I’m back. Omatase. 

営業再開のお知らせ:エンタメ批評は本当に必要か?

あたらしく自転車を買った。嬉しくて無闇やたらに走り回っているとこんなところに喫茶店があったのかと虚をつかれる。年季の入った木造住宅の玄関先には白いペンキで “珈琲” とだけ書かれた、これまた年季の入ったボードが掲げられている。中を覗かずとも店の2階が居住スペースであることが一目瞭然で、いかにも僕が好きそうな佇まいである。

知ってさえいればもっと早くに来たのにと思いながらその喫茶店を通り過ぎ、次の信号で行儀良く停止する。待っているあいだ、こんなに近所にあるのにどうして気がつかなかったのだろうと思う。

理由や言い訳はいくつもあるが、その問いに対する主たる答えは「ネットに載っていなかったから」ということに自分で気づく。なにもアリストテレスみたいに気取って難しく考える必要はないが、知らなければそれは無いのと同じだ。

逆もある。いつか行こうと密かに片想いしていた店が知らぬ間に看板を降ろしてしまい、大きく落胆した経験がここ2、3年ではとくに多かった。その存在の微かな痕跡は、未更新・未削除の古い情報としてインターネット空間だけに漂っている。

そもそも質量・空間を伴わないwebメディアにとって、更新頻度は心電図の波と同じだ。

まさに死活問題。現在のフラスコ飯店は半ば休業状態。ここまで徹底的に音沙汰が無ければ、もう辞めてしまったのかなと見放されてしまってもしかたがない。僕だってそうするかもしれない。

前置きが長くなりましたが、うっすらと埃の積もったフラスコ飯店に足を運んでいただきまして本当にありがとうございます。店主の川合です。早速ですがふたつお詫びを申し上げます。

まず約半年もの期間、フラスコ飯店の更新が一切なかったこと。

一言で片付けてしまうなら要するに僕の「燃料切れ」だったのですが、今日は「燃料切れ」の仔細な経緯をあえてお伝えしたいと思います。僕は心身ともに風邪をひきやすいほうですが、それ以上に「この批評というやつは本当に誰かにとって必要なのだろうか」と変に卑屈になってしまったのです。紆余曲折あって「いや、やっぱりどうにか頑張ろう」と持ち直したわけですが、これは僕の内心だけに留めておくよりもみんなに伝えたほうが良いのではないのかと思ったのです。

というのも、僕たちの営みの危うさや脆さは「フラスコ飯店なんて読まなくて良い」という評価と隣り合っているし、反対に左記の問題提起に対して正当な(あるいはそれらしい)回答を提示できれば、それはそのままフラスコ飯店を読んでもらう理由に転じうるからです。

お詫びふたつめは、休業経緯を説明するための本記事の後半が生意気にも有料配信であること。尊大でだらしない姿勢を見せてしまったことを深くお詫びします。あまりにも露骨に目の光を失っている(結果的には取り戻しますが)ので、むやみやたらに不特定多数へ見せるべきでもないと思ったからです。

僕にとって本当に重要だったのはお金をもらうことではなく、そこにいる人だけに確実に記事を手渡すこと。そのためにこの形式を取らせていただきました。同情を誘った支援のポルノを売りつけるつもりはありませんが、なよなよと弱音を吐いたかと思えば、一転して過激な主張をしたりする文章なので、ほんのちょっとだけ露出を減らそうという次第です。要するになんというか「ここだけの話」ということです。

※本記事は途中から有料ですが、
おおむね(約1万字)は無料です。

「なんか、もうどうでもよくない?」

2022年、秋、某日。映画にも批評にも文芸にも一切関係のない長時間の仕事を終えてノートパソコンを静かに閉じる。

はたと気づいてしまう。とても何かを書く気にはなれないことを。何かを書く気になれない自分がみっともなくて仕方がありませんでしたが、それでもやはり書く気にはなれませんでした。

もとより僕が抱える心のバグが悪化したわけですが、それだけで説明するわけにはいきません。その間も食欲は旺盛にあったし、無意味な買い物*で気晴らしだってしたから。そしてなにより、僕はこの期間にもそれなりに映画を見ていたのだから。

注釈*:履きもしない6万円のブーツ、
明らかに邪魔なカエルのガラス細工など

それにもかかわらず、まったく何も書く気になれなかった。批評はもとより感想すら書きたくなかった。いわゆる「パズドラしかできない麦くん状態」と吐き捨てれば話は早いのですが、どうやらこれは心の不調だけが原因ではないようです。きょうはこの文章を通して、当時の僕の無気力の理由を考えてみたいと思います。幸いにもある対象を言葉で切り刻み、丸裸にして分類することは得意ですから、その無礼で好戦的な矛先を自分自身に向ければいいだけの話です。

結論としては「いつまでもウジウジしてないでフラスコ飯店を続けよう」なのですが、一度その歩みを止めてしまった経緯について、よければどうかお付き合いください。

もう心配はいりません。黒崎一護にしたってトニー・スタークにしたって、一時的な不能と喪失はお決まり事で、そのあとのシーケンスは絶好調の活躍が待っているはずです。知らんけど。

映画批評の熱狂、その末に

意図的に過去形でこう表現してみます。自分にとって映画批評(の真似事)は楽しかったです。熱狂的だったと断言できるでしょう。

さて、熱狂的もとい「狂う」という表現は、第三者による客観視点があってこそ初めて成立します。

たとえば「生きることに熱狂的なひと」という表現は極めて不自然といえるでしょう。生きることは当然良いことだという通念が社会に浸透しているからです。もし「生きることに熱狂的なひと」なんて言葉を口にしたとすれば、良くて孤高のペシミスト扱い、そうでなければ周回遅れの厨二病として遠巻きに距離を置かれるに違いありません。狂ってる?それ、誉め言葉ね。

ある日、僕はありし過去を振り返ると同時に「なぜあんなに熱心に批評めいたことをやっていたのだろう」「ただ熱狂していたにすぎないのでは?」という自己否定的な懐疑に身動きを絡め取られてしまったのです。

憑き物が落ちた、とでもいいましょうか。拍子抜けするほど簡単に、何の苦痛も伴わずに素面に戻ってしまった。自分にとっては深刻なアイデンティティ・クライシスでもあり、漠然とした新たな焦りが首を絞めているようでした。

エンタメ批評は本当に必要なのか?

ご承知の通り、映画を見終わっても僕たちは息つく暇もなく現実のつまらない世界へ戻らなければいけないわけではありません。ありがたいことに観客にはいくばくかの余韻が許されています。

エンドロールを見守り、終演のアナウンスを聞き流し、靴底が浅く沈む絨毯を歩きながらキャラメルの香りが漂うロビーに戻る。物販ブースをひとまわりしてからエレベーターに乗り、外に出るまで少なくとも10分くらいはあるでしょうか。大きなシネコンならその猶予はもっと長い。

この余韻の間に、それまでの「熱狂」していた頃の僕は自分の考えを頭の中や手元のメモにまとめたり、同じ回の映画を見ていたであろうグループの談話にこっそり耳を傾けたり、そしてGoogleの検索窓から他人の意見を覗こうとしたりするのが常でした。

やらなくなりました。はっきりと自覚したのは『NOPE/ノープ』を見たときのことです。『ゲット・アウト』や『アス』などを手がけたジョーダン・ピールの最新作。筆舌に尽くしがたい素晴らしい完成度でした。しかしーーいや、だからこそーーこの作品について他者の感想を求めたり、まして評論めいたものを読もうという気になったりはしませんでした。ある意味で意識的に検索窓から目を背けたのです。

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ひとえに映画が良かったから。とにかく良かったからです。素晴らしい完成度なのだから、外野の声は蛇足だと思いました。見事なまでパラレルに配置される対比関係や優れたエンタメ性、そして密かに通底する政治的なメッセージ。圧巻でした。IMAXでこんなすごいものを見せてもらった直後にわざわざ小さなスマホの画面に齧り付いて答え合わせする必要なんてあるのでしょうか。だってほら、端的に言って、ね、台無しじゃないですか?

フラスコ飯店という屋号のもとエンタメを論じて(論じたつもりになって)それを伝えるという行為がすっかり日々の習慣から抜け落ちてしまった僕は、はたからみれば「ちょっとばかし文化的嗜好のある20代」といった具合でしょうが、その僕が映画鑑賞後にわざわざ検索しないという行動を選んでしまっていたのです。

つまり、想定読者にとって、フラスコ飯店はそもそも不要かもしれない。想定読者の中心の中心に座すべき僕が、読みたくないと思ってしまった。これは大きな問題です。

あれ、エンタメ批評って、別にいらないのかもしれない。

隠し味は隠れているから美味いのに

だってそうじゃないですか。作家側からしてみれば、この上なく迷惑な話です。

冒頭でも軽く触れましたが、僕のやっていることは対象を言葉で切り刻む行為です。わかりやすく説明して台無しにする。自分以外の誰かの作った芸術の威を借りて上手いことを言おうとする競技。そんなものに意味なんてあるのだろうか。隠し味は隠されているからこそ真価を発揮するのに。不要だ。

明らかに分かり易くはなるが、格段に面白くなくなるのだから。

このようなあやふやな精神状態で自ら筆をとったり人様の原稿に赤を入れることはできませんでした。映画批評は熱狂状態のアウトプット。狂うまいとあらがって我慢することはできても、狂ってもないのに狂ったふりはできません。ジョーカーの異常な禍々しさには美しさがありますが、その模倣犯は極めて滑稽です。注目を浴びたいだけの贋物が、世間に迷惑をかけるのが関の山でしょう。 “Why so serious?” ——これは確信的愉快犯の言葉であって、つまらない悩みを抱える自己否定的模倣犯の人間の言葉ではない。

フラスコ飯店において実質の編集長の立場にある僕が心底から狂ってもいないのに、インターネット空間を「ごっこ」で汚すわけにはいかない。などと憂鬱に俯いてしまっていたのです。たとえばもし仮に、僕がダの字もジョの字も知らずに “Why so serious?” なんて筆を滑らせていたとしたら?ちょっと恥ずかしくて見ていられない。みたいな感じの羞恥心に近いでしょう。

「知らないのに知った口をきく」「他人なのに当事者の面をする」というメッキを貼る行為に対する恐怖です。

分かり易い言葉で、
テクストを複雑に読む

今現在、これは僕の杞憂だったと一旦は結論づけます。問いを立てて新たな読解視点を見出すことは「分かり易くする」の反対だ。論理的に無理のない範囲内で映画をややこしく読み直す。その案内人として、伝え方を平易にしているだけに過ぎない。そう思うようにしたいです。少なくとも数年間はそう信じてこのwebサイトをやってきたし、その土台には半身浴程度ながらも人文学で身を温めた学部での4年間がある。言うまでもなくその湯船の中身は、幾人もの巨人が数百年・数千年かけて追い焚きしてきた財産です。松陰寺は正しかった。知識はやっぱり水だったのです。

批評それ自体は、僕個人程度がスナック感覚で不要だと断罪できるものではないはずだ。もちろん一緒に並走してくれたスタッフへの恩も忘れてはいけない。既存の材料を調理して新しい視点を見つけるメソッドを育て、さらにその新解釈の発見を喜びを分かち合う場所を続けていきたいです。

結論としてはこのように「これからも頑張る」なのですが、せっかくの良き機会なのでなぜ頑張れなかったのかについてもう少し考えてみようと思います。きっとそれが何をどう頑張るかの糸口になるはずだからです。

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「インターネットで二次創作をすること

わかりやすく説明して台無しにする。自分以外の誰かの作った芸術の威を借りて上手いことを言おうとする競技。と、前項で僕は「映画批評」をこのようにパラフレーズしました。すでに世の中に広く流通している言葉を借りて表現するなら「二次創作」でしょうか。

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