(C)2021 Universal Pictures
暴力には反対だけど、暴力映画は称賛したい。
矛盾していますが本当です。いいや、矛盾しているからこそ本当なのかもしれません。人間は痩せたいけど深夜に冷凍チャーハンを貪ったり、貯金したいと口では言いながら何万円もするスニーカーを注文する生き物なのですから。
暴力の見本市みたいな作品がまたひとつ、日本に配給されてきたことを嬉しく思います。
映画『Mr.ノーバディ』。万歳三唱。
“自分は nobody だ” と宣言する一方で、座席の僕は内心でこう叫ぶ。いや何でもないわけあるかい。いやあ、凄まじい映画でございました。
== 目次 ==
・「ナメてました映画」だとナメていてはいけない。
・機械的な日常の中にいる平凡な男
・きっかけは「八つ当たり」だ
・生傷だろうが非日常だ
「ナメてました映画」だとナメていてはいけない。
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「ナメてた相手が実は滅茶苦茶な狂犬野郎でした映画」とでも呼べようジャンル映画はこれまでも数多く存在します。あるいは「ナメとったらアカンぞ映画」とでも呼びましょうか。
『Mr.ノーバディ』(原題『Nobody』)もまたこのジャンルの系譜にあたり、「平凡に暮らす一見普通の中年男性が実はなんやかんやで強すぎる。なんやかんやで大暴れ」というプロットを背骨に、ありとあらゆる暴力表現が肉付けされたエンターテイメントです。
「ナメてた相手が実は滅茶苦茶な狂犬でした映画」はーーそれをどのような言い回しで表現するかはどうあれーー過去の類作も例を挙げ出せばキリがありません。たとえばアーノルド・シュワルツェネッガー主演の『コマンドー』(1985)に、デンゼル・ワシントン主演の『イコライザー』(2014)。毛色は少し違いますがサイコホラージャンルの『ドント・ブリーズ』(2016)もその一種でしょう。
こうしたジャンルは、痛快なエンタメアクションですが、失われた「父権」の復活欲求を満たすかのようなポルノグラフィティ的な刺激があるという負の解釈も可能です。腹の黒い邪推かもしれません。しかしはためく星条旗のことを考えれば、やはり頭をちらついてきます。実質上の敗戦、冷戦の緊張。色褪せた家父長制と、それに再び火を灯さんとするグレートな赤い野球帽ーー。
それじゃあ日本は潔白なのか。「俺だって評価されたい」という焦燥感をくすぐって喜ばせる <異世界転生> ジャンルが隆盛した島国じゃないか。そうやってアメリカに言い返されるかもしれません。言われたら言い返す。倍返しだ。
自分をビルドアップさせるのか、評価基準をリセットさせるのか。圧倒的に他者をねじ伏せる暴力か、徹底的にすべてを無効化する冷笑か。日米の違いはあれど。フィクションに自己投影して日常の不満を解消させる場が用意されてきました。
意地悪な視点で “このジャンル” について語ってしまいましたが、しかし『Mr.ノーバディ』で描かれる暴力とは何だったのでしょうか。答えは “nothing.” 別に何でもない、だと僕は思います。この映画の暴力 は「いやいや実は俺だって……」という不満を満たす疑似体験あるいは可視化表現の手段ではない。そうした機能に矮小化できない魔力がある。
『Mr.ノーバディ』には、ひとつの目的として、「暴力のための」徹底した暴力表現があるように思えてくるのです。
機械的な日常の中にいる平凡な男
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Monday, Tuesday, Wednesday…. 繰り返しのテロップと細かいカット割り。日々の平凡さを強調しています。やることといえば家族の食事を作り、決まったタンブラーにコーヒーを注ぎ、郊外の住宅地からバスで会社まで出勤する。ゴミ捨てのチャンスは絶えず逃し続ける。事務的で繰り返しの日々です。そうそう、仕事も文字通り事務的な会計担当。コーヒーのタンブラーだって一番のお気に入り、といわけでもなさそうです。どこにでもあるような、普通の大きな器。妄想まみれの余談ですが、仮に彼が日本人だったとして、間違っても「珈琲」とは書かないでしょう。コーヒーとカタカナで無難に書くタイプだ。
平凡、平坦、平均――。そんな言葉がよく似合う普通の中年男性。特別に家庭的というわけでもなく、特別に仕事熱心というわけでもなさそうです。そのルーティンに飽き飽きしている様子すらもありません。いたって無味無臭の日常です。
しかしある日、閃くように事件が起きます。
強盗事件。父親たる主人公は「実はスゲー」ので、犯人が素人であることや銃弾がカラであることを瞬時に見抜いて穏便に済ませることを選択。彼らを逃がすのです。
厄介なのはここからです。その道のプロの腕が洗練されていれば洗練されているほど、素人にはその鋭さが伝わらない。ダルビッシュのもとにクソリプが集まりまくるようにね。閑話休題。周囲の目は冷ややか。「強盗に対して弱腰だった」「一家の主のくせに頼りない」という評価を下されてしまいます。チクっと皮肉を言い放って、あとは無関心で去っていく。取るに足らない相手だとして無視されていると言ってもよいでしょう。個人的には責め立てられて攻撃されるよりも辛いのではないかなと想像します。
そうした冷遇さえものっそりとやり過ごさんとする平凡な男。
波風立てずに済ませるつもりだった強盗事件ですが、しかし結果としてこの事件でつまずいた彼は娘のために「本性」を見せることになる。これが前半から中盤にかけてのこの映画の大まかな流れです。
この事件を契機に、主人公ハッチの凄腕加減が垣間見えるようになります。油断すると見逃してしまうほど細かく伝えられていく。日本の街を歩けばコンビニだらけ。みたいな頻度でいたる所に「実はすごい」「こいつ本当はヤバい」が散りばめられているのです。
しかし覚えているでしょうか。
実際に私たちがスクリーンを通して彼の凄まじさを目撃したバスのシーンを。
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きっかけは「八つ当たり」だ
彼は正義心の溢れるヒーローとして悪に鉄槌を下すような存在でもなければ、復讐心に身を染めて力にすがって溺れる悲劇の主人公でもありません。あのバスのシーンをもう一度振り返りましょう。要するに八つ当たりですよね。腹の居所が悪かった彼は、360° どの角度から見ても市民の敵であろうチンピラ集団が、同じバスに乗り込んでくることを心から祈っていたのですから。手垢にまみれた便利な報道表現を借りてみましょう。「むしゃくしゃしてやった」てな具合です。間違ってもヒーローではない。
そんなアンチヒーローの彼は、憑き物が落ちたように、というか逆に悪魔が降りてきたように迷いのない暴力を市民に浴びせます。暴力をふるう怪物でしかない。マジックみたいに一瞬で沸騰してしまいました。バイオレンスでんじろう。「暴力をふるう瞬間」には、小さな不満を抱えながらも家庭を重んじる男の姿も、娘のために力を尽くす父親の姿もありません。
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彼の暴力行為は100か0かの二択。自宅でのアクションもありますが、家族は地下室に閉じ込めて、フレームに映しません。家族や家庭を徹底的に排除し、混ぜ合わせず完全にセパレートすることで妥協ナシ100%の非情な暴力の快楽に身を委ねることができるのです。
事実、あのバスの直前のシーケンスでは「家庭人」の顔がブレーキをかけます。強盗の犯人を突き止めたが、「子どもがいるから」と見逃して殺さなかったのです。 たしかに“捜査” の過程を通してハッチの正体が滲み出てきますが、狂人としての本性を見せるのはバスの乱戦が最初なのです。
そうした意味で本作は「俺だって実はすごい」からは少し路線が外れます。「俺」という家庭内の存在は、あくまでも凄腕のハッチが作り出した虚構の存在であり、「本当の俺」とは全く別の性質のもの。つまり謂わば他人なのですから。
誰にでも、ジャンケンみたいにいかねえスパッとしない人間模様がある。という新発明は「ダークナイト」あたりからだったでしょうか。ダークヒーローやヴィランの内面を描くブームが昨今は続きました。しかし本作では「それはそれ、これはこれ」でと白黒をはっきり分かちます。
こうしたお膳立てのもと、フルスイングの暴力が表現されます。スタッフ陣は『ジョン・ウィック』、『ハードコア』、『デッドプール2』、『アトミック・ブロンド』などの怪作に参加実績のある輝かしい面々ばかり。アクションをするイメージのない主演のボブ・オデンカークですが、「ボディダブルは使わない」と宣言し2年間のトレーニングを経て万全の状態で撮影に挑みました。
え、うそ。あれ全部生身で?
生傷だろうが非日常だ
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極めつけは痛さだ。主人公のハッチは傷を受けて、痛みを感じます。何を当たり前のことを、と思われるかもしれませんが、彼の痛みは僕たちの住む世界に近いリアリティがあるのではないかと感じるのです。
「クッ……あばらが2, 3本ってところか……」
みたいなシーンが無いのです。いいや語弊があるな。前言撤回。作品を通したあばらの折れた本数は2, 3本どころかダース単位で発注しないと間に合わないかもしれません。
僕がここで言いたいのは仮にあばらが折れたとて「2, 3本ってところか」と軽口をたたいて済まさないということです。身体的な負傷に、それ相応の痛みが伴うよう描かれています。
「あ~あ、死んじゃった」ってな具合に、たとえば「キックアス」(2010~)や「キングスマン」(2014~)シリーズのような命を雑に扱うコミカルさはありません。この悪趣味な軽薄さこそがマシュー・ヴォーン監督の真骨頂であることは承知していますが、話しが長くなるのでこれはまた別の機会に。
漫画でもコミックでもない世界です。「凄いやつだから、傷を受けても平気」とはならない。たとえコピー用紙でスッと指を切ったとて、彼は眉を顰めることでしょう。
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傷を受ける。傷を受けると痛い。インフレもデフレもない、私たちの想像する等身大の暴力です。だからこそ、暴力のリアリティが際立ちます。「妥協のない100の暴力が」です。
書いたそばから訂正して恐縮ですが、実際には等身大の暴力ではないでしょう。しかし、そう納得させる(あるいは錯覚させる)ような描写力があります。
刺されて足が痛いからこれ以上は無理、と思いきやノリノリで歌うような暴力に興じる。でもその実、本当は普通に痛い。だからこそ殺し合いに緊張感がある。たかだか作り物だと油断させない引力で観客の目を全アクションに縛り付ける。
こうした状況下において、「妥協のない非情な暴力」にどす黒い真実味が帯びてくるのです。
「ジャンルもの」としての既存の文法――つまり「お約束」――を守って進行する優等生映画である一方で、マニュアル通りで手を抜いているわけではありません。既定の枠のギリギリまで熱意を塗りつぶしている。
『Mr.ノーバディ』で描かれる暴力には “100%全力の非情さ・強さ” があり、 “痛みを感じる” からこそ暴力に説得力がある。すごい質と量の暴力が、本物のように見えてくるのです。
贋物は悪か。違う。リアリティを追求した贋物だけが、本物を超えられる。想像と叡智を結集した嘘が、本物以上の領域へ到達する。本当は凄腕だが敢えて徹底して「凡庸で平均的な男」を装おうとした主人公のハッチのように。
凄まじい映画でした。自分が死ぬときには走馬灯の代わりにこの映画が流れれば良いなと思う。
文・川合裕之
編集・和島咲藍
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解説『Mr.ノーバディ』(2021)
(C)2021 Universal Pictures
監督:
イリヤ・ナイシュラー
脚本:
デレク・コルスタッド
出演:
ボブ・オデンカーク, コニー・ニールセン, RZA, アレクセイ・セレブリャコフ, クリストファー・ロイド ほか
主演はボブ・オデンカーク。「ブレイキング・バッド」「ベター・コール・ソウル」の両シリーズでソウル・グッドマンを演じたあのオッチャンだ。まさかこんなにアクションをこなすなんて……
監督を務めたイリア・ナイシュラーといえば、前作の完全一人称映画『ハードコア』(2015)でもお馴染み。「一人称映像はあくまでもツールで、物語を伝える上での手法にすぎない」として、本作では一般的な三人称視点を採用。とはいえ「普通の映画」という意味ではなく、細部にまでこだわったカメラワークとアクションスタント、そして練度の高いドラマパートが最高です。本当に素晴らしい映画をありがとうございました……!
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