタンリーの心の支えがテックス・アヴェリー作品たちであることがわかる。

装着することで理想の姿に変身することができる仮面。そんな仮面をスタンリーが装着することで彼の脳裏にある理想の姿、テックス・アヴェリー作品のキャラクターたちが彼に宿るのだ!

IMDbより引用

テックス・アヴェリー作品のキャラクターたちが宿ったマスクはほぼ無敵状態である。

銃やダイナマイトといった武器を自由自在にポケットから取り出したりアニメのカットのように瞬間移動したり、体をゴムのように伸縮させたかと思うと鋼のような硬さにもなる。銃で撃たれても死なないし物理法則を無視した動きができてしまう。ていうか不死身だ。

それらの動きや元になったキャラクターたちはコミカルで子ども向けのものなのだが、やはりその独特の雰囲気に不気味さを感じるのはぼくだけではないはずだ。

楽しげに画面内を駆け回り、時にグロテスクとも思えるような残虐なことを狂ったような笑い声をあげながらやってのけるカートゥーンのキャラクターたちに不気味さを感じる。

子どもの発想のような理屈の通らない狂気が一層マスクを不気味にさせたのだ。

そんなカートゥーン作品の狂気をもともとサイコホラー作品であった『THE MASK』にミックスさせて実写化させるなんて、監督のチャールズ・ラッセルがどれほど「イかれた」作品を作りたかったのかが伺える。

感情の読めない笑顔が不気味

みなさんは人を笑わせるコメディアンに不気味さを感じたことはないだろうか。

子どものころのぼくはカートゥーンのキャラクターたちの不気味さと同じく、大げさなリアクションやおどけた演技をするコメディアンに気味の悪さを感じていた。

まるで感情がないかのように振る舞うコミカルな動きや表情。

それを誇張するメイクを施していたりするとなおさら、不気味に感じるのはぼくだけではないはずだ。

それは「道化恐怖症」というピエロのような顔にメイクをする道化に対し恐怖心を抱く心理に似ている。

志村けんの『バカ殿』やジム・キャリーの『マスク』は子どものころのぼくにとって親と一緒に観て笑えるものでありながら、恐怖の対象でもあったのを覚えている。

「道化恐怖症」の原因は「メーキャップされた顔から感情を読み取ることができないため」などがあげられるのだが、ジム・キャリーの演技やあのメイクは一見人を笑わせるための演出でありながら恐怖心を煽る演出も担っているように感じる。

原作から滲み出るサイコホラーの香りとカートゥーンの不気味さのミックス。そして道化恐怖症に訴える演出。

ぼくが子どものころに映画『マスク』を観て感じた不気味さの中で完全に「怖い」と自覚していたのはジム・キャリーの演じるマスクとその生々しく気色の悪い緑の肌にあったに違いない。

だけど、大人になった今。見た目だけではないもっとメンタル面をチクチクと刺すような不気味さを確かに感じる。

その不気味さの中にこそ『マスク』がホラー映画ではなくコメディ映画である必要性を見つけた。

主人公が一番不気味な存在

コメディ映画『マスク』の一番の恐怖は主人公自身がその恐怖の対象であるということ。

IMDbより引用

不気味なスタンリー・ザ・マスク(マスクを被ったスタンリー)に追いかけられるホラー映画ではなく主人公自身がスタンリー・ザ・マスクと化して敵をやっつけていく。

そう描くことでこの映画はコメディ映画としてカテゴライズされ、大人から子どもまで楽しめる作品になっている。

大人になった今、その本当の恐怖に気がついた。

銀行強盗を企てたり裏社会から街を取り締まるマフィアたちをマスクの力で翻弄しながら勝利するスタンリーは結果的には正義のヒーローなのだけれど、その行動は悪役よりも非人道的であり、マフィアたちからすれば相当な脅威である。

マスクの脅威の前では強面のマフィアたちがかわいそうに思えてくるほどだ。

本来恐怖の対象であるはずのマスクを主役に置くこの手法もテックス・アヴェリーのカートゥーン作品からの影響である。

バッグス・バニーやドルーピーといったテックスの作品のキャラクターたちにやられる相手役のキャラクターたちはバッグスを狩りに来た狩人であったり刑務所を脱獄した狼だったりする。

「悪いことをしているのはそっちでしょ?」

といった具合に相手が悪者であることをいいことに非人道的な仕打ちをする。

それもコミカルに物理法則を無視しながら時にグロテスクに。

IMDbより引用

脱獄した狼は高層ビルの最上階から落とされ、さらにどこからともなく現れた巨大な岩石を上から落とされてぺちゃんこになったりする。

うさぎのバッグスを狩に来た狩人は頭のキレるバッグスに言葉巧みに操られ自身の猟銃で自分自身を打ち抜くことになる。

カートゥーンの世界だから狼も狩人も死に至ることはないにしてもそこまで痛めつけなくてもいいのに……

と思えるほど懲らしめられる狩人や狼たちは最終的に精神的に気が狂ってしまって再起不能になるオチが基本だ。

視点と演出を変えれば極上のホラー映画になり得るシナリオである。

つまり、そんなテックス流のシナリオと演出を実写映画で表現した『マスク』はホラー映画として描かれるよりもコメディ映画として描かれることでより一層その不気味さをますことができたのだ!

凶悪な犯罪者以上に恐れなければならないのはマスクであり、またそんなスタンリー自身の中にある狂気と欲望なのだ!

コントロールできない自分

変身願望を叶えてくれる仮面を手に入れてマフィアたちから金と恋人を奪い欲望を叶える映画『マスク』は表向きには痛快なコメディ映画である。

しかし、そのシナリオを裏返すと欲望と超人的なパワーに溺れ、自分自身をコントロールできなくなってしまった主人公の暴走物語なのだ。

IMDbより引用

マスクを装着して欲望を解放する瞬間に自制心が働けばマスクを脱ぐことも捨てることもできる。

しかし、マスクを着けてしまえばあのパワーを発揮し、快感に身を任せ暴れ回ってしまう。

お酒を飲んで気持ちが大きくなった時に起こす失敗に似ている。

もしも全ての欲望を完全に解放することができるパワーを持っているなら何をする?
それはきっと、人が人であるために持ってはいけないパワーなのかもしれない。

そして欲望を完全に解放することはやっぱり怖いことなんだ。

自分自信をコントロールすることができないほどの欲望を解放した時、自分が自分でなくなってしまうから。

ホラー映画『エルム街の悪夢3 惨劇の館』という作品の中でフレディ・クルーガーという怖ろしい殺人鬼を生み出したチャールズ・ラッセル監督がなぜ『マスク』をコメディ映画として描くことに挑戦したのか。

それは非日常的なホラー映画の怖ろしさではなく誰の日常にも存在し得る自分自身の中にある制御不能な欲望に怖ろしさを見出していたからではないだろうか。

ぼくが子どものころに『マスク』を観て感じた不気味さは勘違いではなかったんだ!

映画のエンディングでスタンリーが仮面を捨てることができたのはその怖ろしさを誰よりも知ってしまったからなんじゃないかな。

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解説『マスク』(1994)

写真:Album/アフロ

監督:
チャールズ・ラッセル

出演:
ジム・キャリー,キャメロン・ディアス,ピーター・グリーン

DCコミックス、マーベル・コミックに次ぐ規模を誇るアメリカン・コミックスの出版社であるダークホースコミックスから出版されている『THE MASK』が原作。

映画『マスク』が公開されたあと、ダークホース社から出版されているコミックスの中のスタンリー・イプキスやマスクのキャラクターの印象はジム・キャリーの作り出したものに寄せて作られるようになった。

今やコメディの枠を超えて有名映画俳優となったジム・キャリーだが、このころはまだテレビのコメディアンだった。

そんなジム・キャリーを見た監督のチャールズ・ラッセルが『マスク』の主人公スタンリー・イプキス役に大抜擢。一躍ブレイクの道を歩む切っ掛けとなった。

ホラー映画として作られるはずだった映画『マスク』が大人から子どもまで楽しめるコメディ映画になった理由も監督がジムを主演に起用するためであったそうだ。

そんなジム・キャリーの演技も不気味さを大いに担っている。

解説『おかしな赤ずきん』

IMDbより引用

主人公のスタンリー・イプキスが観ているVHS作品『おかしな赤ずきん』原題:RED HOT RIDING HOOD(1943)などを生み出したテックス・アヴェリーの作品たちは現在(2020年)amazon prime videoにて多数観ることができる。

前述したようにコミカルな作品でありながらどこか不気味なキャタクターたちは今見ても新鮮で掴み所のないものばかりだ。

参考文献

ジム・キャリー主演『マスク』、当初はホラー映画の設定だった!?
https://www.cinemacafe.net/article/2017/06/09/50101.html

 文・金城昌秀
編集・川合裕之(フラスコ飯店 店主)

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「カートゥーン」と「アニメ」の違いや定義は諸説ある。
簡単に一言で説明すると海外の子ども向けのアニメはカートゥーン。海外ではanime,mangaと呼ばれる日本製の大人向けのものはアニメとされていたりする。

だけど、日本製のアニメの中にも子ども向けアニメと大人向けアニメが存在するからひとくくりに「アニメ」とするのも難しいところだ。

更に子ども向けだったアニメが何十年も続くシリーズの中で視聴者と共に大人向けのアニメへと変貌を遂げる例もある。

子ども向けのアニメをいつまでも観続けている大人は結局大人になりきれていないのだろうか?
いや、そんなはずはない。

子どもから大人になるためにアニメから教訓を得ることもできるのだ!

そんな教訓を得ることができた『デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆』という作品を紹介しています!



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金城昌秀

ロックバンド「愛はズボーン」でGt.Voを担当。 様々なアーティストのMV監督や動画編集、グッズやCDジャケットといったアートワークも手がける。

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