(C)「街の上で」フィルムパートナーズ
倍速で映画を見るのは是か非か。筆者としては「非」一点なのですが、とかくそんな議論が少し話題になりました。すっかりその熱は冷めましたが、また今後も定期的に燃え上がる火種だろうと睨んでいます。
もし仮に、倍速で『街の上で』という映画を見たとします。こうして「視聴した」という事実は、「鑑賞した」という体験と符合するのでしょうか。
いいえ、きっとそうはならない。倍速処理を施すことによって指から零れ落ちるものたちこそが、きっとこの映画のエッセンスでしょう。
『街の上で』
今泉力哉監督作品。同氏の監督作『愛がなんだ』で脇役ながらに抜群の存在感を放った若葉竜也を主演に抜擢。下北沢の町に住む荒川青(=若葉竜也)の、過不足ない文化的な生活に、ありがちな非日常が訪れる。荒川青を中心に繰り広げられる「下北沢」という街での群像劇。恋と日常の物語だ。
きょうは「時間」と「空間」の両方の観点からこの『街の上で』という映画のことを考えてみることにします。
-目次-
語らない時間が語ること
物語の拠り所
部屋:生活という営みの最小空間
語らない時間が語ること
この映画には「間(ま)」が存在しました。時間と空間の両方を持ち合わせた、認知可能な空白です。空白。無いものがそこに或る。それは無ではなく、無価値でもありません。何もない空間が、何も起きない時間が、それぞれ意味を帯びてくる。
この作品の「間」が掬いあげるものとは何でしょうか。ためしにまずこの物語の主人公・荒川青がどんな人物であるか確認してみましょう。
「下北沢在住、古着屋勤務、異性関係はすこし荒れ気味」
彼のプロフィールを簡単に文字で書いてみる。なんだか味気ない。映画のことを知っている人からしてみれば「間違ってはいないが、正確ではない」と不満に思うでしょう。必要十分条件を満たしていないのです。
下北沢というそこかしこに文化の根がある空間で、自分の時間を過ごす。そんな主人公・荒川青にとっての穏やかな日常を端的に表現するのは難しい。
下手にまとめようとすれば簡単に指の間から逃げて行ってしまうその余剰を逃さないのがこの映画です。その余剰に名前を付けろと強いられるならば、これを現実感とでも呼んでみましょうか。
「長回し、固定カメラ、沈黙を臆さない会話」
「間」によって現実感が増強する最も顕著な例に「青とイハの会話劇」が挙がります。
深夜の城常イハ(=中田青渚)の自宅でテーブルを挟んだ、まだ互いによく知らない2人が細々と会話をする。ショットの切り替えしは無し。近からず遠からずの絶妙な距離に固定したカメラによるワンカット。2021年、いや、21世紀のベストシーンです。
(C)「街の上で」フィルムパートナーズ
双方は負けず劣らず言葉を尽くす。青のぬるい声と、イハの少しとげのある関西弁が部屋に充満する。かと思えば、誠実さのためには沈黙も厭わない。他者との関係を丁寧に丁寧に構築する慈しみ深さがここにあります。これを倍速で見たとして、時間あたりの情報量は果たして本当に2倍になるのでしょうか。
千載一遇の友人であるが、初対面の女性の部屋にあがりこんでいるーーそれも二次会から逃げてーーという状況証拠が喉に引っかかります。青の、イハの、そして観客の喉に。全員を静かに緊張させている。ごくごくごく僅かに瓦解する可能性を孕んでいる。安易な表現になりますが、妙にリアルなのです。
静かな夜の時間。固定カメラで抜いて長回ししているだけなのに、いいやだからこそ、ここに様々な機微が浮かび上がります。
映画という媒体で「静の時間」を描くこと
いかに理論武装したところで、実際のアキレスは亀に悠々追いつくのが現実です。時間は分割できない。ギリシャのお偉いさんを味方につけるまでもなく当たり前のことですが、この事実は貴重です。
時間は分割できない。当たり前だ。しかし、映画は「時間を分割しながら作る」媒体です。ある出来事から重要な時間だけを抜き出し、それを集めて物語を作る。撮影した動画をカットして繋げる。入れ替える。映画という媒体はあらゆる面において、人為的な秩序で時間が支配されています。
だからこそ映画に現れる「切らない時間」「切られなかった時間」には大きな意味がある。その時間こそ、どうしても割愛することのできない必要不可欠な間だからです。
(C)「街の上で」フィルムパートナーズ
物語の拠り所
「映画はお話がわかれば良いのか? そうじゃないだろう?」というような論調になってしまいましたが、『街の上で』の物語は愉快そのものです。
この物語は非常にエンタメ性に優れています。脚本は今泉監督のみならず、「音楽」「太郎は水になりたかった」などを手掛ける漫画家の大橋裕之も参加。角と飛車が揃ったこの布陣に隙は無いようです。群像劇とは言い得て妙、それぞれの思惑が絶妙に交差しています。
そことそこ、そう繋がってこう転ぶ? あれ、もしかして、だったら実は……?
想定外に想定外が重なり、そして最後に淡い想像の余韻を残してくれるのです。
物語を成立させるために
少し寄り道をさせてください。そもそも、なぜ人は群像劇に夢中になったりするのでしょうか。考えてもみてください。だってこれは机の上でつくられた人工の物語じゃないですか。距離をとって「そんな都合の良い話なんてあるはずない」と一蹴してしまうことだって簡単です。
群像劇は観客が作る?
いかなるフィクションでも同じことが言えますが、特に群像劇は観客からの無意識の譲歩が必要。これはお話なのだから、と観客は常に歩み寄る。詭弁と思われるでしょうか。こんな状況でも感染予防しながら街に出て、安くない金額を払い、映画館に着席する。観客全員が同じ方向に膝を向けて物語に没頭する。ずいぶん前のめりじゃありませんか。
本当の意味での「現実にある日常」は銀幕で見せるほどの求心力は持っていない。だからこそ不自然で突飛な出来事が物語に用意される。その沼が深いことを知りながら観客は静かに沈んでいく。
「そんな話はありえない」という合理的な判断は物語を楽しむうえで非合理。野暮なノイズでしかありません。
映画『街の上で』が提示するもの
それでは映画の方は物語を成立させるために何をしているでしょうか。
この『街の上で』という映画においての譲歩は、きっと「彼らは現実に存在するのだ」という材料の提供でしょう。
作品の題材となるのは「下北沢の街」という身体にとっての、謂わば静脈のような人間の営み。活発に観光する外部の人ではなく、その地で当たり前の毎日を穏やかに暮らす者たちの生活です。だからこそこの作品では「下北」という記号を丁寧に払いけ、人間の有様を描写します。こうしたリアリティの追究が群像劇の信憑性を極限まで高めてくれたのだと筆者は結論付けました。
この映画では「部屋」という装置が、人物描写の底上げにおいて効果的に機能しているようです。
部屋:生活という営みの最小空間
さきほどは映画は時間を分割して切り取る、なんて偉そうなことを書きました。偉そうついでにもうひとつ。映画は「空間」という「間」をも切り取ります。この『街の上で』という作品は、空間の切り取りという点においても非常に意匠が凝らされているようです。
事実、映画製作のためには「ロケハン」という工程があり、誰かが撮影許可のため奔走しています。それでも理想の場所がないならセットを組むわけです。また、その空間に存在する物体は可能な限りコントロールされます。
『街の上で』それ自体だってそうです。「下北沢」というもはや一般名詞に近い固有名詞が舞台のこの物語は当然下北沢で撮影されなければ成立しえないわけですし、美術スタッフもきっとたくさんの仕事をしたに違いありません。
そういえば劇中でも青を振り回した映画監督(あいつマジで許さん)が彼の前に現れ「自分は映画を撮っているのだが、頼みがある」と打ち明けられた際には「ウチの古着屋を使いたいのか」という旨の返答をしています。やはり下北沢ともなれば映画のロケーションに選ばれるのは日常茶飯事なのかもしれません。
部屋を与えられたキャラクター
「映画は空間を選択して切り取る」という視点を持って『街の上で』を振り返ってみると、あることに気づきます。この物語において主要なキャラクターには決まって部屋(または店)が与えられているのです。
・青の適度に整頓された自室
・同じく青の、カウンターの奥に居場所を約束された古着屋
・イハには少し広すぎる自宅
・聞き上手のマスターがいる、皆のいきつけ
・俳優、間宮武の自室
具体的に挙げるならば上の通りです。
主人公となる青は「自室」と「古着屋」のふたつの場が与えられており、それぞれを何度も目撃することで、より彼の実在感がくっきりします。
ちなみに、この映画では4人の女性が青を振り回しますが、中でも「自宅」の所持を許されたのはイハだけ。しかし一方でイハの「自室」にまでカメラが踏み込まないのも興味深い。観客と青は、彼女の寝室や寝顔を目撃することはありません。あくまでも知人であり、恋人や家族ではないというドライな線引きの表れのようです。「とはいえ恋仲に発展するのでは……?」という邪推は、彼女の寝室をついぞ見ぬまま場面転換されることでばっさりと断ち切られることとなる。
さらには俳優の間宮武(=成田凌)にも映画から自室がプレゼントされています。朝ドラにも出演するほど(制作段階では成田凌本人役の設定を検討していたくらい)の俳優は、青と観客にとって雲の上の存在。しかし彼もまた恋人との仲を保ちたい、というあっけらかんとするほど「普通の」悩みで心を乱していたのです。別に俳優だからって異星人なわけではないわけだ。そんな彼に親近感を抱くにあたって、「彼にも部屋があるという事実」「その部屋を観客が見ていること」の2点は非常に重要な演出だったのではないでしょうか。
部屋のない者たちが群像劇に起伏を与える
群像劇のフィクション性ーー明け透けに言えばある種の「嘘っぽさ」「ご都合主義」--を最小限に軽減するためにキャラクターには固有の空間が与えられる。
しかし一方で部屋の描写がない者たちも存在します。比較的宙に浮いたような存在ですが、むしろ彼女たちが群像劇の歯車をゴリゴリと動かしてくれているようです。
たとえば青の交際相手であった雪ちゃんの部屋は登場しません。彼女はある種のファムファタール的な人物ですが、物語を引っ掻き回すために生まれてきたとすら思えてきます。彼女があっちへフラフラこっちへフラフラしなければ、この映画の登場人物はここまで頭を抱えることはありませんでしたから。
裏を返せば、物語の原動力たる存在であり、つまり限りなく人工的な機能を担っているということです。筆者の主観では最も現実感の薄い存在でしたが、人工的だったからだと考えると合点がいきます。
自主映画に出てくれ、といきなり現れたくせに結局は邪険に扱ってきやがった映画監督志望の学生(あいつホンマに許さんからな)の彼女もまた、雪と同様に自室が与えらえていません。この映画において物語を動かす機能を担う存在に個室が与えられていないという可能性を裏付けてくれます。
自室の有無がキャラクターの手触りを大きく左右する。人間性がより重要な者には部屋が与えられ、群像劇を加速させる役割を担う人物には自室が意図的に与えられていないのです。
日常は「部屋」からはじまる
指摘するまでもない事実として、この映画の出来事はどれも彼らの現実の生活に起こっています。知人の急逝、失恋、不倫、浮気ーー。このように漢字で書いたらば大仰で身構えてしまうけれど、冷静に考えれば別にどれも現実で起こりうることではありませんか。
そうした類の日常そのものを、この映画は描きたかったように感じます。だからこそ、立体感のある人物には必ず自分の部屋が与えられている。
そうだ、部屋という空間こそが日常の最小単位ではありませんか。
あさ目を覚ます、服を選んで着替える。夜はスーパーの食材を手に提げて玄関をまたぐ。夕食をつくって湯を浴びる。寝る。ある日には好きな映画のDVDを買ってみる。もちろん部屋で保管するわけだから、好きな映画ばかりになる。この場合の「映画」には服やCD、書籍、インテリアなんかも代入可能だ。あるいは、もうすっかり弾いていないギター。しかしギターはそこにある。たしかに存在している。過去の自分が選んで買ったのだから。
些細なことを繰り返し、積み重ねて保存する最小単位こそが「部屋」なのです。
保存されたものは、取り出すことができる。ふと手を伸ばせば忘れていた日常の跡を指でなぞることができる。
前触れもない突然すぎる日常の破壊とともに保留されてしまった誕生日ケーキという「食のモチーフ」は、すべてが解決した後、映画の最後に再び現れます。
腐っているんじゃない?と恐る恐る口に運んで、案外大丈夫だったことに笑みをこぼす。冷蔵庫で保留されていた日常を噛みしめながらこの映画は幕を閉じる。しかしきっとエンドロールのその先で、彼らの日常は伸び続けているはずです。
文・川合裕之
編集・安尾日向
解説『街の上で』(2021)
監督:
今泉力哉
脚本:
今泉力哉
大橋裕之
出演:
若葉竜也. 穂志もえか. 古川琴音, 萩原みのり, 中田青渚. 成田凌(友情出演)
音楽:
入江陽
主題歌:
ラッキーオールドサン「街の人」
撮影:
岩永洋
筆者は城定さんがホンマに好き。なお、このキャラクター像は製作の過程で磨き上げられたもの。「普通にするよりも関西弁にした方が面白い。大学生ならば方言であってもそう不自然ではない」と閃いたそうです。これを演じた中田青渚さん「関西弁にすると親しみやすくなるが、そうするとバランスが壊れてしまうから」という理由で “抑えめの” 関西弁を徹底したとのこと。言われてみれば確かにそうかもしれない。そっけない関西弁、逆に好きになってしまいそうではありますが……。