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あなたは完全だ。
自分は全く完全ではなく、何かが欠けていると思っている人へ。欠けているなにかを探さなくてはいけないと思っている人へ。欠けているなにかなんて見つからないと諦めている人へ。そんなふうに考えたこともないという人へ。その他も含めた全ての人に言う。あなたは疑う余地なく完全だ。
今から、そのことを教えてくれる素晴らしい映画についての話をする。この映画は素晴らしいが、そのラストシーンに関して言えば分かりにくい。それでも、初めて観た時に僕はラストシーンで泣いた。それは、「Midnight Radio」を歌うヘドウィグが、自分自身が「完全」だと気づいていたからだ。
この記事は、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を見た人にも見たことがない人にも、ラストシーンを紐解き、なぜヘドウィグが「完全(whole)」であると言えるのかについて説明するものである。また、その補助線として、登場人物の名前の由来や、その由来となった人物のエピソードや単語に言及する。
まあ、格好をつけましたが、名前とかにも意味があって、結構重要なんだよというような話です。
Hedwig and the Angry Inch
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主人公のヘドウィグはドラァグクイーンのロックンローラーである。派手なメイクを施し、派手なかつらをかぶってステージに立つ。「アングリーインチ」というバンドを引き連れて、かつての恋人であり、共作した楽曲でロックスターとなったトミー・ノーシスを追いかけまわして、トミーのライブの音漏れが聞こえるくらい近くのレストランでライブをしている。裁判を起こそうとしたりもしている。それがこの物語のあらすじだ。
ここでは主に映画版の話を進めていくが、この作品が元々ミュージカルであったことから、舞台版の情報も活用していくことを最初に断っておこうと思う。
愛の起源、半身探し
昔、人間は二人で一つだった。二人が背中合わせにつながっていて、男性と女性、男性と男性、女性と女性という三種類がいた。人間の力を恐れた神々が、それを二つに引き裂いて、それ以来、人間は自らの完璧な半身を追い求めている。それが愛である。
以上がプラトンの『饗宴』においてアリストパーネスが語った愛の話だ。余談ではあるが、プラトンの『饗宴』は、いわば古代ギリシャ人の恋バナである。酒を飲みながらの恋バナである。いろいろな作品の下敷きになっているので、一読の価値がある恋バナである。
上述したアリストパーネスの愛の話。それを下敷きにした楽曲「The Origin of Love」は作中で何度も流れてくる。日本語に訳すと「愛の起源」だ。「The Origin of Love」を歌った後に、ヘドウィグは言う。
私は自分の片割れを探したいの。でも、それは男? それとも女?
ヘドウィグのお尻には二人の人間の顔が引き裂かれたようなタトゥーが入っていた。
つまり、ヘドウィグは自分自身が不完全な存在だと考えている。そのために、自分の片割れ(half)を探し求めている。それは後述するエピソードにより、自分自身が男か女かわからない体であるということが大きく影響している。
ヘドウィグとルーサー
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ヘドウィグは東ドイツで生まれた。もともとの名前はハンセルで、米国の軍人である父と東ドイツ出身の母のもとに生まれた。父親は幼少期にハンセルに性的ないたずらを行ったことで、母親に追い出されている。ハンセルは東ドイツで育ちながら、ラジオから流れてくるロックンロールにどっぷりと浸かることになる。
男性とキスもしたことがない青年期、米軍のルーサー・ロビンソンと出会うことになる。彼は、ハンセルにお菓子を与える。ハンセルはそのお菓子に権力の味を感じ取り、逃げる。後日、ハンセルが二人の出会った場所へと赴くと、お菓子が転々と転がっている。そのお菓子をたどると、素っ裸で寝転がり、お菓子を自分の体に飾り付けた、ルーサーがいた。彼が権力そのものだと表しているようだ。
二人は結婚することになるが、その際に、ルーサーはハンセルに性転換手術を強制する。「
国を出るためには代償がいる」とルーサーは言った。「自由を得るためには何かを犠牲にしなければいけない」とハンセルの母であるヘドウィグは言った。
手術は失敗し、こうしてハンセルは母の名をもらって “ヘドウィグ” となった。そして、1インチだけ、股間に隆起が残ってしまう。それが、「アングリーインチ」だ。
ヘドウィグはルーサーとともにアメリカへと渡るが、ほどなくして捨てられてしまう。それも、ベルリンの壁が崩壊した日に。ヘドウィグは、ルーサーに男性としての機能を中途半端に奪われ、女性として生きていくために与えられたかつらだけが残った。
ルーサーという権力に振り回されて、ヘドウィグは女性としての肉体に押し込められたのである。
ルーサーという名はドイツ語由来でありleudとhariの二つの部分で成立している。peopleとarmyという意味である。また、同じ綴りの人物としては宗教改革で有名な、マルティン・ルターがいる。東ドイツの青年であるハンセルをアメリカへと連れていく人物として、この名がついているのはかなり示唆的だ。プロ倫。僕は読み切れませんでしたが……
ヘドウィグとトミー
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ルーサーと別れた後、ヘドウィグは様々な仕事で食いつないでいく。そして、かつてのあこがれであったロックンロールを始める。そんな中、ベビーシッターとして勤務していた家でトミー・スペックと出会う。彼の自慰行為を目撃したヘドウィグは、その補助を行い、最後に韓国人の軍人の妻たちをメンバーとしたロックバンド『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』の名刺を残す。
ライブを見に来たトミーは、ヘドウィグが男性が歌うための曲として作った「Wicked Little Town」を聴く。そして、ヘドウィグはトミーにロックンロールの講義を行う。その最後にヘドウィグはステージネームとして彼をトミー・ノーシスと名付ける。ヘドウィグはトミーを作り上げ、彼とともに、作品を創造していく。彼らはプラトニックな関係を保っていた。ヘドウィグはトミーに様々なものを与えていた。ヘドウィグは彼に自身の過去について話したが、股間に残った「アングリーインチ」については話していない。女性として彼に接していた。
ある日、トミーは両親とけんかしてヘドウィグの家に転がり込んでくる。ヘドウィグは彼のトレードマークとなる、額の十字架を、トミーの額に描く。なんやかんやいい感じになった二人。劇中ではホイットニー・ヒューストンが流れている。古の言葉でいうと、「エンダァァァァァァァァァァァァァァァァアア」って感じだ。キスシーンでは「The Origin of Love」が流れる。
そして、トミーの手がヘドウィグのパンツの中に入った瞬間、音楽が止まる。トミーは問う、「今のは何?」と。ヘドウィグは答える。「過去のしこりよ」と。トミーは唐突に帰ろうとし、ヘドウィグはぶちギレる。「愛している」と言ったトミーに対してヘドウィグは答える。
なら、私の股間も愛して
そして、二人は離れていき、トミーはロックスターに。ヘドウィグはトミーを追いかけまわすようになる。
トミー・ノーシス。Tommyの名前の由来はトマスである。ディディモと呼ばれるトマスである。
ごめんなさい、ちゃんとやります。トマスという人はキリストのお弟子さんだ。キリストが復活したという話を俄かには信じず、傷口に指をぶっ刺した使徒だ。トマスという名前は双子を意味し、ディディモも同じく双子を意味する。
ノーシスは英語で “Gnosis”であり、グノーシスとも読める。ギリシャ語において、「覚知」「知識」「認識」を意味する言葉だ。グノーシス派といえばキリスト教でかつて異端とされていたものである。
簡単に説明すると、この糞みたいな世界を作った神様は唯一神ではない。この物質世界は、悪であり、「霊」的な世界が真の世界である。人間はもともと至高神(アイオーン)の一部であり、悪しき神(デミウルゴスやヤルダバオトと呼ばれる)が作ったこの世界において「肉体」という牢獄にとらわれている。
そこで、本来の自己を「魂」で覚知することによって、救済に至る。そう考えているのがグノーシス主義だ。救済に至るためには自身の認識が大切だよって感じ。プラトンじゃね? って感じですね。作中のトミーは神については懐疑的で、名は体を表している。
また、グノーシス派の編んだ福音書の中にトマスによる福音書がある。基本的に物語には、主人公の「敵対者」がいるが、『ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ』における一番の敵対者であるトミーの名前がこれほどまでにキリスト教グノーシス派と関連性があるという事実は、この映画を解釈するにあたって重要である。
ヘドウィグとイツハク
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ヘドウィグの旦那、兼『アングリーインチ』のメンバーであるイツハクはすごく男らしい格好をしている。ひげを生やしていて、長髪で、バンダナを巻いて、ジーンズに革ジャン。かなりロックな格好をした男だ。あまりしゃべらないが、ヘドウィグのかつらをかぶってみようとするシーンが映画では描かれる。
イツハクは、トミーと直接会えなくてイライラしているヘドウィグや、ヘドウィグの終わりのない旅に疲れている。そして、ミュージカル『レント』のグアム・ポリネシアツアーにおけるエンジェル役のオーディションにひそかに応募し、合格してくる。そして、ヘドウィグに離婚すると言う。よく見ると劇中で『レント』のTシャツをずっと着ていた。『レント』のエンジェル役をかいつまんで説明すると、HIVに感染しているが、とってもハッピーで美しいドラァグクイーンの役だ。しかしながら、その報告の折に、彼のパスポートはヘドウィグによって引き裂かれてしまう。
『レント』を知ってる人ならなるほどな、となるこのシーンであるが、観てないとイツハクがわからない。なので、ここで少し映画外の情報を補足しようと思う。
映画の未公開映像において、彼は元々はクロアチアで大人気のドラァグクイーンであったことがわかる。ヘドウィグとクロアチアで共演したとき、彼は自身を国外に連れ出すようにヘドウィグに頼む。そして、舞台脚本においては、イツハクはヘドウィグによって、結婚することを条件にかつらをかぶることを禁止されている。この情報がないとめちゃくちゃイツハクというキャラクターはわかりにくい。僕もそうでした……
イツハクがヘドウィグのかつらをかぶってみようとしているのは、彼の「自身の本来の姿は女性の姿であり、そのような自分に戻りたい」という気持ちが強いことを示している。それなのに、かつて自分がされたように、ヘドウィグはイツハクに代償を支払わせた。ヘドウィグは権力によって彼女を男性という肉体の牢獄の中に押し込んだのである。ヘドウィグはイツハクに自分と同じ苦難を与えているのである。
イツハクの名前の由来は創世記に出てくるイサクだ。イサクの意味は「彼は笑う」。イサクはアブラハムの子である。神様の生贄に差し出されようとするものの、アブラハムの信仰の深さによって助かるといった感じだ。より正確にいうと、アブラハムがイサクを手にかけようとしたときに、神の使いがやってきてアブラハムを止め、イサクを救う。このことは、ヘドウィグが最後に歌う曲のシーンで重要になってくる。
ラストシーンに向けて
イツハクとの一件以降、旅を行う金もなくなったヘドウィグはバンドメンバーとも離れ、娼婦となっていた。路地裏で客を待っているとリムジンがやってくる。中にはトミーがいた。同乗すると、トミーはヘドウィグの名前を自分の CD の作詞作曲欄に書いて見せた。二人は一緒に歌いだす。ヘドウィグはリムジンを運転し、助手席にはトミーが。そして、いつかのようにキスをしようとする。その瞬間、事故を起こす。トミーはニュースのインタヴューにおいて、ヘドウィグとは事故の晩が初対面であり、女性だと思っていたと語る。
ロックスターが事故を起こした車に同乗していたヘドウィグは一躍有名人になった。『アングリーインチ』のメンバーも戻ってきて、そこにはイツハクの姿もあった。観客もヘドウィグたちを楽しみに見に来ていた。そこで、「Exquisite Corpse」という曲を狂ったように歌い上げる。私はつぎはぎだらけだと叫び、かつらを脱いで、胸の詰め物を外し、上半身裸になって、ライブ会場から出ていく。
Wicked Little Town から Midnight Radio
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ヘドウィグがライブ会場から出ると、トミーが歌っていた。観客はヘドウィグだけだった。バンドも映らない。
ここの解釈としては、この物語の下敷きにある神秘主義的な部分からヘドウィグの内面的な世界での出来事だといえるだろう。トミーは、かつてヘドウィグが彼の目の前で歌っていた曲「Wicked Little Town」を歌詞を変えて歌っていた。彼は歌う。
無知だった僕を許しておくれ
(中略)
君はあまりに素敵だった
神の考えたどんな人間よりも
男よりも女よりも
運に見放されたと君は言うけれど
きっと天空には
空気しかないのさ
自然を超えた力も
運命で結ばれた恋人も
きっと存在しないんだ元々この世には
自らの魂を与えて作り上げたトミー=ノーシス。自らの分身であり「双子」であるトミーが「この世には運命で結ばれた恋人なんていないんだ」と歌った。「君は男より女より素敵だった」と歌った。
「運命で結ばれた恋人」というのは半身のことであろう。ヘドウィグが探し求めていた半身というのは結局のところ、自分自身から引き裂かれたものであって、それは自分自身でしかない。ほかの誰かではないのだ。
ヘドウィグがこだわっていた性別。それを超えて「君はあまりに素敵だった」とヘドウィグ自身でもあるトミーが歌う。このことがヘドウィグに自分自身の完全性を理解させることにつながる。
かつてトミーはヘドウィグのしこりを拒絶した。しかし、ここでは、トミーがヘドウィグに向けて「君は男よりも女よりも素敵だった」と歌う。つまり、トミーがかつては受け入れられなかった「アングリーインチ」を受け入れたということだ。そして、トミーがヘドウィグの分身であることを考えると、それはヘドウィグが「アングリーインチ」を受容したことにもつながる。つまり、ヘドウィグは自らの不完全性を象徴していると思っていた男でも女でもない体を受け入れ、それこそが自らの完全な体であると理解した。
この曲を聴いたヘドウィグは涙を流し、トミーは「グッバイ」と口だけを動かして去って去っていく。そして場面が切り替わる。
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ヘドウィグが目を開けると真っ白いステージに立っていた。ヘドウィグの額にはかつてヘドウィグがトミーに与えた十字架が描かれていて、トミーと同化している。(トミー=)ノーシス(知識、認識)を得たともいえるだろう。もちろん自分の真の姿についての、だ。
次の曲を歌い始める前に、舞台脚本では “Hedwig / Tommy nods to the band.” とある。またヘドウィグとトミーは映画では違う役者が演じているが、舞台版では一人二役で演じられる。もっと言えば、舞台においてはトミーの声は随所に入ってくるが、姿はヘドウィグであった役者がトミーとして登場するまで、写真しか登場しない。つまり、ラストシーンに至るまでトミーは、ヘドウィグの言葉の上での存在だ。
アダムとイブとしてのヘドウィグとトミー
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ここで聖書の内容とグノーシス主義的な考え方を紹介し、ヘドウィグとトミーはアダムとイヴであるという見方ができることを示す。トミーはキスシーンで言っていた。
イヴはアダムの体の一部だった彼女がアダムから離れた時楽園は消えただからもう一度アダムの中に戻ればいい
イヴはアダムの肋骨から作られた存在であり、まさに半身である。しかしながら、これも他人というわけではなくて、ここでは、アダムもイヴも自分である。
キスシーンでは二人は元に戻れなかった。キスシーンにおいては、二人が一つに戻るということはセックスのことだったから。しかし、ここにおいてヘドウィグが自身の知識を与えて作り出した分身であるトミーを許し、受け入れることで二人、あるいは引き離されていた二つは一つに戻った。
彼女が再び入り込み、彼が彼女を受け入れれば、死はないであろう
グノーシス主義的な文書である『ピリポ福音書』71より。
小難しいことは抜きにするが、グノーシス主義では「統合者」「両性具有者」が御国に入るものの象徴とされている。「魂」=ヘドウィグの精神=トミーであり、「霊」=女装をやめたヘドウィグである。ヘドウィグはグノーシス的な意味で両性具有者になった。そもそもヘドウィグは両性具有者となっていたというのがこの映画のうまいところである。ヘドウィグが不完全だと思っていたものがそもそも完全だったのだ。
そして、歌い始めたヘドウィグはイツハクにかつらを返すのである。かつらをかぶったイツハクは美しい女性としての姿で観客席にダイブする。彼女は笑った。美しく。
ヘドウィグは肉体から解放された。そして、イツハクも男性という肉体から解放された。ヘドウィグはイツハクを解放した。イサクは神によって生贄にささげられることになったが最後には解放される。ヘドウィグはここで聖書において神が行った行動をとる。ここでは、ヘドウィグが自分自身の霊体を覚知し、至高神、あるいは善なる神の一部に戻ったことを示唆している。演奏が終わった後、素っ裸のヘドウィグが歩いていく。生まれたままの姿で夜の街をふらふらと歩く。彼のタトゥーの顔はつながっていた。ヘドウィグは完全な一人の人間として、夜の街を歩いていく。
完全であると知れ
ここまで小難しいことを書いてきた。だけど、大切なのは結局この一点だ。
あなたは完全である。
それを知ること。グノーシス主義などは関係なく、そのことは人間にとって大きな救いになるはずだ。確証が得られないならば、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を観るといいだろう。
「Midnight Radio」の歌詞の一部を紹介しておこう。ヘドウィグが自らの本来の姿を取り戻して歌う、僕たちに向けての曲だ。
魂で知れ
(筆者拙訳)
血が心臓から脳までの道筋を知っているように
お前自身が完全であると知れ
文・後藤洋平
編集・和島咲藍
300文字までの感想を送ることもできるので
もしよろしければ応援してください!(店主より)
解説『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(2001)
監督:
ジョン・キャメロン・ミッチェル
出演:
ジョン・キャメロン・ミッチェル、スティーブン・トラスク、ミリアム・ショア、マイケル・ピット
ジョン・キャメロン・ミッチェルとスティーブン・トラスクの両名がショーとして始めたヘドウィグというロックンローラーの物語。物語の面白さもさることながら、二人が作り上げた楽曲もこれまた素晴らしい。
日本でも何度も公演が行われてきた。そして今年の二月には関ジャニ∞の丸山隆平さんがヘドウィグ役で新公演が!!
また、イツハク役にはゲスの極み乙女。のドラムス、ほな・いこかさん(女優さんとしての活動だからさとうほなみさん名義です。僕には、ほな・いこかさんといったほうがなじみ深いので、厳密警察の人にはごめんなさい)。
なんと、演出はジョン・キャメロン・ミッチェルさんが!!!!
助かります……
====== koukoku desu======
パーティで女の子に話しかけるには(字幕版)
『ヘドウィグ〜』のジョン・キャメロン・ミッチェル監督がエル・ファニングを主役に迎えた本作。
斬新なのに新しく、刺激的だけど切ない、ボーイ・ミーツ・ガール物語の新たな傑作です。
====== koukoku owari======
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