Te wo Arai mashou.

タグ: 北村匠海

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忘れた頃にいきなり現れて、おもむろに心臓を握ってくる。とてもじゃないけど、息もできない。そして、いきなりいなくなる。本当なら、会った瞬間にぶん殴って、叫びながら逃げた先の河原なんかで涙のひとつでも流してやりたい。なんで戻ってくるんだよ。とっくにさよならしたはずなのに。すれ違うだけで、苦しくてしょうがないんだよ。

でもさ、やっぱり会えるとなんだかんだ嬉しいんだ。色々とひどいことを言ってしまってすまない。謝るよ。本音を言うと、どこにいたの、探してたよ、って感じなんだ。実のところ、君に会って心が震えているうちは、僕はまだまだ大丈夫なんじゃないかなって思ってる。素直だろ。だから、忘れないように君のこと、君に会ったときのことを書いておくよ。できるだけ、いつまでも覚えておきたいから。

僕はといえば、すっかり「僕と書いて愛」とは読まなくなってしまったよ。ああ、そう。彼は、相変わらず。君なら、そんなの前前前世から予想していたかもしれないけど。でも、僕も、愛にできることはまだあるんじゃないかとは考えているよ。きっとそれはいくら汚れてしまっても変わらないはず。と、思いたいけど、まあ、これからどうなるかわからないよね。ただ、愛は今でも二日酔いだけは防いでくれないし、治してもくれないよ。これも相変わらず。愛がなんだ。うるせぇバーカ。

文・西川タイジ

1986年山形県生まれ。『トーキョーブンミャク』運営。肩書きは特にありません。好きに呼んで下さい。編んで書いて読んで飲んで観て聴いて泣いています。

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(C)2017映画「勝手にふるえてろ」製作委員会

「勝手にふるえてろ」という言葉。強いメッセージに見えるが、その核には何があるのだろうか。

筆者はこの言葉は観客に向けられた言葉だと感じる。そもそも私たちは映画を見てカタルシスを感じたり、物語を自分の人生に置き換えることはあるだろう。しかし『勝手にふるえてろ』は劇中だけで終わらず、見ている我々がヨシカに「勝手にふるえてろ」と言われることで後味が残る。

映画館を出ても、そのセリフの意味を考えてしまうのだ。スクリーンの中だけで終わらず、我々の日常にヨシカの言葉が重くのしかかる。

なぜ「勝手にふるえてろ」という言葉が強く響くのか。

その理由はこの物語が単なる恋愛物語だけではなく、自己陶酔から、他人と自分の相互承認によって自分を成長させる “自覚” へ進化する人間の物語であるからだと筆者は考える。そのうえで劇の最後に「勝手にふるえてろ」と私たちに突きつけたこの映画の目的とはなんであろうか。

名作日本映画『勝手にふるえてろ』の徹底レビューです。なぜあのラスト? なぜあのセリフ? いやいや一も二も、ヨシカにとっては “まったく同質の存在” じゃないの?

テクストと頭と筆を徹底的に絞った映画評です。文は自称バームクーヘンさん、編集は和島咲藍。7000字超の禅問答で生まれた目からうろこの解釈をお楽しみください。

(店主より)

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