数分後に、ハイタッチをする予定が入った。突如として入った。知らない人間と、にこにこして、ハイタッチを、成功させなければならない。心臓が高鳴って、アフリカの民族音楽みたいなビートを刻み始めた。自分の中でマサイ族のみんなが火を囲んで飛んでいる。やめてください、ここは祝祭の会場には好ましくないんです。
ハイタッチにはふさわしくない人間
テレビカメラが多く回っている。ぼくの後ろに並ぶ男性に、目の下の隈が隠し切れていないリポーターがマイクを向けていた。
――今日は何時から並んでいるんですか?
「朝5時です」
――お目当ての色は?
「赤色ですかねえ」
――新作のiPhoneのどこに魅力を感じていますか?
レポーターとカメラマン、どこぞに強盗に押し入ったばかりなのかと疑うほど荷物を持たされているアシスタントと思わしき男性が列を舐めるように見て、インタビューを行う人物を品定めしているところを目撃していたぼくは、何かしらの選考に落選したことを知っていた。「この血色の悪い老け顔の男にはインタビューをすべきではない」という政治的判断が下されたのだと思う。こちらとしてもマイクを向けられたところで喃語しか喋ることができないわけだから、お互いにとって懸命な判断だった。
そんなわけで、新型iPhoneの発売日、ぼくは故あってAppleStoreに並ばされていたのである。仕事の関係とはいえ、自分がiPhoneの発売日に並ぶような人間になるとは思っていなかった。
眠い目を擦りながら、屠殺場へ向かう牛のような心地で列に並んでいた午前7時55分。間もなく開店せんと意気込むAppleStoreの店員たちが士気を高揚させるために歓声をあげた瞬間、浅いくせに底が全く見えない記憶の海で魚が跳ねた。
あ、そういえばiPhoneの発売日はApple Storeが開店した瞬間に店員と並んでいた客がハイタッチするのが恒例だったな。そう思い出した瞬間、いてもたっても居られなくなった。今すぐ列を飛び出して大きな声を出しながら家に帰りたい。数分後、ハイタッチをしなければならない。名前も知らない人間と。にこやかに。ハイタッチを。必ず。成功させなければならない。テレビカメラも回っている。自分が笑みを浮かべて店員とハイタッチしている様子がまるで浮かばなかった。
尊大な羞恥心と臆病な自尊心が行動を妨げる。「自分にハイタッチはふさわしくない」と震えた。ボウリングに連れてこられた時ですら投げる前からストライクを取った場合のハイタッチの仕方を考えているような人間が、急にテレビカメラが回っているような場所でハイタッチなんぞできるわけがない!
ぼくはタピオカ店にも並べないし(「なんであんな人が並んでんの?)、相応の覚悟がないと服屋にも入れないし(「おしゃれじゃないやつが来てるんですけど」)、美容院も行けない(「おしゃれじゃ!ないやつが!来てるんですけど!」)ような人間である。いわんやハイタッチをや!
「共感性羞恥」とフィクション
(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics
このように、「ふさわしくない」「似つかわしくない」の呪縛は、24歳になった今もぼくのあらゆる行動を阻害する。
そしてさらに困ったことに、自分の行動だけではなく、フィクションの中の架空キャラクターたちの「ふさわしくない」「似つかわしくない」行動や状況にも強く感情が動いてしまう。いわゆる「共感性羞恥」というものである。他人の負の心の機微がなぜか自分の心と同調してしまい、何かとつらい思いをすることが多い。イメージがつかない人はエヴァンゲリオンのシンクロ率が異常に高くなっているような感じだと思っていただければ結構です。エヴァンゲリオンをちゃんと見たことがないので、シンクロ率が何かはいまいち分かっていないのですが。
たとえば、ドラマ版『凪のお暇』。作中で、市川実日子演じる坂本が黒木華演じる凪をお見合いパーティーに連行するくだりが出てくる。ぼくはそのシーンをなんの心構えもせず視聴し、かなりぐったりした。万人が着飾る婚活パーティー会場の中、坂本に騙されて連れてこられた凪の格好は普段着のてろてろしたTシャツで、およそその場に「似つかわしくない」のである。
記憶では作中でその「似つかわしくなさ」について、それ以上言及されることがなかった。パーティー会場で元同僚の足立と遭遇し、そこからはお約束の「例のごとくサンドバッグにされる状況に陥るも、過去と決別した凪が反論する」システムで視聴者はカタルシスを得るわけだが、ぼくは全然救われていなかった。
坂本さん、凪に謝ってください。騙さないでください。すごくいたたまれない気持ちになりました。その日、みんなが水着を着用しているプールの授業で、ぼく一人だけ素っ裸で授業を受けさせられて嘲笑される夢を見ました。ぼくにも謝ってください。
コードを守れない恐怖
共感性羞恥、ということばが定着してもう随分になる。調べてみたところ、2016年の8月に『マツコ&有吉の怒り新党』で取り上げられてから認知されはじめたようだ。
※ googleの検索ボリュームが2016年8月を境に格段に伸びている
・バラエティ番組のドッキリが苦手
・テレビでお笑い芸人がスベっているところを見ていられない
・告白した主人公がこっぴどくフラれるシーンを見ると息が詰まる
上記のような現象がおおよそ「共感性羞恥」として扱われているらしいが、もちろん個人差がある。自分も先述したような「登場人物がある環境にふさわしくない/似つかわしくないシーン」や「登場人物がいたたまれないシーン」が極端に苦手だ。あとはテレビでタレントに素人がイジられているのもダメだ。新人オーディションのあと、三中さんがレギュラーメンバーになってからめちゃイケが見れなくなりました。
恐らく、嘲笑されることに対して、根源的な恐怖を感じているのだと思う。
大衆、あるいは特定の環境における常識や規範、「普通」「空気」といった文脈を共有できない恐怖。浮いていること、馴染んでいないことに対する恐怖が顕れると、ぼくはすっかり脅かされてしまう。
「あんなヤツがハイタッチすんのかよ」「Tシャツてろてろじゃん」「馴染んでないよね」「普通じゃないよね」……加速した被害妄想とは分かっているのだけれど、しかし今までそういった嘲笑に現実で遭わなかったかといえば嘘になる。マジョリティの「ふつう」、にマイノリティの「ふつう」が蹂躙される瞬間を度々目撃しているのである。
各々が各々の「ふつう」を持って、他人を脅かすことなく生きていってほしい。誰もイジられないでほしい。他人の加虐心に振り回されてつらい思いをしないでほしい。誰も恥をかくことなく、平穏無事に安寧に何の心配なく日々を暮らしてほしい。報われてほしい。あらゆる頑張りが報われてほしい。本気で万人が幸せになってほしい。頼むから。頼むから各々が幸せになってください。
『JOKER』コードからの逸脱、それでもあなたとハイタッチを
(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics
幸せになってくれっつってんだよ!!!!!!!なんで!!!!!!!そうなっちゃうの!!!!!!!
「共感性羞恥持ちにはつらい映画」との前評判は聞き及んでいたので、それ相応の覚悟をして『JOKER』を鑑賞したのだが、それでも厳しかったのである。アーサーが幸せになるわけがないのに、どこかで一片の救いを期待していた。
主人公であるアーサーが仕事道具の看板を悪ガキに奪われ、必死に追いかけた先でプロレスよろしくその看板でぶん殴られ、ボコボコにされた姿とともに「JOKER」の字がデカデカと映し出される冒頭。あれを見た瞬間、終わった、と思った。アーサーがボコボコにされながらも必死に自分の股間に手を添えて急所を攻撃されないようにしている様子を見た瞬間、なんでこうも!!!最初から救いがないの!!!!と頭を抱えると同時、十数歳年下の子どもたちにリンチされたアーサーの心情を思うと共感性羞恥センサーがけたたましい音を立てた。
その後もアーサーにとってもぼくにとっても厳しい展開が続く。個人的に一番厳しかったのが、バスの中で持病(突然笑い出してしまい、止まらなくなる)が出てしまった際の描写だった。車内における「沈黙」というコードを乱して笑い続けてしまうアーサーと、乗客たちの冷たい目線。
自閉症の詩人、東田直樹は自身の身体を「まるで壊れたロボットの中に閉じ込められているようだ」と表現した。同様に、アーサーの発作はは不如意のものである。止めたくても止まらない、けれど止めなければ……「私は病気なのです」と伝えるラミネート加工されたあのカードを乗客全員に配ってやりたくなる。彼が不幸な目に遭うのはこの「笑い」の発作が原因だった。
そういう意味で、ホアキン・フェニックスの演技は完璧だったと思う。彼は笑いながら泣いていた。暴力的な笑いの発作が抑えきれない中で、その奥に見える悲しみを余すところなく演じきっていたと思う。
もちろんこれは映画で、そしてジョーカーというスーパーヴィランを扱う物語だから、事態が好転しないことなんて分かりきっている。アーサーが同僚(あとでアーサーにぶち殺される)から銃を受け取ってしまい、部屋の中でその暴力の顕現に酔いしれるシーンを見ながら、やめとけやめとけ……と強く念じていたのだが、すったもんだあって地下鉄でエリートサラリーマン3人を撃ち殺すシーンで、「あ〜……それはダメじゃん……」とまたも頭を抱えた。
「殺人=ダメなこと」。人類に共通する暗黙の規範を、またも笑いの発作が原因で道を踏み外したアーサー。冷蔵庫に入ったり階段で踊ったり憧れていたのにコケにされた司会者をぶち殺したりしてめちゃくちゃだ。
「こうあるべきだ」「ふつうにしなければ」……文脈から外れることへの恐怖は、「自分が他者から拒絶されてしまうのではないか」に深く根ざしている。ではアーサーは? 父親と信じていた人物から突き放された。妄想の中で恋仲にあった女性からも拒絶された。認めてくれたと思っていた司会者は実は自分のことを馬鹿にしていた。信じていた母の話は全て真っ赤な嘘だった。
宙ぶらりん。
社会から切り離され、家族を失うに到り、アーサーはとうとうジョーカーになった、共感性羞恥的な感覚はすっかり消えて無くなってしまった。だって彼はもう「普通」になろうとしていなかったから。
「無敵の人」という言葉がネットで語られだしてからしばらくになる。社会から断絶され、蓄積した孤独と狂気が爆発するさまは、『JOKER』にも通ずる部分があると思う。実際、この映画と「無敵の人」というワードは度々紐づけられて語られてもいる。
「ジョーカーは自分だ」的な感想も多く見られる。ぼくはこの映画について、世相が映し出されているやら、政権が云々やらどうこう言うつもりはない。ただ一点。遍く生きづらさは全て主観的にしか捉えられない。そう思ったのであれば、その人はジョーカーなのだから、「『ジョーカーは自分だ』って、どんだけ厳しい人生歩んできたのw」などとは絶対に言えない。
だからこそ、とにかく何らかの形で幸せになってほしいし、できる範囲で誰かを助けたいとも思う。
何かを踏み外しても戻ればいい。危なくなったら誰かの手を取ればいい。「ふつう」から離れても、誰かと薄くゆるく繋がっていればいいし、その繋がりは別にべたべたしたものじゃなくたっていい。あなたとならハイタッチできるかもしれないと言ったら笑いますか。けれども本気でそう思っている。
なんならあなたとハイタッチを行う口実に、ぼくがAppleStoreの店員になったっていい。来年の9月某日午前7時55分、あなたは底冷えする早朝を越え、きっとテレビカメラを無視して、列に並んでいる。やがてカウントダウンが始まる。3,2,1!
AppleStoreの門が開いた瞬間、あなたとぼくは邂逅する。何かを示し合せるかのように小さく笑って、それからハイタッチができればいい。その瞬間を、ずっと待っている。
あ、もちろん恥ずかしいならしなくてもいいんですけども!
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解説『JOKER』(2019年)
監督:トッド・フィリップス
出演:ホアキン・フェニックス, ロバート・デ・ニーロ, ザジー・ビーツ, フランセス・コンロイ
音楽:ヒドゥル・グドナドッティル ほか
監督が「ハングオーバー!」シリーズのトッド・フィリップスということでも何かと話題になったこの作品。蓋を開けてみたら今年の金獅子賞を受賞するなど、とんでもない映画になっていました。思えば、コメディも規範やコードを破ることで、緊張と緩和をもたらします。そういう意味ではコメディ映画で評価を得たトッド・フィリップスが作り上げる『JOKER』の出来が良いのは当たり前かもしれません。
主演のホアキン・フェニックスは『容疑者、ホアキン・フェニックス』(原題:I’m Still Here)でこちらも何かと話題になっていたらしい。なんでも、ホアキン・フェニックスが「俳優を引退する」「ヒップホップをはじめる」などの支離滅裂な言動を2年間続け、「いよいよ頭おかしくなったんだなあいつ」と思われたタイミングで彼のドキュメンタリー映画が公開され、最終的には試写会の会場で「全部ドッキリだよ」とネタバラシするというぶっ飛んだ作品らしい。『踊る大捜査線』みたいな邦題はどうにかならなかったのかしら。
なんでも様々な映画のオマージュが含まれている映画とのことですが、映画メディアで執筆させていただいている身にも関わらず、あまり映画を見てこなかったのでほとんど分かりませんでした。『タクシードライバー』, 『キング・オブ・コメディ』あたりを観ておくと良いらしいです。ぼくも勉強します。押忍。あ、引用は全然分からなかったんですけど、映画としての完成度の高さは分かったような気でいます。押忍。
文・渡良瀬ニュータウン
編集・川合裕之(フラスコ飯店 店主)
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