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映画『セッション』| 死ぬほど嫌いで酷評していた僕がチャゼル信者になるまで【批評解説】

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弱気そうなのに文字通り死ぬほどの気迫を持っているドラム奏者のニーマン、10辛レベルのバイオレンスを振り回しながらも単なる記号ではなく人間としてそこに存在した鬼教官フレッチャー。ふたりを演じたマイルズ・テラーと J・K・シモンズの尽力も並々ならないものです。

音楽と映像がバキバキに相互作用しながらそれがストーリーにも絡みあって物語を装飾・前進させていたことは言うまでもなく、一級品の素材を集めて、もっとも効果的に配置したデイミアン・チャゼルとは一体何者なんだと腰を抜かしました。

映画『セッション』は公開以来10年間、世界で、そして日本で高い評価を獲得していますが、個人的に納得できない部分があります。

いいえ、失礼しました。「納得できない部分があった」が正確です。僕は長い間この映画を酷評していましたが、改めてしっかりと鑑賞して、10年後のいま、ようやく『セッション』が優れた作品であることに気づいたのです。

この記事では、映画『セッション』の細部を解説するとともに、「夢」という観点から解釈していきます。

なぜ僕は面白くないと感じてしまったのか、それがいかに間違っていたのかを記す反省文でもあります。

(師弟)愛がなんだ

単刀直入。嫌いでした。

『セッション』が凄まじい映画であることは間違いありませんが、総括して見ると「なんなんこれ」というのが公開当時の僕の感想でした。冒頭に書いた通りたしかに突出して優れた面も多く、これは僕も認めましょう。しかし僕の当時の率直な意見は以下の通りです。(10年も前の未熟で尖った感性なので許してほしい)

「たしかにすごいけど、音楽に騙されていない?」

「師弟関係、別に成り立ってなくない?」

音楽への情熱・狂気だけが共通する両者のこじれた師弟関係が、最高峰の演奏によってのみ修復される。——このプロットの完成度の甘さに当時の僕は疑問を呈していたのです。

10年が経ちました。

1年に100本映画を鑑賞*したとして、1,000本は見たことになります。映画を正しく見る方法の片鱗を掴みかけている今の視点で振り返ると、若かりし自分の目はこんなにも節穴だったのかと笑ってしまいます。

セッションは “師弟愛” の映画だという僕の読みが間違っている可能性があります。

ジャズ愛だけが共通する師弟間の、演奏による和解。いやいや、やっぱり二人とも全然意地悪だし、お互いにむちゃくちゃ過ぎる。そんなんなら『プラダを着た悪魔』とかの方がよっぽど奥行きがあって、かつ大衆的に作られているという点でも完成度は高いでしょ。

ふーん、音楽の狂気性ね。

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わかるような気がするけど、彼らがあまりに突き抜けすぎて、なんだか他人事のように感じる……。音楽映画でほかに挙げるとするなら————

繰り返しますが上記のような読解は恐らく間違いです。

この記事では「なぜ僕がそう誤解してしまったのか?」を弁明しつつ、「では、この映画の真意はどこにあるのか?」を炙り出そうと思います。

* 年間100本鑑賞:暇すぎてレンタルも含めて200本くらい見ていた時期もあれば、30本くらいの年もあったので一概には言えませんが、10年を平均すると筆者の年間鑑賞数は100くらいになると思います。

「師弟関係」それ自体はある

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『セッション』が “師弟愛” の映画だとミスリードしてしまうのには理由があります。

包括的に見れば師弟愛の話でないかもしれませんが、指導者と学生——または指揮者と奏者——という主従関係それ自体は間違いないからです。

師弟愛が存在したかどうかは議論が分かれるかもしれませんが、形式上の師弟であることは誰の目からも疑いようがありません。

正反対の役割を持つ「二人の父親」

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この映画には「二人の父親」が登場しているという指摘もあります。実父である柔和なジムとバチバチ鬼教官フレッチャーとの対比です。

この映画には二人の父親が登場する。

男手ひとつでアンドリューを育ててきた実の父親ジムは、息子の幸福を心から願っている。だが彼の願う幸福は、たくさんの友達と可愛いガールフレンドに囲まれて充実した人生を送るような「世俗的な幸福」だ。

「ジムとフレッチャー、二人の父親」(竹島ルイ, FILMAG, 2022.02.26 更新)
https://filmaga.filmarks.com/articles/2968/

ニーマンとジムが映画館で観る作品がフィルム・ノワールの傑作『男の争い』なのは、『セッション』が二人の父親による争いでもあることを示唆しており、極めて興味深い。

具体的で非常に説得力のある考えです。ニーマンとフレッチャーの間に主従関係または師弟関係があり、それはクラシカルな父子関係と言い換えても過言ではないようです。

ニーマンの母親は幼い頃に離縁しており映画には登場しませんが、その事実を示す会話の存在自体が重要です。最初のスタジオ練習のあとのシーンで、フレッチャーはなんの前触れもなくニーマンに話しかけ、その言葉は「親も音楽家か?」でした。なるほど。

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たしかに師弟関係は存在する。

しかし、おそらく師弟関係は主題ではありません。その延長線上にこの映画の到達点があるように思うのです。師弟愛ではない。

常軌を逸するほどの抑圧的な師弟関係(または父子関係)を提示したうえで、その束縛を破る。この瞬間にこそ価値があったのではないでしょうか。

これは「師弟愛モノ」ではなく「夢モノ」だ

かつての僕は『セッション』に対して「悪くは無いけど良くは無い」などと煮え切らない生意気な評価をしていました。しかし時を経て2023年に日本で公開されたデイミアン・チャゼルの最新作『バビロン』を鑑賞して、それは大きなミスリードだったと気づかされます。

もしやと思っておそるおそる『セッション』を見返しましたが、やはり間違いはなさそうです。デイミアン・チャゼルという映画作家のテーマは最初から今日まで一貫して「夢」である可能性が非常に高いのです。

なお、ここでの「夢」とは睡眠に関連するものではなく、浮世離れした幻想的な空間が、時間の制約を受けずに永続する現象を指すこととします。

抽象的にまとめ過ぎてしまいましたが、次の項から具体的に『セッション』を「夢」というキーワードで解析していきます。

▼ 箸休め:原題『Whiplash』の意味は?

『セッション』は邦題ですが、本来は『Whiplash』というタイトル。劇中で何度も繰り返し登場する練習曲のタイトルでもあります。Whiplash は作曲家でありサックス奏者でもあるハンク・レヴィ(1927-2001)が手がけた曲。彼の特徴でもある変拍子が多用されており、ドラムの練習曲としては非常に難易度が高いとされています。

Whiplash とは「むちうち」、つまり首の怪我のこと。俯きがちで首に大きな負担がかかるドラマーの職業病でもあります。漢字で書けば「鞭打ち」となることからもわかるように、フレッチャーの異常で暴力的な指導も想起させます。

「むちうち」は医学的に「頸椎捻挫」などと呼ばれ、突然の強烈な衝撃によって引き起こされる怪我です。ドラム演奏やスポーツなどの激しい運動のほかにも交通事故が原因でなることも多い。

ああ、なるほど。

「夢」あるいは「幻」のラスト9分19秒

とくに重要なのはフィナーレの演奏です。まずは物語の流れをおさらいしましょう。

ラストシーンまでの経緯

ニーマンは音楽院を退学になり、彼の秘密裏の告発の結果、フレッチャーも教職を失います。その後、偶然にもばったり再会する二人。フレッチャーは反省の言葉とともにニーマンに自らが指揮するJVC音楽祭のステージでニーマンにドラムを演奏して欲しいと依頼します。ニーマンにとっては大きなチャンスです。

しかし、実はこれはフレッチャーによる復讐でした。事前に伝えられた曲でないことに困惑したニーマンは無茶苦茶な演奏をするはめに。フレッチャーの狙いは彼の音楽家としてのキャリアを完全に終わらせること。「今日のスカウトはヘマしたやつを忘れない」のですから。悪すぎる。なんなんだ。

完全に “やらかした” 状態のニーマン。すっかり戦意を喪失して哀しい背中を見せながらステージを降りたニーマンですが、ややあって再び登壇。

「今度はスローな曲で。みなさんお馴染みの……」というフレッチャーの司会を遮ったのはニーマンの怒気のこもった激しい激しいドラム。「僕が合図する」。曲はキャラバンです。これなら自信がある。バンドも観客もスカウトも、全部無視してフレッチャーだけに対してドラムの演奏を浴びせるのです。

フィナーレの9分19秒間

訝しげな顔を見せるフレッチャーですが、次第にその演奏に感心したのかニーマンに合わせ、最後には完全に通じ合います。

フレッチャーは満足げな表情で指揮を執り、ついにはジャケットを脱いで本気モード。倒れかけたシンバルを慌てて支える場面もありました。あの高圧的な鬼教官がです。一方、ニーマンはフレッチャーの指揮に正確に従います。

その間に言葉はありません。ボイスオーバーもなし。コミュニケーションは演奏や表情、身振りといったノンバーバルな媒体で交わされます。

圧巻の演奏、束の間の静寂。フレッチャーのクロースアップ。フレームに切れた口元が動いている。何か言ったのだろうが、依然としてサイレント。観客である僕たちに音声は聞こえない。ニーマンのアップ。フレッチャーの声を受けて口角を上げる。バンド全員のかき回しとドラムロールが7秒ほど続き、シンバルで終焉。暗転。エンドロールへ。

文字で表現するのは無粋でしたが、これがいわゆる「9分19秒」です。

おさらいが済んだので本題に戻りましょう。

演奏が最高だった。これは満場一致でしょう。議論はその次にこの映画をどう読むか。一見するとニーマンとフレッチャーの音楽を通じた和解のように思えなくもありませんが、ここが解釈の分かれ道です。

何がどうなっていようとその瞬間だけは最高、という「夢」を具体化したのがこの演奏だったのではないでしょうか。

再現不能な「夢」とでデイミアン・チャゼルの作家性

デイミアン・チャゼル作品を解釈する上での「夢」とは、「幻想的な空間が、時間の制約を受けずに永続するものだ」と前項で書きました。あの9分19秒はまさしくこの「夢」に該当するのではないでしょうか。

あのステージのあと、二人はどうなるのでしょうか。冷静になって考えてみるとぞっとします。どう考えても流血沙汰です。

十中八九ボコボコにされる(しかも多分どうせ武器使用ありで)でしょうし、フレッチャーの方も音楽家としての立場を大きく揺るがすような信用的損失を被るに違いありません。

それでも、選択されるのは最高の音楽です。演奏が素晴らしいのであれば、ほかのものと天秤にかける間もなく、自動的にジャズプレイが最優先されます。美しくも一瞬で消える現象に対する執着。おそらくこれがデイミアン・チャゼルの真骨頂です。

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立場や人間関係などあらゆる環境を考慮して、どう考えたってこれがニーマンとフレッチャーが交わす最後の演奏です。録音されていないこの演奏は再現されることはなく一度きり。ありがたくもこれは映画だから私たちは二人のぶつかり合いを何度も鑑賞することができますが、この物語の世界ではこれが最後なのです。

「常軌を逸するほどの抑圧的な師弟関係(または父子関係)」を超えて、対等な立場になったからこそ実現する最高峰の演奏。——そして、この最高の9分19秒は、ふたりの従来の関係性と今後の関係継続の可能性を完全に壊さないと得ることはできません。

こうした再現性のない理想的な時間と空間を「夢」と定義した場合に、『ラ・ラ・ランド』(2016)も『バビロン』(2022)も、デイミアン・チャゼルの作品は一貫して「夢」を描いていることがわかります。

既存の映画評の中では「狂気」というフレーズが選ばれることもしばしばですが、もう二度と再現できない最高の体験への追求(および、そのあとに訪れるであろう最悪の結末を完全に無視する刹那的な姿勢)を考慮して、僕は「夢」と表現したいです。

【関連記事】『バビロン』:1920年代ハリウッドを描いて、それが結局、何?

まとめ:仮にあなたがフレッチャーだったとして

映画『セッション』において、フレッチャーとニーマンの両者にたしかに師弟関係が存在しますが、本質は師弟愛ではない。真に描かれているのは「夢」への探求です。ここでいう「夢」とは、再現不能な一度きりの最高の演奏のこと。これが僕のいまの結論です。

かつての僕は「師弟関係が無茶苦茶じゃん」と一蹴してしまったわけですが、壊滅的に終わっている二人の関係性だからこそ、最後の9分19秒が際立っていたのです。

だらだら長文をすみません。フレッチャーだったらとっくにこう叫んでいるでしょう。

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文・フラスコ飯店店主
 / 編集・大卒のボーダーコリー

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▶︎セッションのドラム演奏は下手なの?(約600字)


「マイルズ・テラーが演じるニーマンのドラム演奏が下手だ」という批判、あるいは「下手って意見もあるけど実際どうなの?」という疑問があるようなので、筆者なりの意見を記します。まずは結論から。そんなことないって!!!

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