(C)2017映画「勝手にふるえてろ」製作委員会
「勝手にふるえてろ」という言葉。強いメッセージに見えるが、その核には何があるのだろうか。
筆者はこの言葉は観客に向けられた言葉だと感じる。そもそも私たちは映画を見てカタルシスを感じたり、物語を自分の人生に置き換えることはあるだろう。しかし『勝手にふるえてろ』は劇中だけで終わらず、見ている我々がヨシカに「勝手にふるえてろ」と言われることで後味が残る。
映画館を出ても、そのセリフの意味を考えてしまうのだ。スクリーンの中だけで終わらず、我々の日常にヨシカの言葉が重くのしかかる。
なぜ「勝手にふるえてろ」という言葉が強く響くのか。
その理由はこの物語が単なる恋愛物語だけではなく、自己陶酔から、他人と自分の相互承認によって自分を成長させる “自覚” へ進化する人間の物語であるからだと筆者は考える。そのうえで劇の最後に「勝手にふるえてろ」と私たちに突きつけたこの映画の目的とはなんであろうか。
名作日本映画『勝手にふるえてろ』の徹底レビューです。なぜあのラスト? なぜあのセリフ? いやいや一も二も、ヨシカにとっては “まったく同質の存在” じゃないの?
テクストと頭と筆を徹底的に絞った映画評です。文は自称バームクーヘンさん、編集は和島咲藍。7000字超の禅問答で生まれた目からうろこの解釈をお楽しみください。
(店主より)
自分にとっての他人は無視する存在
「勝手にふるえてろ」というセリフが強く響くのは、この物語が自己陶酔から “自覚” へと進化する人間を描いているからだ。では、「自己陶酔から “自覚” へ」とは一体どういうことだろうか?
それを読み解くために、主人公・ヨシカの人物像に注目していこう。
まずは、ヨシカの現実逃避癖について、詳しく考えていく。
関わらなければならないクソな現実
序盤、ヨシカは街でよく見る人(コンビニ店員、釣りのおじさんなど)にやたらと話しかける。彼らはヨシカに共感するし、職場では同僚の月島来留美と「上司がフレディに似ている」など、笑いを交えた会話をする。そして脳内ではイチという高校生の頃に好きだった存在にぞっこんしている。
どうやらヨシカは自分の脳内で「認めた他者」に対しては好意的に接しているが、自分がしょうもない人間とレッテルを貼った人物(二や上司のフレディなど)に対しては嫌悪感を抱いていることがわかる。
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会社の親睦会でもそう。同僚の来留美に無理矢理参加させられたものの、開始30秒で離脱。バーのテラス席に出て「ファック!ファック!ファック!」と口走る。周りの人はしょうもない。自分が嫌悪感を抱く他者とも関わらなければならない現実はヨシカにとってクソだ。ヨシカのように自分の世界に入りがちな人は共感するシーンではないだろうか。
脳内の「絶対的王子」
彼女は「クソな状況」におかれると、妄想の中にいる王子、イチのことを考える。学生時代から好きな存在のイチ。卒業してから社会人になって数年来ずっと会っていないが、だからこそイチはヨシカの脳内でどんどんと「王子化」していたのだ。脳内でのイチの暴走状態。それは現実が「クソ」であればあるほど強くなっていく。この暴走は二がヨシカに近づけば近づくほど加速していく。
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「しょうもない人間」とレッテルを貼って、自分とは性格も正反対の男(=二)がアタックしてくる苦痛を補うように脳内のイチは自分の理想を叶えてくれる「絶対的王子」となっていく。
この二というキャラクターが絶妙だ。良い人なのだろうが自分は好きになれないという、私たちの周りにもひとりは居る「よくある人物像」がもろに当てはまる。そんな人物がヨシカにグイグイとアタックしてくるのだ。妄想の王子にぞっこんするヨシカにとっては現実的すぎる二、その存在に嫌悪感を抱く。
ヨシカは他人に対してあまり興味がなく、妄想像のイチに恋している。つまりは、自分の心の中、内側しか見ていない。いうなれば自己陶酔であろう。自分の考えを貫き、他人をなかなか受け入れようとしない。だから自分と合わない二の存在もほとんど無視しているのだ。
王子のイチと現実的な存在のニ
内心で人を値踏みして対応を変えるヨシカ。そうした打算的な対応は大多数の人にとっては日常かもしれない。筆者もそうだ。『勝手にふるえてろ』は一般的な女性 / 男性の日常を非常に現実的に描いている。スペクタクルというよりは、実社会で生きる大多数の何物にもなれない人たちにスポットライトをあてた作品だ。それがゆえに我々はヨシカに感情移入することができる。
たとえば、ヨシカは二に突然、告白される。現実は急だ。クソな日常でも急に告白されたら大抵の人はその人が好きかどうかは置いておいて、まずは驚くのではないだろうか。そういう意味でもヨシカの反応は純粋な対応だ。
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やはり、ヨシカは実社会で生きる等身大の存在だ。
ヨシカは「一見醜い現実こそ美しいのかもな」と歓喜する。現実も案外悪くないと思い直すのだ。だがしかし、その感覚はすぐに崩れる。家が火事になりかけ死にかけるヨシカ。後悔する前に脳内で大切に養っていた存在を現実に召喚するしかないと決心する。そもそも二から「好き」という直接的な言葉は聞いていないし、ボヤを起こして最悪な日常。
やっぱり現実はやってられない。
現実がクソな状態になったときにこそ、脳内のイチは誇大化する。ヨシカの妄想が現実に召喚され、現実が妄想との境界線を越えてくるのだ。
実はヨシカはイチもニも否定している
二はヨシカに夢中なのだがヨシカは二に興味はない。脳内に王子が存在するヨシカにとって、現実で接してくる男はしょうもない。
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高校の同窓会に参加したヨシカは序盤の会社での飲み会と同じく、周りと馴染もうとしないし、ひとりだ。イチもやってこない。けだるい時間だけが過ぎる。そんなとき、イチは遅れてやってくる。白馬の王子登場に感極まるヨシカ。会は盛り上がり、イチが住んでいる東京で飲み会を開くことに決まった。東京での飲み会を待ち焦がれるヨシカ。
ただ、ヨシカはイチに会えるということだけに執着し、イチのパーソナルな部分にあまり興味がないように思える。実際、ヨシカはイチとはまだロクに話していないし、そういう意味でもヨシカはイチをちゃんと見ていないのだ。妄想のフィルターを通してイチを見る。それは言い換えれば現実逃避であるし、妄想に捉われているのだからそれは他者の存在を明確に認めていないとも言えるだろう。
本当のイチの気持ちよりも、妄想像のイチの存在の方がヨシカにとっては大きいのだ。
これまでのイチの人生にヨシカは興味がない。あくまで学生の頃から妄想しているイチの王子像に惹かれている。実際、劇中でも同窓会で初めてイチが地元から上京していた事実を知るのだ。本気で現実的に接しようと思えばイチが卒業後どこに住んでいるかくらいは分かる気がするが、それすらもしていなかったのだ。ヨシカは現実のイチを見ていないし妄想のイチがヨシカの脳内で膨らんでいる。
他方、二については最初から距離を置き、二という人物像を見ようとしない。相変わらず自分に近寄ってくる二に対しては冷たくあしらい二という人間を直視しない。
イチとニは対極のような存在だが、ヨシカは2人ともを否定しているのだ。
この時点のヨシカにとって、その人が自分のことをどう思っているかよりも、自分がその人をどう思うかが重要なのだ。
幻想から現実へ
さて、同窓会の後、東京で同級生たちと集まるヨシカ。そこでも二はぎりぎりまでヨシカを追いかける。エレベーターでのシーンでは誇大妄想し自我に溺れるヨシカと、イチという妄想王子、そして現実的(本来のヨシカに一番近い存在)である二が一堂に会する。
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やはり現実は「ファック」だ。
第2回のミニ同窓会が始まる。ここで現実がヨシカを襲う。周りは仲良くし楽しく話しているが自分は馴染めない。2人で盛り上がっていた男女はどこかへ消える。やはり現実は「ファック」だ。
イチも女性とともに別室へ消えるが、王子はひたすらに絵を描いていたヨシカのもとへ戻って来る。「君はさ、」とヨシカに話しかけるイチ。話してみると2人は趣味が合い話は弾み、自分と物理的な距離が近いだけの二と、イチの差は広がってゆく。
しかしヨシカは現実に気付いてしまう。誇大化した妄想は大きな波となり、ヨシカを襲う。脳内でいっぱいになったイチという存在は幻想から現実へ溢れ、正体を表す。イチはヨシカの名前を知らなかったのだ。
現実という大きな壁にただ当たるヨシカはすぐにその場を離れ、帰宅し我に返る。理想のイチはあくまで妄想だった。その気づきは「イチこそ王子」と妄想し続けていたこれまでのヨシカの数年間も否定することになる。ヨシカは自分の置かれた立場を認識していく。実際、序盤に仲良く話していた隣人やバスの座席が隣の人、駅員、釣りをしているおじさん、全員がヨシカの脳内で会話をする存在だ。その場に存在はしているのだがヨシカの思うように密接に関わっていなかったのだ。
「ヨシカってほんと人の名前覚えようとしないよね」
イチがヨシカの名前を覚えていないという態度は、ヨシカにオウム返しのように返ってくる。ヨシカも実情、人の名前を全然知らないし、覚えようとしていなかったのだ。そういえば序盤、来留美にも「ヨシカってほんと人の名前覚えようとしないよね」と指摘されている。
ヨシカが誇大妄想したイチはヨシカの現実の立場を鏡のように映す。皮肉である。妄想していた存在が一番現実を映してくるのだから。ヨシカは二ときちんと接しようとしなかったし、ヨシカと喋っているように見えた街の人たちは自分の想像だけでコミュニケーションを取っているだけだった。実際に話しておらず名前も知らないのだ。イチはヨシカの名前を知らなかったが、ヨシカも他人の名前を覚えていなかったし、そもそもちゃんと関わろうとしていなかったのだ。
イチによって現実を知ったヨシカはその経験を踏まえて自分の置かれた状況に気付きだす。
自己陶酔から “自覚” へ
ヨシカは他者を見ていない。他人と接するときヨシカは他人と相互にコミュニケーションを取っていない。ヨシカが自己陶酔に溺れた結果だ。自分に酔い、自分が1番正しいと感じる。だからこそ他人を毛嫌い、妄想が強くなっていく。他者を冷笑し、会話も妄想で完結させているのだ。
そして彼女の妄想が最大級に誇大化したとき、「イチに自分の名前を覚えられていなかった現実」が急にヨシカの目の前に現れる。急、現実って急だ。しかしながら、現実を突き付けられることでヨシカは自己陶酔の呪縛に気付き、そこから逃れようとする。名前すら覚えずに他者をないがしろにしていたのは自分だって同じだ。他者の存在を認めなければならない。
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先ほども少し触れたが「名前」はこの映画を読み解くうえでで特に重要なキーワードだ。「名前」の絡むシーンは枚挙にいとまがない。たとえばオカリナとあだ名をつけていた隣人が岡里奈(おかりな)という名前であったのも印象的なシーンだ。オカリナさんはヨシカに「名前に支配された人生なの」と呟く。
思えばニはずっとヨシカの名前、しかも苗字「江藤さん」と呼んでくれていた。ささいなことではあるがヨシカにとっては強烈な気付きである。他者が自分のことを知ってくれている。これまで他人ときちんと向き合おうとしてこなかったヨシカだが、これをきっかけに次第に自分の今の姿を客観視できるようになる。
「イチショック」に意気消沈したあと最初に自分の名前を呼んでくれたのもニであった。自分の置かれた状況を悟り、「これじゃダメ」と感じるヨシカ。
幻想に幻滅し、現実に帰依したとしても、やってくるのは二という冴えない男。それでも彼は最初から自分を名前で呼んでくれていたし、彼にとって他人である自分に対して興味を持ってくれている。「二は私のすべてを受け入れてくれてるんだし、自分を見てくれている」と感じる。こうしてヨシカは他者の存在を認めていくのだ。自己陶酔から “自覚” へ、明らかにヨシカは進化した。環境に順応し生き残るために進化したのだ。
全部は受け止められないよ
だがしかし、他人も自分のすべてを受け入れてくれるわけではない。ラストのシーン、雨が降る夜、玄関先で「好きなら全部を受け止めて」と要求するヨシカに対して、二は「全部は受け止められないよ!」と強く反論するのだ。他者からの承認や認識、それは曖昧なもので、本当の理解なんてできない。
ヨシカは物語の冒頭と比べると成長しているが、自分の全部を受け止めて本当の理解を願う甘さが残る。全部を受け止めてほしいと訴えるヨシカの主張を二は「それは違う」と拒む。
ここでヨシカは自分という存在を「完全に」他人に受け入れてもらえるはずはないと、気付きさらに “自覚” したのだ。
まだ自分は他者に勝手なイメージを押し付けて、「自分の思ったままに他者は存在しているし、自分のためにいてくれている」と思っていたのだ。二からすればそれはしんどいし、ちゃんと自分を見てくれていないように感じるだろう。
ヨシカは最初、自分で世界を完結させていた。最初のヨシカは自己陶酔に浸りきっていた。それは自分が自己の心の中でしか存在していないのと同じだ。他人から度重なり突き付けられる現実を経験しヨシカは他人の中の自分像にこそ、自分と他人という2人の関係性の本質があるのではないかと気付くのだ。
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繰り返すが、この記事における「自覚」とは他人による承認と自分が他人に行う承認、つまりは相互承認によって自分を成長させる意味だ。
ヨシカは二との関係を深めるうちに、二を直視できた。同じように二もヨシカを知る。出会ったときはヨシカからすれば二は好まないキャラだったが、知っていくうちに二の自分を想ってくれている気持ちを理解する。二はヨシカの偏屈な性格も全否定せずに向き合う。
特に印象的なのは、「わたしの名前をちゃんと呼んで」というヨシカの二に対する言葉。これは承認依頼だ。自分ですべて完結していたヨシカが他人からの承認を求めたのだ。
2人は相互承認によって好きな相手を知り、自分の性格を理解し、相手のこと、そして相手を好きになる自分のことを好きになっていくのだ。
ヨシカが観客に伝えたかった
メッセージとは?
ヨシカは進化した。自分の世界に閉じこもることをやめ、相互承認によって自分を成長させたのだ。
しかし、ここでひとつ疑問が残る。好きだったのはイチなのに、物語のラストでヨシカが二と付き合うことにしたのはなぜなのだろうか?
いじわるな見方をするとヨシカは「イチが好き」という気持ちを貫けず、結果的に等身大の男と付き合ったともとれる。
では、この物語は「現実に負けちゃった話」なのだろうか? 筆者はそうは思わない。
この物語は「自己陶酔から “自覚” へ進化する人間の物語」だ。自己陶酔から覚め、現実を生きようとするヨシカにとって、自分をちゃんと知ろうとしてくれる他人(=二)の存在が重要だと気付いたから、ヨシカは二と交際することを決めたのだ。
幻想の愛が現実の邪魔をしている。それでは自己に溺れるだけであり、日常は変わらない。このままでは自己陶酔を繰り返し、ごまかしの人生になって最後は腐った自我だけが残ってしまう。
「だから “自覚” が必要なんだよ!」とこの映画は我々に伝えたのだ。 “自覚” とは自分に目覚めることであり、その目覚めとは他人の心の中の自分像を恐れずに見ることでもある。
自己陶酔では他人の中の自分は見えないし、むしろ自分の中の自分が暴走してしまう。 “自覚” とは外に力が働くのに対し、自我は自分を内に内に閉じ込めてしまうと思う。自我 / 自己陶酔が悪いと言っているわけでは決してない。むしろそういう時期もあっていいと思う。自己陶酔して現実というものを嫌というほど認識してこそ、 “自覚” したときに人は他者が必要だとわかるのだろう。
現実逃避へのアンチテーゼ
ここまで、『勝手にふるえてろ』が単なる恋愛映画ではなく、「自己陶酔から “自覚” へ進化する人間の物語」であることを述べてきた。
さて、ヨシカが最後に放つ「勝手にふるえてろ」というセリフの目的とは何なのだろうか?
我々は物語を見てカタルシスに浸り、ときには映画と自分の人生を重ねることもあるだろう。それも映画の楽しみ方だ。しかしながら『勝手にふるえてろ』はそういうカタルシスに対してもアンチテーゼを唱えている。
映画の登場人物に憧れ、自分の人生に置き換えて生きてしまうことは言ってしまえば自己陶酔である。この映画は、虚像に魅了される観客に向けて「勝手にふるえてろ」と、語っているのではないだろうか。
個人の領域に留まったまま、憧れの人や映画で見た他人の人生をなぞるように生きてしまう、そんな人に向かって、「現実を/自分の人生を生きろよ」と物語で伝えているのだ。勿論、他者の人生に憧れたり、自己陶酔する時間も必要。むしろそういう時期は必要だ。その上で、「 “自覚” せよ」と告げているのだ。]
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ヨシカは進化した。自我から “自覚” へ。自己陶酔を自己陶酔で隠すことはもうない。この映画は自己陶酔の波から逃れ、生き残ったヨシカが自我に溺れる観客に「良き思い出や妄想を糧に生きるより、現実をみて(精神的に)大人になれ」と説いた話だ。ヨシカを見て現実に目覚める。自己陶酔に溺れかけている人にとってこの映画は、自我の殻を破るためのきっかけになるだろう。
自我に溺れていた主人公が成長し殻を破り、現実に向き合う姿は見ていて気持ちが良い。
「勝手にふるえてろ」ーーそれはイチを妄想の中で追いかけ続け自己陶酔に溺れかけていたヨシカが最後は他者の存在(二)を認めて自分を “自覚” することができたがゆえの言葉であり、そんな物語を目撃した我々にこそ響くセリフなのだ。
この映画が観客に与える余韻は多くの映画がもたらすカタルシスと比べると少し異質だ。説教されたような後味もない。たしかに「勝手にふるえてろ」という言葉は強烈だ。しかしそれゆえに、少しでも他者の存在も認めてみよう、他者の中の自分という存在を知ろうと思えるのではないだろうか。
「現実はクソでそれは変わらない、だから日常を密にする」という着地点の『勝手にふるえてろ』。悩むよりも考える、陶酔よりも “自覚” 、思考が一周してその人が進化していく物語が筆者は好きだ。
現実はいつだってクソだから、自分を知ろうとしてくれる人や環境を認識し「日常」を密にしよう。それでも陶酔する人にヨシカは思うだろう。「勝手にふるえてろ」と。
文・自称バームクーヘン
編集・和島咲藍
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解説『勝手に震えてろ』(2017)
監督・脚本 :
大九明子
出演:
松岡茉優、北村匠海、渡辺大知、石橋杏奈、趣里 ほか
017年開催の第30回東京国際映画祭のコンペティション部門に出品され、観客賞を受賞した『勝手にふるえてろ』。ヨシカ役をつとめた松岡茉優はなんとこの映画が初主演というのだから驚きです。
原作は『蹴りたい背中』で芥川賞を受賞した綿矢りさ。原作はねちっこくも疾走感があり、そのギャップでゾッとするような独特の読後感を生み出しています。併せて楽しむのもオススメですよ。
余談ですが、弊飯店編集長の川合と松岡茉優さんは生年月日が同じだそうです。何の話???
(フラスコ飯店編集部)
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