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異質なホラー『ミッドサマー』によって直視させられる人間の本質

はじめに、『ミッドサマー』はホラー映画だ。

しかし、アクション的に、幽霊が出てきてワッと驚かせたりなど分かりやすいホラーシーンはない。

ただただ、見ていて奇妙な雰囲気や気味の悪さを感じる。老人が村の風習によって崖から飛び降りたり、奇怪な死のシーンなど異様にアップされるゴア描写が頭の中にこびりつく。

さて、特殊な光景が絶えず描かれる『ミッドサマー』の気味の悪さとはなんなのか、そして見た人を引き込む要素の正体とは。

この記事では劇中のホラーシーンの異質さの正体を明かすとともに、非日常に魅了されてしまう人間の本質について考察していきたい。

-目次-

▼空っぽな人間関係
  ・共同体の欠如と邂逅
▼ホルガの共同体としての異質さ
▼人が非日常へ引き込まれる要因
  ・科学的な「マインドコントロール」の手法
  ・ホルガにハマりやすいダニー

▼神秘体験と神秘現象の存在
▼日常は退屈だ
  ・ニーチェ的退屈
  ・ラッセルの退屈論
  ・「退屈」を回避する人間

▼感情を共有してくれる地、ホルガ 
  ・感情を「共有する」村

▼誰しもに役割を与えるホルガ

▼ホルガは楽園か、異様な共同体か

空っぽな人間関係

この映画では冒頭に主人公たちが形成するコミュニティが壊れていることが提示される。

たとえば、主人公のダニーとその彼氏クリスチャンの関係。ダニーの家族が心中し自身の精神状態が不安定になり彼氏のクリスチャンに電話をするも、最初は心配するが、心から心配するというよりも、同情し、ずるずると付き添っているだけ。そして、ダニーとクリスチャンの友人達も”知人”どまりで、親交がかなり深いようには思えない。

(C)2019 A24 FILMS LLC. All Rights Reserved.

友人達はダニーと電話しているクリスチャンに対して「早く(関係を)終わらせろよ」と辛辣な言葉を吐く。

このように、主人公たちはよくある大学院生のコミュニティのカタチは作れているが、彼らが形成する共同体は壊れているのだ。

共同体の欠如と邂逅

つまり、主人公たちの関係は “この人じゃないとダメ” というような唯一無二のものではない。

では、本来の共同体のカタチとは何なのか?いくら空っぽな関係でも同じ大学に通っていれば一つの共同体に属しているともいえるが、「共同体」とはそういった形式的なチームや集団というよりももっと強固な結びつきがある集団のことを指すと本稿では考える。「共同体」とは人間にとってかなり強い存在なのだ。

では、 人間にとって強い存在の共同体とは何なのか。

それは「自らを包摂してくれる存在」だと筆者は考える。

感情を共有してくれたり、何があっても一緒にいてくれるような関係だ。そういった意味で、ダニーにとって彼氏のクリスチャンや、知人たちは自分を包摂してくれる存在ではない。

いかにも、彼女たちの関係性は空っぽであり、互いに唯一の存在ではない。そんな空っぽな人間関係の彼らが、より強固な結びつきの共同体と出会ってしまったらどうなるのか?

ダニーは家族を無残な形で失い、人間関係も空虚だ。

クリスチャンはダニーからの電話に受け答えするも、仕方なく心配しているようで心から感情の共有をしているようには見えない。クリスチャンは同情するだけなのだ。

それどころかダニーに隠したまま友人たちと北欧の旅を計画するほど冷淡なのだ。ダニーがそのことに気づくとクリスチャンは友人と口裏を合わせ、仕方なく旅に誘う。

ダニーは家族を喪失し彼氏も心から心配してくれない。頼れる人もいない。残酷な言い方をすれば誰にも守られず、「社会」という大きなサークルからはじきだされた人だ。

そんな孤独な人間が求めるのは癒しのある共同体ではないだろうか。

そんなとき、ダニーは偶然にもホルガという村と出会う。ホルガは自然が多く、天候も晴れ晴れしており、気持ちがよい。住んでいる村人も終始笑顔であり、独特な文化に富む。そのような癒しをもたらす景色がホルガにはあり、ダニーは違和感なくホルガを受け入れるが徐々ににカルト的な風習を共有し合う共同体へと引き込まれていくのだ。

それも、自らの意思ではなく無意識に。

その様子は見ていて奇妙であり、知らず識らずに人が共同体にのみこまれてしまうこと自体が、他のホラー映画とは違う異質な「ホラー」さを感じる要因ではないだろうか。

ホルガの共同体としての異質さ

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繋がりが希薄な主人公たちの関係に対し、ホルガは伝統的な風習や、感情そのものを村人たちで共有することで村全体の統制が取れている。

ホルガは強固な共同体なのだ。

そんな繋がりが強い村で過ごすにつれ、彼らは自分たちが形成する共同体は虚弱だったと実感する。しかしホルガは魅力的な文化の反面、特殊な土着文化が根強く残る、異質な共同体でもある。それなのになぜ主人公たちはあのカルト的な自殺の儀式を見て、身の危険を感じ、すぐに逃げないのだろうか。たしかに主人公たちは村の伝統によって進んで崖から飛び降りた老人たちを見て、拒否反応を起こす。だけれどもすぐには逃げない。

何故なのか。

村の儀式への恐怖の感情よりも興味のほうが勝ってしまうからだ。それがゆえに村に留まってしまう。

大学院で文化人類学(ダニーは心理学)を専攻している彼らは「こういう文化もあるんだ」とすんなり受け入れ、むしろ、ホルガという文化を興味深い研究対象として捉えてしまう。

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クリスチャン、ジョシュ、マークの3人は村の文化に興味を持ち、さらにダニーは村の個別の文化というよりも村全体の自分たちにはない強い共同体の姿を見出す。

そのために主人公たちはホルガを肯定的に捉え、一方でホルガをカルト的と認識していても、同時にそれが絶対悪とは思えないのだ。

それが故に尚更、カオスな光景を見てもすぐ逃げたりはしない。

こうして主人公たちは無意識にホルガに引き込まれていく。

なぜ自由意志に反して主人公たちは引き込まれてしまうのか。学術的な興味もあるが、それよりも根底に「これまでの退屈な日常から脱出したい」というのがあるのではないだろうか。

人が非日常へ引き込まれる要因

ホルガは無作為に外部者を引き込んではいない。しかしながら近親相姦を避けるため、外部の人間をいれなければならない場合もあり、そこには「なんらかの意図」が存在する。拒否することだってできるが、主人公たちは物語が進むに連れ、無意識にホルガに引き寄せられていく。

自分の意思でホルガにいるつもりだが、実際はホルガの意図で村から離れられなくなっているのだ。このギャップは見ていて非常に奇妙である。

科学的な「マインドコントロール」の手法

さて、現実にある新興宗教では意図的に、神秘体験を感じさせ入信させる技法がある。

たとえば90年代、オウム真理教は信者をマインドコントロールするため、薬物を用いた。

それで得た幻覚症状を修行で得た感覚と感じさせ団体に対しての信仰、依存を強めていたのだ。

さらに、薬物を使うことで正常な判断ができないようにする。これまでの日常的な体験と非日常的な体験を対比させることで神秘体験への願望を高めていく。

そうすると人は、”トランス状態”へ入りやすくなり、正常な判断ができなくなる。

薬物による幻覚、強い心身のストレス、過呼吸、あるいは日常的なことから非日常的な体験を繰り返されることで人はトランス状態に入りやすくなる。

ホルガにハマりやすいダニー

そういえばダニーは精神的に強いストレスを感じたばかりであるし、過呼吸も頻繁に起こしていた。体質的にもダニーはトランス状態に陥りやすいのだ。

ホルガから薬物を与えられ、非日常的な儀式を見せられるのだからダニーは他の友人達よりも一層、ホルガに引き込まれていく条件が揃っていることがわかる。

ホルガに足を踏み入れてすぐに、同い年くらいの若い村人と仲良く話したり、村の女性に「子供たちが『オースティン・パワーズ』を見ているよ、あなたたちもどう?」と映画に誘われる。日常でもよくある光景だ。

そんな日常的で安心できる出来事から、アメリカとは違う言語の違いや白夜による時間の感覚の狂い、次々と体験する薬草による幻想や儀式によって急速に非日常を感じる。

感性が刺激され、トランス状態になり、特別な神秘体験であると誤認識してしまうのだ。

主人公たちはホルガに来る前から薬物を使用していたがホルガに来てからは薬草によるサイケデリック・トリップが一層描写される。

薬草を吸い込んだ瞬間、手から草が生えたり、木がユラユラと揺れている描写が描かれるのがその例だ。さらに時間の感覚もホルガにいる以前からはズレてしまう。これは明らかにホルガから与えられた何らかの薬草による幻覚症状だが、主人公たちはそれを神秘的な体験と認識してしまっているように感じる。

絶対的な多幸感を日常で持たない彼らはホルガの非日常体験によってまたとない不思議な感覚を得るのだ。

神秘体験と神秘現象の存在

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「神秘体験」というと、新興宗教に限らず、正夢、デジャヴ、心霊現象などを日常生活で体験した人がいるかもしれない。しかしながら実際にその神秘体験が真実であったかどうかはわからない。

心理学者ユングは「神秘体験の存在は神秘現象の存在を意味しない」と述べた。

もしかしたら神秘的と思っていたものは、勘違いや、偶然かもしれない。

ホルガに訪れた主人公たちは儀式や薬草によって得られる神秘現象をここでしか得られない特別な神秘体験であり、真実であると認識し、肯定。その結果、それらの神秘現象を文化人類学上、興味深いと考えてしまう。

そして、関心を抱き、神秘現象を得れるホルガに依存してしまう。薬草によるトランス状態への依存も無意識にホルガ自体への依存に繋がっているのであろう。

クリスチャン、ジョシュ、マークの3人はホルガの文化に学問上の興味を待ち、ダニーはこれまで得られていなかった他者との一体感に魅了され、無意識にホルガに関心を抱くことで、人が自殺しているのにも関わらず、主人公たちはホルガからは離れようとはしない。薬草による症状も相まって正常な判断ができず、ずるずるとホルガへ引き込まれていってしまう。

ホルガにいる人々も神秘体験を真実と感じ、薬草や儀式を繰り返し与えてくれるホルガという共同体に依存しているのかもしれない。

カルト的風習に主人公たちが無意識に引き込まれていく姿は異常。スクリーンを介して見ている側は奇怪だと感じるのだ。

~ おさらい:ここまで読んだこと ~

▼空っぽな人間関係
  ・共同体の欠如と邂逅
▼ホルガの共同体としての異質さ
▼人が非日常へ引き込まれる要因
  ・科学的な「マインドコントロール」の手法
  ・ホルガにハマりやすいダニー

▼神秘体験と神秘現象の存在

~ 予習:ここからの内容 ~

▼日常は退屈だ
  ・ニーチェ的退屈
  ・ラッセルの退屈論
  ・「退屈」を回避する人間

▼感情を共有してくれる地、ホルガ 
  ・感情を「共有する」村

▼誰しもに役割を与えるホルガ

▼ホルガは楽園か、異様な共同体か

日常は退屈だ

無意識に共同体に引き込まれ、離れようとはしない。離れようとしてもむしろホルガへの関心が勝ってしまって出られない。次から次へと巻き起こるカオスな儀式ーー。

ホルガに意図はなくとも、主人公たちはカオスな儀式や薬草に依存し、ホルガという集合体に飲み込まれてしまう。

これまで述べてきたこと以外にも、無意識に村に依存してしまう原因があると筆者は考える。

それは普通の日常を過ごす人が、危険な地を求めること自体が我々、人間の本質なのではないかということだ。人間は本能的に主人公たちのような「空虚な日常」を終わらせるためには非日常的な刺激を求めてしまう。そのように想定した場合、村から離れず留まり続ける主人公たちの行動にも合点がいく。

刺激を目的として危険な地、未開の地に足を運ぶ。

ニーチェ的退屈

文化人類学的にも非日常の地は研究対象になる。おのずと求めてしまうのであろう。主人公たちはごく普通の若者だ。そんな彼らが刺激の地を求めるのは当然かもしれない。 哲学者ニーチェは『悦ばしき知識』にて、以下のことを述べている。

「いま、幾百万のヨーロッパ人は退屈で死にそうになっている。彼らは何としてでも何かに苦しみたいという欲望を持っている。その理由は苦しみの中から自分が行動を起こすためのもっともらしい理由を引き出したいからだ。」

『悦ばしき知識』

ニーチェは”退屈”で死にそうな人間は多少なりとも苦痛があるが生きる動機、目標を持った日常よりも、生きていくうえで何かを行動するための動機や目標がないことの方がよっほど苦しく、それならばいっそのこと、”動機付けのための苦しみを得たい”と述べたのだ。

ここで言う”退屈”とは、熱中することがなく、繰り返される退屈で空っぽな日常という意味だ。ミッドサマーの主人公たちのホルガに来る以前のアメリカでの刺激のない日常にあてはまるのではないだろうか。ダニーは家族が喪失し、日常的に向精神薬を服用したり過呼吸になったり空虚な人間関係など、日常からの脱却を望んでいた。

ダニー以外の男たちについて、彼らも日常に刺激を求めていたのではないだろうか。

ダニーのように刺激的な出来事もなく、たまに仲間で集まり、パーティーし、取るに足らない会話をしていた。

各々が各々の理由でアメリカでの日常から脱却することを望んでいたのだ。

ラッセルの退屈論

若者たちの退屈で空っぽな日常については哲学者ラッセルが退屈論と称し下記のことを述べている。

人々は何不自由ない生活をするが、何か満たされない、そして人は退屈から逃れようとし、今日と昨日を区別してくれるものを求める。今日と昨日を区別してくれるもの、それが刺激であり事件である。

事件が起きれば、終わりなき日常の反復は断ち切られるが、そうした事件はなかなか起きない。

そのために人々は事件を望むのだ。

最終的にラッセルは退屈論をこう纏める。

ひとことで言えば、退屈の反対は快楽ではなく、興奮(刺激)である

人間は退屈な日常から逃れるために興奮を求めるのだ。そして人間は「興奮できれば何でもいい」と考え、それが不幸な結果をもたらすかどうかの判断は二の次になる。日常を断ち切るために事件さへ求めるのだから。

「退屈」を回避する人間

ニーチェとラッセル、両者の言葉から汲み取るに人間は空虚な日常の退屈から逃れ、何か行動したい、そのためには善悪に関係なく刺激を求め、その刺激によって明日を生きれる糧を作る。それが人間の本質なのだ。

争いが起きれば退屈ではなくなる。机上のディベートでも喧嘩でもそれさえ起これば何気ない日常に刺激が与えられるのだ。その争いに参加すること動機となり、明日も生きられる。

日常に刺激を求めることについて、これはホルガを訪れる主人公たちにも当てはまる。

普通のアメリカの若者たちが空っぽな日常から逃れるため、無意識に北欧の文化にのめり込んでいく。

ダニーは家族を失い、生きる目的・動機を失い日々が空っぽになった。さらに彼氏や友人たちとの関係も空虚。ダニー以外の仲間たちもなんとなく日常を過ごすのみで刺激はなかった。だからこそ卒論という研究を言い訳に危険なことも顧みず行う。終盤、ジョシュが研究のため、ホルガにある忍び込んではいけない貴重な書物が保管されている神聖なる書庫に夜な夜な忍びこんだのも本人にとってホルガの異質な文化の研究こそが生きる目標となったからだ。ホルガは主人公たちそれぞれにとって昨日と今日を分けてくれる存在になったのだ。

ホルガのカオスな儀式は退屈な日常に刺激を与え非日常を味わうことができる。村のおかげでこれまでの日常を断ち切れるのだ。

感情を共有してくれる地、ホルガ

cited frm a MIND on FIRE

ラストシーン、花に包まれたダニーは笑顔だった。

ダニーは物語の中盤までは悲しんだり、パニックを起こすことが多かった。あまり笑みを浮かべるシーンはなく、知人の中でダニーの感情に寄り添ってくれるのはホルガ出身のペレのみ。

物語の冒頭、ホルガへ行く計画をしているとき、ペレはダニーにこう語る。

「君が来てくれてとても嬉しい。君にとってもいいことだ。それに僕は君に起きた出来事を心から悲しんでいる」

最初からペレはダニーに寄り添っていたのだ。その場にはほかの知人も彼氏のクリスチャンもいない。

感情を「共有する」村

さて、ホルガは喜怒哀楽を住民たちの間で共有・共感する風土がある。

たとえば、ダニーの気分が落ち込んでいるとき、ホルガ出身のペレは寄り添い、感情を共有するし、村の儀式においても老人が崖から飛び降りたが死にそびれたとき、老人とともに村人も苦しみを共有した。

喜びの感情ではメイクイーンを選ぶハッピーな儀式にて、皆で笑いながら踊っていた。その儀式以外のときも基本的には悲しみや怒りがないときには皆、微笑んでいた。

ダニーがメイクイーンに選ばれた直後、クリスチャンは村の娘と性交させられるが、このとき、村の女性たちは性交している二人を囲み、性の喜びを共有する。服も着ず、皆、裸で感情を分かち合っていたのだ。ダニーはその性交を目撃してしまうのだがそれによる悲嘆をも村人たちはダニーとともに受け止める。非常に奇怪な光景である。

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このようにホルガでは、ひとりの感情を皆でともに分かち合うのだ。生活習慣においても同様で、食事を共に過ごし就寝も一緒。それがホルガの風習であり、そのように生活スタイルから儀式まで感情を共有をし合うことでホルガは一体感や集団としての連結を強固に保っているのだろう。

ホルガの風習は、共同体がなかったダニーにとって自らを包摂してくれる貴重な存在となる。

空虚な人間関係、誰も感情を共有してくれず、孤立していく一方だったダニー。そんなとき、たまたま出会ったホルガという自分を包摂してくれる強い共同体。ダニーは自らを包摂してくれるというこれまでなかった価値観を持ち、ホルガにどんどん引き込まれていく。

ホルガに出会い、新たな価値観や神秘現象を感じることで村に依存していく。ダニーは無意識にこれまでの日常から離れようとし、強い共同体に飲み込まれていく。

彼女にとって頼みの綱であった彼氏のクリスチャンにも裏切られる。

家族・仲間・彼氏、どこにも居場所がなくなったダニーはメイクイーンとなりホルガに受け入れられる。

守ってくれる共同体の一部になることでダニーは自らの悲しみの過去も克服できる。喜怒哀楽をみなで補填し合い、共有するホルガはダニーにとって安堵の地になったのだ。

ダニーの笑顔、それは自分を包摂してくれる共同体を失っていた人間が新たな共同体を手に入れた瞬間だ。

誰しもに役割を与えるホルガ

物語の中盤、「先祖の朽木事件」が起こる。

犯人は登場人物の一人、ジョシュ。彼は物語の序盤にダニーとクリスチャンが電話をしているとき、クリスチャンに「早く(関係)を終わらせろよ」と言い放った人物であり、さらにそのあとすぐクリスチャンにレストランのウェイトレスに乗り換えろよとのたまい、北欧の旅の計画の際、「乱痴気パーティーしよう」と軽薄な言葉を発する。とにかくデリカシーがないのだ。

ホルガでもそのデリカシーのなさは発揮される。なんと、ジョシュが村にある先祖の朽木に小便をしてしまうのだ。

そのとき、村人の1人は異常なほど憤慨していた。この後の展開などから推測するに、ホルガでは生まれた人に役割を与える風習があるのだろう。この村人は 先祖の朽木を守る役割を与えられていたのではないだろうか。その村人は激高し、そのあと傷心した。先祖の朽木が汚されたことが原因であるが、それと同時に役割を与えられていた自分がジョシュの愚行を止められなかったことにやるせなく、悲しんでいるのではないだろうか。

もしくは役割を全うできず、汚されたことで自分の存在意義が失われたと捉えたのではないか。それほどまでに異常にその村人は怒り悲しんでいた。

このように、生まれたとき、ホルガから役割が与えられる村人たち。役割が選択されることについて個人の意思は介入しない。

さして無茶な役割ではないため、すんなり村人たちはホルガから与えられる役割を受け入れるのだろうが、自分で選択してはいないということに変わりはない。そしてそれは個人が統制された共同体を保つために機能しているということだ。個人の選択、個人の自由意志ではない。

さて、物語の終盤、ホルガの儀式にて村唯一のメイクイーンに選ばれるダニー。このとき、ダニーはメイクイーンという村唯一の役割を与えられる。そして、たくさんの花に包まれダニーの意志に反して祭り上げられる。

方や彼氏のクリスチャンは終盤にホルガの異変さに気付くが、時すでに遅し。ホルガの村人に捕らえられ、拘束されてしまう。クリスチャンは動けず、喋ることもできなくなり、自由を奪われてしまう。

メイクイーンになったダニーと身動きも取れず喋れなくなったクリスチャン。

2人は対称的にに見えるが、常に村人たちから監視され行動が制限されるという点では同じだ。

花いっぱいに包まれたダニーも身にまとう花のせいで動きが不自由になる。手足がなくなり熊の死骸の中に入れられたクリスチャンも同様に身体の自由が効かない。

物語のラストは2人とも自由を失くし、ホルガという共同体に飲み込まれてしまうのだ。

メイクイーンという役割与えられたダニーと、性を宿すという役割を与えられ、最期は生贄として命を絶やされたクリスチャン。どちらも不本意に村の象徴になってしまった。

ホルガは様々な形で誰しもに役割を与える。

それはホルガという共同体を維持するために個人が存在していることを意味する。では、役割を全うできなくなったらどうなるのか?ホルガでは年齢に応じて、旅の期間、夏の期間など年齢によっても大きな枠組みとして役割が与えられる。

しかし、72歳以上にはそれがない。さて、高齢になればどうなるのか。それはホルガに訪れて最初に見たカオスな儀式を見ればわかる。伝統的な風習で72歳を迎えた高齢者は崖から飛び降り、死ぬ習わしがあるのだ。その儀式ーー高齢になったから死なないといけないーーは、以下のように考察できるのではないだろうか。

老化により、生まれたときに与えられた役割を全うできなくなると、共同体の維持が困難になる。いなくなった方が共同体という大きな機械は狂いなく機能する。そのために、役割を全うできなくなった人物には死ぬという役割を担わせる。

あの儀式も共同体を維持するための習わしということであろう。

なんというカオスな伝統なのか。

あの儀式は特に異質な怖さを感じる。ホルガは共同体維持のため、様々な風習や伝統があり、個人は共同体のために機械的に存在していることがわかる。

もっとも、物語の始め、ホルガに訪れたあたりでペレは「自然は本能的に調和を保つ方法を知っている。すべてが機械的に役割を果たす」と言ってるのだ。

つまりは人間も自然の一部であり、ホルガでは機械的に役割を果たすということであろう。

個人がホルガから与えられる最後の役割は共同体を機能させるための “死” なのだ。

ホルガは楽園か、異様な共同体か

ミッドサマーでは、包摂してくれる共同体を失った人間が無意識に結びつきが強い共同体に飲み込まれていく過程を描いている。

ダニーの最後の笑顔は彼女にとってはハッピーエンドを意味するが、見方によってはダニーの結末はバッドエンドとも捉えられる。故郷のアメリカにも帰れないだろう、家族を喪失し、希薄であったが仲間も亡くした。獲得した共同体はカルト的で危険性も含んでいるのだから。

本当にそれで良かったのかと鑑賞後に気付かされる奇妙で異質な映画である。

想像がつかず、理解しがたい奇怪なシーンが連続するために見ている側も物語に心ひかれる。ダニーのように、退屈から逃れたいのが人間の性なのだから、奇妙で気味が悪くてもどうしても見ていて『ミッドサマー』の世界観に夢中になる。ダニーは家族の喪失により包摂してくれる存在がなく、日常も退屈だった。そんなとき、偶然にも本人からすればベストなタイミングでホルガに出会ってしまった。

カルト的な共同体に飲み込まれて最後は笑顔になる。その奇妙さはまさにホラーだ。

さらに、物語を見ている側も、それがカルト的であれ、強い結びつきの共同体には魅力に感じてしまう。それも退屈な日常から逃れられるなら尚更である。

主人公たちがホルガを訪れ、自分たちの空虚さに気付いたように、見ている側も現実の空虚さをミッドサマーによって直視させられるのだ。『ミッドサマー』を見ていると、じわじわと現実の空っぽさを虚構の物語によって知らされてしまう。奇妙で気味が悪いと感じるのもある種、現実への拒否反応なのかもしれない。

ダニーのように、ホルガの一部となったら現実からは逃れられ、ハッピーエンドになるだろう。本人にとって結果的にはホルガは楽園となったであろう。しかしながらダニーは無意識にホルガに引き込まれた。それほど奇妙なことはない。ホルガは奇怪な土着文化を持つ異様な共同体なのだから。

ただし、その特殊さは日常のスパイスとなり、今日と昨日を区別してくれるのだ。その特異さに人間は心奪われる。

鑑賞後に疑問を持つ。

あの村は楽園か?生きる屍になる村か?

ミッドサマーは人間を魅了する異質なホラー映画なのだ。

 文・自称バームクーヘン
 絵・Miharu Kobayashi
編集・川合裕之

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