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ちはやふる特集②誰の恋も成就していない少女漫画映画!?

か細く、弱弱しい励ましの声が聞こえました。

それは西宮ガーデンズのレイトショーで僕が『ちはやふる -結び-』を見ていたとき。クライマックスのある場面で、盛り上がりに盛り上がったところで隣の若い女性が上映中に声を漏らしたのです。

「たいちぃ~」

うん、わかる。気持ちはわかる。僕も思いましたよ「ちはや~~!!」って。「しのぶちゃん!!!」って叫びたくなりましたよ。松岡茉優好きだし。

でも、僕は敢えて声を大にして言いたい。「ちはやふる」シリーズは、言わずもがな少女漫画原作の映画ではあるが、しかしながら「恋愛映画」ではないと。にもかかわらずなぜ彼女は「たいちぃ~」と甘い声を漏らしたのか。今日はこの謎を解き明かしてみたいと思います。

これは綾瀬千早の恋の物語ではない

端正な顔立ちの広瀬すずが演じる綾瀬千早は、当然誰かから恋愛感情の籠った好意を向けられるべき存在である。と、そのように思い込んでしまいます。それは恐らく私たち観客が「少女漫画原作の映画化」という商業的構造と、根源的――あるいは原罪的な――ルッキズムに支配されているからでしょう。

(もちろん彼女が俳優として突出した魅力を持っていることは言わずもがなですが、「女優」という二文字の記号に「一般的に評価されやすい外見を持つひと」という意味を拭えずにはいられません。この認識は、2020年を目前とした日本の現状と言わざるを得ないでしょう)

しかしながら、彼女の視界には「かるた」しかありません。「かるた」と、その遊戯に必要な「場」を愛しているのです。かるたを通した人間関係こそが何よりも大事なのです。

「結び」の最後の場面を確認してみましょう。近江神宮での全国大会が終わり、わだかまりを清算し、各々が称え合いながらも闘争心を密かに燃やす。そんなシーンです。

千早:私、言ってなかったなと思って。

 新:何をや?

千早:その……「好き」って言ってくれたのの、返事。

 新:うん、あ。

千早:返事っていうか、気持ち。今の。

『ちはやふる-結び-』本編より

新から「好きや」と告白を受けていた千早が、総決算として面と向かって返事を送ります。さて、それに続く内容はといいますと、こんな具合。

千早:私……もっとかるた強くなりたい。

太一:(苦くうなずく顔をして、ノリ突っ込みのように「ん?」と驚く)

千早:強くなって、詩暢(しのぶ)ちゃんみたいに強さをあげられるひとになりたい。そのために、世界一になりたいって。

『ちはやふる-結び-』本編より

綾瀬千早は太一も新も「選択」しません。太一との関係や、新との関係も、すべて恋愛という箱に押し込めるのではなく、謂わば「かるたの絆」とでも呼べよう関係に落とし込みます。振り返ってみると、「上の句」も「下の句」も、恋愛に関する要素はあまりありませんでした。

上の句:千早によるチーム編成
下の句:チームの成長とは?
 結び:無形の文化を残すということ

決して男女の仲が中心の話ではないのです。まして、女性が男性にみそめられるシンデレラストーリーではありません。彼女は彼女の手で、自分の求めるものを獲得していくのです。

これは恋愛……なのか?

しかしながら、たしかに色恋の話にも見えなくもない。

「ちはやふる」のシリーズは気を抜いて見るとたしかに「恋愛っぽい」のです。登場人物たちは、「男女の恋愛」というクラシカルな価値観を持ち合わせている。この項では、映画の中で時折垣間見える「っぽさ」を集めてみましょう。

「綾瀬千早」は美人だ。

(C)2016 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀/講談社

純粋にかるたにだけ向き合う高校生の「綾瀬千早」は、男性の目を意識しているようには見えません。メイクやファッションにもさして興味がなさそうなのです。お化粧を研究する時間があれば練習するだろうし、「結び」でも自身の口からも語られるように、かるたをするのに可愛い爪は不要なのです。

高校の制服、練習着のジャージ、試合のための着物。この3つ以外の衣装で彼女が現れることはほとんどなく、ごく稀に見られる私服姿も正直垢抜けたものとは言い難いでしょう。高校入学早々に「彼氏候補ファイル」を作成し、太一と恋仲になろうと狡猾に策を練る花野とは対称的です。

千早:切らないの?爪。

花野:いやいやいやいや。切らないですよ。だってこれ昨日やったばっかりなんですよ。

千早:かるたやっていると手がぶつかることもあるの。爪が伸びていると怪我しちゃうでしょ?

『ちはやふる-結び-』本編より

そんな綾瀬千早という人物を広瀬すずが演じるわけですが、しかし「綾瀬千早」は映画という世界のために美化された存在ではありません。容姿端麗な俳優が演じていても作品世界では冴えない扱いをされる役もありますが、綾瀬千早は作品世界内でももともと「美人」なのです。

たとえば「上の句」のこんなシーンを思い出してみましょう。入学早々に千早は「かるた部」の創設を声高に掲げます。容姿の優れた彼女と近づけるのではないかという誘惑に釣られて、1年生男子が集まります。しかし、千早の覇気のある、いいや怒気のこもった姿に男性陣は「ひいて」しまって文字通り逃げ出してしまうのです。

それな。そもそもかるたとかやれる気がしない。見たでしょ、あれ。正気の沙汰じゃないって

『ちはやふる-結び-』本編より。花野の同級生、紗英の発言

モデルの姉(芸の細かいことに、実姉である広瀬アリスが演じています)を持ち、姉同様に美人の千早が、かるたで「豹変」してしまうことでこの場面は成立します。ちなみに「結び」で新入部員を勧誘する際にも同様のギャグパートがあります。

やはり「千早」は映画の世界の中でも美人の評価を受けているのです。

この「豹変」で幻滅しなかった部員ですらも、やはり同様の心象を抱いているらしく、矢本悠馬演じる “肉まんくん” こと西田も「下の句」で全国大会の試合前にこんな言葉を放っています。

お前、動いたり喋ったりしてないと無駄に可愛く見えるんだから、男子たちに変な期待させんなよ。後で裏切られる身にもなってみろ。可哀そうだろ。

『ちはやふる-下の句-』本編より

ほかにも、新率いる藤岡東高校の部員が「綺麗な人やのお」とこぼすなど同様の発言は多数。枚挙にいとまがありません。綾瀬千早は、美人なのです。

男は、「男」だ

(C)2016 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀/講談社

千早と太一、そして新はある種の三角関係を結ぶことになりますが、太一と新は千早を恋愛対象たる女性として認識しています。

たとえば、太一が千早と同じ瑞沢高校へ進学した動機も、千早を追いかけていたからです。裕福な家庭に育ち、のちに「東大」を目指すレベルのエリートコースの彼が、そのレールである中高一貫校の男子校を去ってまで瑞沢高校へ入学しています。この事実をバラしたかるた会の先輩に対して太一は、「言わないって言ったのに!」と枕元で拳を床にたたきつけます。

中高一貫の男子校。そう言われると関西だとたとえば灘中学や洛星。東京だと開成、麻布、筑波大学附属などが容易に浮かびますね。

これだけ読めば、胸の苦しい甘酸っぱいストーリーかもしれません。のみならず彼、そして彼らはさらにどっぷりと「社会的な男性性」にも囚われていたのでした。
 

新と太一の発言をいくつか拾ってみましょう。

太一:会わないで帰るのか

 新:笑うかもしれんけど、俺なんとなく、千早はずっと太一のもん(モノ)やと思ってた。ガキのころからそばにいるのは太一やったで(太一だったので)。でも、千早は別に誰のもん(モノ)でもないよな。

太一:忘れてねえよな?俺たち府中白波会は “攻めがるた” だって。

『ちはやふる -下の句- 』本編より

言葉の綾かもしれませんが、新は一貫して千早のことを「モノ」と表現しています。最後に「誰のもんでもない」と打ち消しているものの、言葉のチョイスとしてはいささか古風。煙草の匂いの混じった昭和の風がそよいできそうです。

そして太一はというと、千早と結ばれることを、かるたに喩えているのです。以上のやりとりは「下の句」からの引用ですが、同様の表現は「結び」にも引き継がれます。

 新:俺も同じ気持ちや。太一に負けたまんまで、好きな子に顔向けできんでな。

『ちはやふる -結び- 』本編より

なんてことない発言かもしれませんが、これは裏を返せば「新は太一に勝てば、千早と会うことができる」ということです。

少々踏み込んだ拡大解釈をしてしまえば、千早は、新と太一の二人に「トロフィーワイフ」のように認識されているのです。。「狩猟本能」という一見科学的なトリックワードで正当化されることがしばしばの、しかし女性の一人の人間としての意思を無視し、モノ扱いする男性優位の非対称な関係です。新も太一も、社会的に規定された(されていた)男性性から逃れられず、その枠組みの中で生きる人間なのでした。

さらに、こんな場面もございます。「上の句」での屋上のシーンを見てみましょう。高校に入学した千早と太一が久方ぶりに再開するも、屋上のドアが壊れていて締め出されてしまいます。

(C)2016 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀/講談社

柵から身を乗り出して助けを求める千早、それに対して太一は諦めたようにぐったりと柵を背に座り込みます。大声で救援を求める彼女を見上げると、そこには千早の白く健康的な脚が伸びています。思わず目線をやってしまった自分に気付いた太一は慌てて立ち上がるのでした。幼馴染の彼でさえ、性的な反射――つまり男性的な脳の呪縛から逃れることができなかったのです。逆に、3作を通して千早が誰かに対してセクシャルな眼差しを向けることはありません。

くわえてここで強調したいのは、<太一が意図的に目をそらした>ということです。見るも見ないも、見る側の選択次第なのです。この見る・見られるの権力の非対称性は男女を反転しても変わりません。「結び」冒頭で花野が「彼氏候補」を物色しているとき、見られている側はその視線に気付くことはありません。

少々脱線しましたが、とかくこのような「視線」の権力を彼は無意識に行使していたのです。

はたから見れば、それは「恋」だ

(C)2016 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀/講談社

内実ともに魅力的な女性と、そんな彼女に憧れる男性。舞台装置は整いました。さらに追い風を吹かせるのが上白石萌音の演じる大江奏です。

彼女はといえば1000年前の恋歌をもいつくしみ、胸を焦がす古風なロマンチスト。もちろん目前の恋愛沙汰にも目を輝かせて跳ね回ります。映画の観客と同じような目線で色恋の真相を解き明かす役として機能しているのです。

「ちはやぶる」を千早ちゃんの歌だ、って言ったのはその新さんって人ですか?

『ちはやふる ー上の句ー』本編より

恋は身近にいる人の方が有利だと思います。応援してますから。

『ちはやふる ー上の句ー』本編より

片想いの傾斜に、恋愛という既存の価値観で固められた三角関係のボールがガタゴトと転がります。

やはり、恋愛ではない。

少女漫画原作の映画と侮る気持ちはわかりますが、一線を画する壮大な世界観を味わってほしいです

オトナアンサーでのインタビューより

ここに引用したのは、筆者のような斜に構えた観客の言葉ではありません。これはなんとシリーズの監督である小泉徳宏自身による言葉なのです。「結び」の公開に際しておこなわれたインタビューでこのように語っています。旧来的な甘ったるい恋愛の物語を忌避するようなこの物言いを、プロモーションの一貫であろうインタビューの場で監督自身が放ったという事実には驚かされます。

これまで散々文字数を割いて、「ちはやふる」シリーズ内での恋愛「っぽさ」をかき集めました。しかしやはりそれは「っぽさ」でしかありません。何分、冒頭にも述べたように、この映画では誰の恋も成就してはいないのですから。

彼女は「かるた」を通して人間関係を形成し、さらに各々を豊かにし、そしてそんな「場」を残し伝えることがシリーズの核となります。

これについて、さらに詳しくはコチラの記事で考えてみます。
ちやはふる特集①西暦3018年の金曜ロードショーでも放映される映画?

「恋愛っぽい」要素がいくつも散らばっているにも関わらず、「少女漫画原作の映画と侮る気持ちはわかる」と語る監督の胸の内には何が潜んでいるのでしょうか。ぎぎぎと意地悪に笑いながらミスリードを誘っているのでしょうか。俗耳を騙して「恋愛っぽい」の装飾をあしらっているかのようです。

そんな八方ふさがりな環境で綾瀬千早が綾瀬千早然と振る舞えたのは、「かるた」のおかげです。

名人戦・クイーン戦といった大きな大会の例外を除いて、基本的に男子女子で区別せず試合のすることができる競技。日本古来のものでありながら、ジャージとTシャツで畳にあがることが一般的な競技。1対1の個人競技を5つ集めると途端にチームスポーツの戦略を要する競技。無論いわずもがな「かるた」という存在です。

男と女、文化とスポーツ、個人と団体の境界を曖昧にして両者を区別しない「高校競技かるた」の世界が千早を救ったのです。境界をハッキリと引かない「かるた」という存在が、既存のひとつの価値観に縛ろうとする世界から千早を解放している――なんて言葉は少々大げさでしょうか。

テニスじゃダメだった。将棋でもきっとダメだった。きっと「かるた」だからこそ、彼女は溌剌とまっすぐに生きてゆけたのだと僕は思うのです。

 文・川合裕之
編集・和島咲藍

【参考】

「「ちはやふる」シリーズ完結へ! 小泉徳宏監督が語る、その魅力と公開前の思い」
オトナアンサー 2018.03.10
https://otonanswer.jp/post/12009/2/

谷口直子(2004)「小倉百人一首競技かるたの普及過程」, 『お茶の水地理』 (44), p55-72, お茶の水地理学会.

ちはやふる特集③
数字で検証する邦画主題歌:「FLASH」

ちやはふる特集①
西暦3018年の金曜ロードショーでも放映される映画?

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