(C)東海テレビ放送
地元と呼べるものを持っていない。兵庫で生まれ、熊本に暮らし、また兵庫に戻ったかと思えば、次は埼玉へ。おまけと言わんばかりに兵庫に帰り、最終的には埼玉に落ち着いた。できそこないの反復横跳びのような家移しであった。
社会の授業で「外様大名」という概念を習った時のことをよく覚えている。「外様」とことさら強く書きつけたノートを見て、「どこに行っても外様であることよ」と思っていた。幸いにも転校先で除け者にされるようなことはなかったが、皆と共通の思い出を持っていない疎外感を覚えることは多々あった。
とはいえ、なんだかんだで中学生からは埼玉にずっと住んでいた。市内の高校に進み、二十歳になってからは国道沿いの寂れたラブホテルでバイトを行い、大学にも実家から通った。ただ、何か小さな解れが起こって、埼玉ではなく兵庫県で暮らしていたらどうなっていたのだろうと感じることがある。
祈ったからな
生まれ育ったのは坂が多く、宗教と貧困が立ち込める街であった。祖父は熱心に仏壇に祈り、祖母は熱心に新聞を配る。元日には「会館」に集まり、大勢の人間と何かを祈った。垂れ幕には大きく「大勝利」と書いてあったが、一体何と戦っていたのか今も分かっていない。会合終了後に配られる酢昆布の味は薄ぼんやりしていた。
大学合格を報告した時に、祖父に「せやろなあ、じいもいっぱい祈ったからなあ」と言われてから、祖父母と距離を置くようにしている。「大学に合格したのは自分の努力であってお前のよく分からん祈りとやらではない」と無性に腹が立ったからである。
率直に言うが、帰省する度に、もしもここで暮らしていたら今とは全く違う自分になっていただろうと強く思う。
高校二年生の時に祖父母の家の近くの夏祭りに出た際には、全く知らない男に「新顔やな、なんで挨拶来えへんねん」と凄まれ、橋の下に連行された。その頃にはそこそこ人口の多い埼玉の街にどっぷり浸かってしまっており、「見ない顔」というだけで追い込みをかけられる経験がなかったので、たいそう驚いた。二千円をふんだくられたが、勉強代だと思って諦めている。どの科目の成績も上がらない最低の学習塾であった。
夜九時、金属バットを引きずりながら団地から出てきた男が同級生だったこともある。偶然出くわしたことに驚きながらも、「え、めっちゃ久しぶりやん!」「こっち帰ってきたん? 帰省? いまどこ住んでんねやっけ?」と人懐こい笑みを浮かべて朗々と話しかけてくれた。こちらも久闊を叙し、思い出話でも花を咲かそうとする。
「野球しに行くのん? 昔はサッカーやってへんかったっけ? まあでも運動神経よかったもんなあ。こんな時間にボール見えんの?」
「ちゃうねん、喧嘩やねん!」
「あ、喧嘩……」
「ごめんな、もう行かなあかんから。また遊ぼや!」
五年前の帰省のことであるから、自分も彼も二十歳の時である。もう少年法は我々のことを守ってくれないと分かっているのかしらと思いながら、金属バットを引きずっていく彼の背中を見送った。それからは一度も会っていない。
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パンはな、あんねん
小学校の同級生のことはあまりよく覚えていないが、金属バットを持って去っていった彼を含む数人については朧げながらも記憶がある。中でも、高木のことは強く印象に残っている。自分が転校したタイミングで既に周囲から疎まれていたが、その後家庭環境の悪化に伴い、さらに距離を置かれるようになったらしい。
きっかけはとんと忘れたが、高木に菓子パンを振る舞われたことがある。市営住宅下に設けられた公園で、小型のタブレットほどもあるアップルパイを渡されたのだった。
「なんなん、もらってええんこれ」
「ええねん。食べや」
「ええのん? お前んちのやつ?」
「俺んちのやつちゃう。でもな、パンはな、あんねん。持ってこれんねん。今度教えたるわ」
その時は分からなかったが、おそらく高木が言っていた「パンがある場所」とはスーパーのことだったのだと思う。「持ってくる」とはつまり万引きのことであったのだが、小学三年生か四年生の自分は「持ってこれんねんなあ」と思いながらアップルパイを頬張った。
なんの話をしたのかは記憶にないが、高木が食べ終わった菓子パンの袋を丸め、「ゴミはな、ここに捨てればええねん」と放置されていた原付の排気口にねじこんでいたことだけは覚えている。
また違う日には、高木が中学生にはっ倒されているところを目撃した。少し離れたところで遊んでいた自分と友人たちは「あそこでやられてんの高木ちゃうん?」と関心を示していたが、人数的有利を察して高木と高木を殴る男に近づいていったのだった。
「高木に何してんのん」
友人のひとりが言うと、蹲る高木を罵倒していた男ーーおそらく中学生だったーーがこちらを見て、「誰やねんお前ら」とだけ言った。高木が「同級生です」と涙声で言うと、また高木に向き直り、数度言葉を交わし、その場を離れて家に入っていった。高木の家だった。男は高木の兄だった。高木は家の前で実兄にボコボコにされていたのであった。
「何したんお前」
友人の一人が高木に言うと、泣き止んだ高木は「なんもしてへんねんけどな」と言った。他の友人が「なんでお前兄貴に敬語使ってんのん?」と聞いたが、高木は答えなかった。高木の家からは怒声が聞こえていた。高木の兄のものではなかった。「あれは父ちゃん」と高木が消え入りそうな声で言って、それでお開きになった。
選挙行ったあかんねん
高木の家に入れてもらったきっかけも思い起こすことができない。が、なぜかその日は自分と高木の二人きりで遊んでいたのだった。ゴミだらけの玄関に靴を置く場所がなく戸惑ったことは覚えている。高木が「父ちゃんおるかもしれんからちょっと静かにしてな」と懇願するように言った瞬間、奥の襖が開いた。高木の父であった。
夏の盛りだというのに、高木の父は深緑色の長袖のポロシャツを着ていた。厚すぎる胸元には北海道の形に似た汗染みができていた。肌の色は薄黒く、禿げ上がった頭皮には汗の雫が珠のようになって連なっていた。
「友達か」
高木の父は高木と自分を見て言った。高木は頷くばかりであった。「こっち来い」と高木の父は言って、襖の奥に消えた。高木は父の言葉に従う。自分も行くべきか迷ったが、意を決して襖の奥へ歩みを進めた。
大量の飯を振舞われた。高木の父は上機嫌であった。酔っていたのである。高木の父は安焼酎のパックばかりが並ぶダイニングテーブルに大盛りのピラフーー恐らく冷凍食品ーーが置き、「食うてええよ」と笑い、焼酎をあおった。下を向いてピラフを食べ始めるの高木を横目に、高木の父は色々なことを自分に話した。
あんな、ええ大人にならなあかんわ。うちのアホは全然あかん。もう全ッッッッ然あかん。でも、友達が来てくれたんはホンマに嬉しいわ。あんな、ええ大人になりや。国のためになるええ大人や。だから食べ。いま学校の勉強は何が一番楽しい?
「今は」と自分は言った。「学級新聞の多数決の選挙をしてます」。ちょうどその頃、総合か何かの時間を使って、学級新聞のテーマを募集し、何を作るかを多数決で決めていたのであった。自分の拙い説明を聞き終えて、「そうかあ、選挙かあ、ええなあ」と高木の父は笑いながら言った。それから、手に持った焼酎をあおって、言葉を接いだ。
「あんなあ、行かれへんねん。おっちゃんとこの家はな、選挙行ったあかんねん」
ヤクザと憲法
「選挙はどうされるんですか?」
「私は選挙権がないんですよ」
「え……?」
「選挙権がないんですよ。国籍に関係あるんです。日本に帰化してたらできるんですけどね」
時は進み2016年、ほぼ満員の渋谷アップリンクで高木の父の言葉がフラッシュバックした。
『ヤクザと憲法』は指定暴力団二代目東組の二次団体、二代目清勇会に100日間密着したドキュメンタリー映画である。事務所内部にカメラが入り、暴力団員の生活が映し出される。「これな……わしら、人権、ないんとちゃう?」のコピーが示す通り、暴対法下における暴力団員の「人権」にフォーカスが当てられた作品である。
「選挙権がない」とカメラマンに語ったのは清勇会の舎弟のひとり。月並みな感想だが「ヤクザには見えない」風体の老齢の男性であった。選挙権がないんです。そのことばのあと、少しの沈黙。すぐにシーンが切り替わる。
『ヤクザと憲法』は、観客に常に「裏側」を想像させる。人の良さそうなおじさんが上着を脱ぐと、肌着がめくれ上がり、背中一面の和彫が一瞬露わになる。あるいは、21歳の部屋住みの男性が、扉越しに「焼き」を入れられる。さらにその裏側は? 映画の公開後、「焼き」を入れられた部屋住みの男性は組事務所を抜け、名古屋でコンビニ強盗を起こして捕まっている。
一方で、暴力団員の子どもが「ヤクザの子どもだから」入園を拒否されるというエピソードや、総長が亡くなった際には「どこも葬儀場貸してくれへん」などのエピソードも語られる。
「ヤクザ認めんっていうことやろ、暴力団や言うて。ほんとに認めんねやったら全部無くしたらええ。選挙権もみな無くしたらええ。剥奪したらええねん。まともな仕事もできたらあかん言うてんねん。生業も持つな言うてんねん」
「だったらヤクザを辞めたらいいって言う人も居るかと思うんですけど」
「どこで受け入れてくれんねん?」
大学は東京の私立大学に進んだ。たまに兵庫に帰ることはあっても、昔の知り合いに会うことはとんとなくなった。消息も知れない。だが、たまに、「選挙行ったあかんねん」というあの声を思い出す。
映画『ヤクザと憲法』(2016年)
(C)東海テレビ放送
制作:
東海テレビ
監督:
圡方宏史
プロデューサー:
阿武野勝彦
音楽:
村井秀清
制作は東海テレビ放送。2018年にはテレビマンが自らメディアにまつわる問題に切り込み、社内にカメラを向けた『さよならテレビ』が話題を呼んでいました。
『ヤクザと憲法』は「謝礼金なし・テープの事前確認なし・出演者の顔にモザイクなし」をルールに、テレビで取り扱われることがタブーとされていた暴力団を真っ向から撮影した作品です。
文・渡良瀬ニュータウン
編集・川合裕之(フラスコ飯店 店主)
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