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複雑な映画だった。だから『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』にはいろんな読解 / 解釈 がある。
しかし、こういうのはどうだろう。これは自己同一性の映画だ。
そう考えると、「なぜ靴を反対に履くのか」「なぜベーグルなのか」の理由が見えてくる気がします。「なぜクィアな人たちばかりにスポットライトが当たるのか」の説明も、多分これでなんとかなると思います。
ちなみに、難解でお馴染みのテレビ版エヴァンゲリオンの「おめでとう」や “スタンドアロン・コンプレックス” の意味も、この記事で少しは掴めたかもしれません。
mokuji
我々は “バースジャンプ” をどう解釈するか
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“バースジャンプ” で多次元宇宙とシンクロすることで、カンフーや肺活量など、あったかもしれない世界の特殊なスキルを習得することができる。マトリックスの応用版ですね。
多次元宇宙を理由に複数の個性を一度に獲得できるというのは映画としてはスマッシュなアイディアです。まずこの設定自体が抜群に面白い。本当にありがとうございます。
“バースジャンプ” には引き金が必要
ここで注目すべきは、“バースジャンプ” には引き金が必要だということ。
別の宇宙を見るためには、一般的に「奇妙 / 変」とされる突飛な行動が不可欠です。
たとえば、リップクリームを全部食べたり、靴を左右逆にして履いたり、おでこに目を付けてみたり ……。より強大な力を得るためには、より違った宇宙に行く必要があり、そのためにはより風変わりな行動をとらなければいけません。
この映画はそもそもとんでもないぶっ飛び設定です。「変なことをする」という制約を取っ払ってバースジャンプできても良かったのでは? なぜ彼女らは変な行動をする必要があったのでしょうか?
その理由を、「自己同一性」という観点で考えてみたいと思います。
▼キーワードは「自己同一性」
ADHDのメタファー※という解釈も可能だし、インターネットテクノロジーのアナロジーとも捉えられますが、この記事では「自己同一性」だけに焦点を絞って考えていきます。
※脚本製作中、ダニエル・クワンは1年間セラピストに通った末にADHDだと正式に診断され、その経験も作品に活かされたという。(公式パンフレットのインタビューより)
快楽:あったかもしれない自己像の妄想
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自分ではない誰かになりたい。できれば、今の自我を保ったまま。誰もが一度は心に抱くわがままな叶わぬ願望です。
税金の経費申請はむちゃくちゃでデスクは散らかり放題。娘はなんか反抗期っぽいし、夫はずっと頼りない。夜までにパーティの用意をしないといけないし、昔気質の父は英語も話せないのに中国からウチにくる。
そんなエブリンにとって、「もしかしたらこうだったかもしれない可能性」はどれもこれも魅力的に映ります。疲れ果てた日常の役割から解放された、今よりも刺激的な環境。別の自分になる <エクスタシー> を体験することができます。
映画の観客である私たちも彼女に強く共感します。私たちにもそんな嘘みたいな幸せを掴めた可能性がある。
(僕だってあのとき灘中に受かっていれば ……)
自分を保てない不安と苦しみ
平行宇宙を飛び回り、さまざまな可能性を同時(at once)に体験することは非常に難しいことです。現実世界ではもちろん不可能ですが、映画の中でもある程度の制限がかけられています。
マルチバース間の移動には高度な技術やトレーニング、あるいは類稀なる才能が不可欠。いずれかが不足している場合には心身へ大きな負担がかかってしまいます。頭が割れるように混乱し、文字通り視界が割れてしまうことも。
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私たちは <わたし> は <わたし> なのだと安心できる自己同一性に飢えているのです。
さて、では自分らしくあるために、何をすればよいのでしょうか?
あらゆる可能性を削って紡ぐ <わたし> の存在
この映画で色濃く描かれているのは <エクスタシーの放棄> です。ありあえたかもしれない自分を捨てて、ようやく今の自分という唯一の <わたし> を定義づけることができます。
少しわかりづらいですね、詳しく補足しましょう
本作におけるマルチバースは、ありえたかもしれない無限の可能性。反対に考えれば、そうした選択肢をすべて切ってたどり着いたのが現在のエブリンの姿です。
今の夫と結婚し、コインランドリーを経営し、娘を産み ……。そうした選択の副産物として身につけることになった社会的役割が今の彼女を定義しています。
少し突飛なアイディアかもしれませんが、社会的な仮面 <persona> と形成された人格 <personality> は、少なくとも英語のスペルではどうもご近所にお住まいらしいことを考えると納得してもらえるかもしれません。
その選択は間違っていない!
母であり、経営者であり、頼りない夫に代わる大黒柱である。それが今のエブリンです。
しかし問題は、その選択が正しかったのか、ということ。自分で選んだはずの選択の結果が、実は間違っていたのではないかという後悔や疑念です。
今の自分と、なりたかった自分とのギャップに人は誰しも苦しんでいる。おそらく古来から現代まで、万国共通のコンプレックスなのでしょう。
(そういえば筆者もあのときもし京大に受かっていれば……)
いや、でもちょっと待って!なりたい自分って肩書きだけで形成されるものなの?
今の夫と結婚していなくても、コインランドリーの経営者でなくとも、指がソーセージであったとしても、というかなんなら肉体なんて無くったって、<わたし> は <わたし>であって、ほかの誰でもない!
そして、あなたもそう。<あなた> は <あなた> じゃないですか!
当たり前だけどね。だから報われない気持ちも整理して生きていたいの。普通でしょう?
——というのが、この作品のおおむねのメッセージと言えるでしょう。
社会規範を守る / 壊す ではじまる自分探し
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①いまの社会的な役割を破壊して、あったかもしれない可能性を夢想する
②あらゆる可能性を吟味した上で、<わたし> は <わたし> なのだと認識する
③そのうえで、 <あなた> は <あなた> であることを肯定する。
本作は大きく分けてこの3つの構成で成り立っています。
「なぜ靴を反対に履くのか?」の問いの答えは①に紐づくものだと考えられます。
自己の同一性は社会的役割によって決定されがちであり、社会的な役割とは慣習に基づいています。だからこそ、慣習の破壊がバースジャンプ(違う自己像の獲得)の引き金になっている。奇抜であれば奇抜であるほど、社会的慣習は大きく破壊される。大きく破壊すれば大きく破壊するほど、今とは違った可能性に辿り着くことができます。
我々にとって不可能でないものを、可能たらしめるのは、習慣である
ミシェル・ド・モンテーニュ『エセー』
なぜ最初の敵が国税庁だったのか?
どうしてこの映画の舞台は国税局だったのでしょうか。アクション、アジア、クィア、宇宙——もう十分だったはずなのに。その答えも「社会的役割」で説明がつきます。
社会的役割を壊す前の、社会的な役割こそが自己だという思い込みの檻に囚われていたエブリンにとって、国税庁の監査は大きなピンチ。守るべき(だと固執していた)アイデンティティを失う可能性に立たされています。営業が停止になってしまえば、経営者であり大黒柱であるという二つの個性を奪われる危険性があったのです。
最終的に彼女はガラスをぶちやぶって Nothing matters. です。別に夫はエブリンが支えなくても優しいし、娘は娘で自立している。尊敬して愛せる家族がいるならば、最悪どうでもいい。劣等感、カテゴライズ、そういうの忘れてみましょうってな具合です。
衣服:万人が纏う社会的な記号
「なぜエブリンがクリーニング屋だったのか」も守るべき(と固執している)社会的役割に繋がります。
クリーニング屋とは、衣服——つまり社会的記号——の集積地です。服がなければ社会的役割を果たすことができません。役割に適した服も、洗わなければその役割は壊れてしまいます。人々は社会の中で自分を保つためにクリーニング屋に足を運ぶのです。
蛇足ですが、「衣服」といえばジョブ・トゥパキがとても独創的なファッションであったことにも注目したいです。厭世観に囚われた破滅的なヴィランでしたが、彼女には(良くも悪くも)過剰なほどの自意識が存在します。
自分探しの終着点
最終的にエブリンは、②あらゆる可能性を吟味した上で、<わたし> は <わたし> なのだと認識します。いま置かれている環境に意味などなかったのです。どのバースの自分も、自分らしい。もちろんいまのバースも。
そうだ!これ(=ラブコメ風の日常)もひとつの世界。僕の中の可能性。今の僕が僕そのものではない。いろんな僕自身があり得るんだ!そうだ!エヴァのパイロットではない僕もあり得るんだ!
僕は僕が嫌いだ。でも好きになれるかもしれない。僕はここにいてもいいのかもしれない。そうだ!僕は僕でしかない!僕は僕だ。僕でいたい。僕はここにいたい!僕はここにいてもいいんだ!
<歓声 / 拍手>テレビ版「新世紀エヴァンゲリオン」
「おめでとう」「おめでとう」「おめでとう」……..
最終話 世界の中心でアイを叫んだけもの
(括弧内の加筆、句読点は筆者の采配による)
せっかくなので僕からも一言。シンジくんおめでとう。
さて、では、自己を形成するのは何なのでしょう。ジェンダーでも職業でも人種でも、あるいは肉体でもない。そうした要素を全て削ぎ落としたとき、何が <わたし> を定義してくれるのでしょうか。
自分以外の存在がないと、あなたは自分の形がわからないから。
同
他人との違いを認識することで、自分を認識しているの
同
そうです、他者です。藪から棒に好きな作品を借用して無理矢理こじつけているわけではありません。「エブエブ」でもしっかりと “他者の必要性” が語られています。
自己は他者が定義する
仮面を取り除き、衣服を脱ぎ捨てた純粋な <わたし> の自己像は、同じようにして純粋になった他者との交流によりさらに確固たるものになります。
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家族の優しさに触れてようやく自分の価値を再確認できたし、国税局員という肩書きを一時的にオフにした彼女となら他愛のない雑談をすることだってできる。とんでもない悪者だと思い込んでいたけれど、案外素朴で素直だったジョブ・トゥパキとも心を通じ合わせます。もちろん、今のバースの娘ジョイとも。
自分が自分であるためには他者の存在が不可欠なのです。
「だけど私は情報の並列化(=没個性)の果てに個を取り戻すためのひとつの可能性を見つけたわ」
『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』
「ちなみに、その答えは?」
「——好奇心。多分ね」
26話:公安9課、再び STAND ALONE COMPLEX
括弧内は筆者が加筆
<わたし> を <わたし> たらしめるのは他者 <あなた> であるし、他者 <あなた> を本来的な意味で <あなた> たらしめるのは、<わたし> なのです。
愛がなければ、全員の自己実現は叶わない。
ベーグルは “究極の他者” を象徴する
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町山智浩氏などはニヒリズムと絡めて論評し、またあるライターは作中のベーグルは虚無やゼロであると断言していますが、せめてあともう一歩くらい踏み込んで考えてみよう。
「ベーグル」を「穴」と「パン」の両方を同時に持つ現象として定義します。たしかに空洞部分は虚無ですが、同時に、丸く囲んだパンの部分にも注目が必要です。
穴 / 虚無 は単独で存在しない
ベーグルの穴は、パンの部分が存在しないと成立しません。パンがなければ穴は存在しえない。「無 / 穴」であったとしても単独では存在を許されず、存在の定義を他者に依存しているのです。
そして宇宙を渡り歩くジョブ・トゥパキの真の目的はエブリンを殺すことではなく、「この虚無を知って共感してもらうこと」でした。
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最終的にエブリンは、虚無が虚無であることをも容認しますが、まさしくこれは穴を包むベーグルのアナロジー。自己否定や厭世観、破滅願望でさえも他者の存在があってこそなのです。
Of All The Places I Could Be, I Just Want To Be Here With You.
Evelyn Quan Wang
「クィア礼賛」かつ「アンチ・クィア礼賛」
この映画はクィアな人たちを礼賛するものではありますが、クィアであるという属性それ自体を礼賛するものではないように僕は感じます。
「クィア礼賛」であると同時に、「アンチ・クィア礼賛」だ。
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繰り返しになりますが、もう一度この映画の抽象化した大筋をおさらいしましょう。
①いまのの社会的な役割を破壊して、あったかもしれない可能性を夢想する
②あらゆる可能性を吟味した上で、<わたし> は <わたし> なのだと認識する
③そのうえで、 <あなた> は <あなた> であることを肯定する。
さて、これが正しいとするなら、(少なくとも日本語で展開されている)評論や評価には大きな誤謬と重大な加害が潜んでいることになります。
外野が「クィア」と呼ぶことの加害性
「これはクィアの苦しみを描いた映画だ!」
「この映画はクィアな人々に救いを与えている!」
当事者でない外野による「これ言っときゃいいだろ」という下心で生成された意見が目立ちます。一切合切凡庸な意見です。
たしかにこの映画にはクィアあるいは統計的マイノリティに分類される属性が多く登場します。働く女性 / アジア系移民 / ADHDらしき性質 / 頼りない夫 / 同性愛 / 非標準体型——。
しかし、こうした属性の箱に押し込むことは、そこにある人格から目を逸らす加害的な行為でもあります。他者を理解しようとしない「クィアだ!」という感想は、不適切な同情の眼差しです。「あなたが思うより健康です」と跳ね除けられてしまうのが関の山でしょう。
映画の中の彼女らからも、そして実際にそのような境遇に置かれる人々からも。
他者理解の隠れた第一歩
そうではなく、他者の存在から目を逸らさずに見つめ直すことが重要です。そのためにはどうすればよいのか。その答えはもうすでに映画が教えてくれています。
“Please be kind. Especially when we don’t know what’s going on”.
文・川合裕之(店主)
/ 編集・雅楽パーティーベストヒッツミックス
[参考書籍]
・Everything Everywhere All at Once 劇場パンフレット(GAGA, 2023)
・坂部恵『仮面の解釈学』(東京大学出版会、1976年)
・千葉雅也・松本卓也「<実在> の時代と思想と病理」(現代思想 vol.47-16, 青土社, 2019年 )
・鷲田清一『じぶん・この不思議な世界』(講談社、1996年)