I’m back. Omatase. 

『HiGH&LOW THE WORST』 | スポーツ・アンチドラッグ・異性の不在

キュウソネコカミは高らかに歌ってくれた。

ヤンキーこわい
ヤーンキーこーわいー

「DQNなりたい、40代で死にたい」

ヤンキー=DQNという図式はいかがなものかと思うけど、フェスでみんなで大きな声で、「ヤーンキーこーわいー」と叫び歌うのはさぞ気持ちがスッとするだろう。なぜって、僕はヤンキーじゃないから。ヤンキーにはなり得なかったから。

中学のときの僕は、学校の廊下を「この廊下は俺の所有物だ」と言わんばかりの態度で歩き、大きな声で周囲を威圧するヤンキーたちに怯え、別の世界の人たちだと半ば馬鹿にもしていた非ヤンキーだった。非ヤンキーの僕がヤンキーに対して声を上げるなんて、そんな芸当は到底できっこなかった。「ヤンキーがこわい」と友人に打ち明けるのも、なんだかかっこ悪い気がしてできなかった。だから「ヤンキーこわい」と大きな声で宣言するのは、全然正攻法ではないけれど、あの頃の自分の代わりにヤンキーたちに食らわす変化球みたいで気持ちがいいのだ。ヤンキーたちに声を上げられたような気持ちになるのだ。

そんな根っからの非ヤンキーの僕が、ヤンキー映画に“歓喜の”声を上げることになるとは。映画『HiGH&LOW THE WORST』(通称・<ザワ>)にハマってしまった。シリーズの作品を一度も見たことはないし、LDH系アーティストに傾倒したこともない。ヤンキーはこわいし、共感できない。だけどすんごく面白かったんだよな、<ザワ>。なんでかな。

僕が考えるその理由、それは「スポーツ」、「アンチドラッグ」、「異性の不在」という3つのスッキリ!があったからだ。

スッキリ!①
彼らのケンカはスポーツだ

(C)2019 高橋ヒロシ(秋田書店)/「HiGH&LOW」製作委員会

僕たち非ヤンキーがヤンキーたちに共感できない最大の理由、それは暴力の肯定だと僕は思う。しかし<ザワ>で描かれるケンカは、「理不尽な暴力」ではなく「スポーツ」に見えるよう、巧みな仕掛けが二つ施されている。

仕掛け 1.「チーム」という言葉に表れる部活のアナロジー

主人公・フジオが通う鬼邪高校(通称・オヤ高)は、全日制と定時制で大きく2つに分かれている。さらに全日制のなかもいくつかのグループに分かれており、そのグループのことを彼らは「チーム」と呼ぶ。「チーム」には頭=リーダーがいて、リーダーを慕って集まったメンバーたちがいる。リーダーはもちろん実力=ケンカの強さで決まるが、オヤ高生にとって、それは暴力的な権力ではないことが共通認識としてある。フジオの親友・司は、全日制で「一番強い」轟の下になぜつかないかとフジオに問われたとき、こう答えた。

司「強いのは強いけど、仲間になるのは別だ」

強さで虐げられるのではなく、仲間である「チーム」にとってふさわしいリーダーについていきたい。オヤ高生は単純な暴力によるヒエラルキーではなく、「理想のリーダー」「理想のチーム」を求めている。ケンカは彼らにとって「チーム」どうしが競い合うための競技なのだ。野球を選ぶように、吹奏楽を選ぶように、彼らはケンカを選んだ、と言えるのかもしれない。

仕掛け 2. スポーツマンシップの徹底

まずは主人公・フジオのケンカに対する姿勢が表れるシーンを見てみよう。全日制で「テッペン」を獲りたいフジオは、現状もっともそれに近い位置にいる轟に勝負を申し込む。しかし轟はその直前に、定時制のトップであり、オヤ高の番長である村山とのタイマン勝負に敗れ、片目にケガを負っていた。そんな轟にフジオは「ケガが治ってから」勝負をしようと申し入れたのだ。彼にとっては、フェアな勝負にしか意味がないのだ。

もうひとつスポーツマンシップが表れている重要な理念がある。それは、非武装だ。彼らは決して最初から武器を持ってケンカに挑むようなことはしない。使ったとしてもそれは用意したものではなく、その場にあったゴミ箱や梯子などで、それは「環境」と言ってよいものばかり。決定打は拳で食らわせなけらばならないのだ。非武装は「クローズ」シリーズでも理念とされていたが、彼らは「男らしさ」の表れとして非武装を語っていた。しかし<ザワ>では非武装を「男らしさ」として語ることはなく、当たり前のこととして描かれる。当たり前のことだから、武器を持たないことに対して言及することすらない。

対照的に、敵であるドラッグ密売組織・キドラは最初から武装している(フジオたちがアジトに乗り込んできたのを見たキドラのメンバーは、開口一番「お前ら武器持て〜!」と叫ぶ)。これにより次項の「アンチドラッグ」とも相まって、明確な勧善懲悪の構図ができあがる。暴力の肯定になりかねないというのは不良モノ、バトルモノの負うべき業だが、ケンカのスポーツ化は、観客にその良心の呵責を背負わせないのだ。

スッキリ!②
アンチドラッグに理由は必要ない

(C)2019 高橋ヒロシ(秋田書店)/「HiGH&LOW」製作委員会

フジオやオヤ高生が暮らす町に、ドラッグ「レッドラム」が出回り始めていることが判明する。オヤ高生が体育館に集まったとき、番長の村山は真顔でこう宣言する。

村山「オヤ高は薬禁止だから、殺すよ」

以上、おしまい! 説明不要! アンチドラッグが理由の説明もなく徹底されている。これはオヤ高だけではなく、鳳仙も同じこと。また<ザワ>では「クローズ」シリーズとは異なり、不良たちはタバコすら吸わない。もちろんコンプライアンスが「クローズ」シリーズの頃より厳しくなったという背景もあるだろう。もしかしたらタバコに関してはそれだけが理由かもしれない。しかし、そこにアンチドラッグという軸が加わることで、彼らが纏う「不良像」はとてもクリーンなものとなる。

幼なじみのアラタが、母親の医療費のためドラッグ密売組織で働いていることを知ったフジオは、アラタが直面する現実に心を痛めながらも、「そのやり方、ゼッテーちげえだろ」と激昂する。映画のクライマックス、フジオがアラタと直接対面するシーンでも、アラタがフジオを殴るその拳を「腐った拳」と言って避けも防ぎもしない。ドラッグに関わることは、たとえ母親のためでも許されることではないという意志の表れだ。

敵はドラッグ密売組織、組織員はラリったやつばかり、しかも武装をよしとする。敵がこれほどまでに「わかりやすい悪」であると、それを討とうとする者たちは「わかりやすい正義」になる。これは実際上の問題ではなく、物語の構造における「見え」の話でしかないが、おかげで観客はためらうことなくフジオたちを応援することができる。

スッキリ!③
トロフィーワイフとしての異性の不在

(C)2019 高橋ヒロシ(秋田書店)/「HiGH&LOW」製作委員会

「ハイロー」シリーズは、EXILEを中心とした芸能プロダクションLDHに所属するアーティストがメインで出演し、毎回豪華な人気俳優もゲストとして登場する。何が言いたいかというと、要は「イケメン」揃い踏みなわけだ。そういう作品は数限りなくあり、映画館でそれらしき作品の予告を見ると、「最後はこのうちの誰かが美女とくっつくんだろうな」と穿った目線を送ってしまう。これは完全に僕が悪い。偏見、固定観念、ひねくれ。

<ザワ>もそう予想して見ていた。しかし<ザワ>には「異性らしい異性」が全く登場しないのだ。

作中で出てくる女性キャラクターは4人のみ。フジオの幼なじみ・マドカ、フジオたちが幼い頃通っていた駄菓子屋の店主・サダばぁとその娘、鳳仙の番長・サチオの妹・ユイ。全員が「(広義の)家族」であり、「異性」ではない。物語の序盤とラストで「恋愛」っぽいシーンが少しだけ挟まれるが、どれも付属的なギャグシーンとして扱われている。つまり、バトルモノでありがちな「トロフィーワイフ」が存在しない。

「トロフィーワイフ」という言葉は現在では「経済的に成功した男性の若くて美しい妻」(大辞林より)を指すことが多いようだが、古くは戦争の勝利者が敗者側から獲得する女性を指して使われていたという説もある。女性をモノのように扱い、勝利者が手にする戦利品として描くことは、フィクションのなかでも残念ながら古くから行われてきた。バトルモノや戦争モノでは尚更。卑近な例では、マリオのピーチもある種そういう側面があると言える。突如クッパにさらわれたピーチ姫、僕たちはマリオとなり、ピーチを助けるため数多の試練を乗り越えてゆく。最後は大ボス・クッパを破り、勝者としてピーチをお姫さま抱っこ! よっしゃ全クリ、ハッピーエンド!

しかし<ザワ>は、勝利者が女性を手に入れることで観客に快感をもたらそうとしない。女性を「男性にとっての異性」と捉えてその構造を争いの中に都合よく使う、という古臭いやり方を採用しない。そのおかげでジェンダー的なきな臭さを取り除くことに成功している。<ザワ>は僕の予想を裏切り、陳腐なヘテロ恋愛に回収しなかった。ありがとう、穿った見方をしてごめんなさい。

丁寧に整えられたド真ん中エンタメ

(C)2019 高橋ヒロシ(秋田書店)/「HiGH&LOW」製作委員会

映画『HiGH & LOW THE WORST』は間違いなく傑作だ。しかし「ハイロー」シリーズと「クローズ」シリーズの特大級クロスオーバーというだけでは、ここまで魅力的なエンタメ作品には仕上がらなかっただろう。少なくとも「スポーツ」、「アンチドラッグ」、「異性の不在」の3側面において、丁寧に丁寧に整理整頓することで、血腥くなく、男臭くなく、胡散臭くない、超絶スッキリエンタメに作り上げているのだ。

何を「当たり前」とするかがその作品の思想だ。当たり前のことは多く語られない。しかしだからこそ、そこへの気配りが大きな意義を果たし、作品の通奏低音となる。丁寧に作り込まれたベース=土台の上だからこそ、彼らは正々堂々暴れられるのだ。ヤンキーはこわい。だけど<ザワ>は、かっこいい。

解説:『HiGH&LOW THE WORST』(2019)

監督:久保茂昭
脚本:高橋ヒロシ 平沼紀久 増本庄一郎 渡辺啓
出演:川村壱馬, 志尊淳, 山田裕貴, 前田公輝, 吉野北人 ほか

企画プロデュース:EXILE HIRO

本作は「HiGH&LOW シリーズ」の劇場版第6作。シリーズの大筋からは少し離れたスピンオフという位置付けですが、同じく不良モノの金字塔「クローズ」シリーズの続編『WORST』とのクロスオーバー、しかも原作者・高橋ヒロシ自身が映画の脚本に関わるという豪華さ。主演の川村壱馬(THE RAMPAGE from EXILE TRIBE)に加え、山田裕貴、前田公輝、そして志尊淳と、若手実力派俳優たちの名演がもう、光る光る。えげつねえです。公開からもう1ヶ月ほど経ってしまったので上映回数も減ってきているでしょうが、シリーズ未見でも全然楽しめます。駆け込んで! 僕は結局村山(山田裕貴)が好きだな〜 あと小田島有剣(塩野瑛久)もセクシー。シリーズもちょっとずつ見ようと思います。

 文・安尾日向
編集・川合裕之

▷関連記事

ちはやふる特集②
誰の恋も成就していない少女漫画映画!?

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』|
妄想・オリキャラ・夢小説

最近の投稿

安尾日向

いつまでもくよくよしてやるよ(97年生、大学院生) https://www.instagram.com/__sorekara

Twitter あります