I’m back. Omatase. 

いまはどこ? ここはいつ?
時空かくれんぼ定食

これもマスト?あれもマスト?

世の中にはコンテンツの品数が多すぎる。

どんなカルチャーを食べてよいかわからないと悩まないよう、フラスコ飯店が食べ合わせの良い「定食」を自信をもってご提案いたしましょう。

脳みそが痛くなったことありますか?

「膝が笑う」とか「腰が重い」みたいな慣用句として、「脳みそが痛い」があってもいいと思うんですよね。僕はたまにそういう感覚になることがあります。難しい本を読んでいるときとか、意図的に受け手を迷宮に誘い込んでくる映画を見ているときとか。何が何だかわからない! でもめちゃくちゃおもしろいことだけはわかる。痛みでアドレナリンが出ているのがわかる。そんなとき。

この定食では、そんな「脳みそが痛い」作品を集めてみました。

おしながき
・映画『メメント』
・小説『道化師の蝶』
・映画『メッセージ』

ただ難しいわけではなく、知らないうちに時空間の迷宮に迷い込んでしまうような、時間や空間における自分の位置がわからなくなっていることに途中で気づくような、そんな作品にしぼって選びました。

名づけて「時空かくれんぼ定食」。BUMP OF CHICKENの「過去の自分と今の自分とのかくれんぼ」を描いた楽曲のタイトルをお借りしています。この定食のコンセプトときっちり重なるわけではないかもしれませんが、時空間の迷宮に迷い込むことを秀逸に表したタイトルではありませんか!

——気づいたときにはもう、あなたは時空かくれんぼに巻き込まれているでしょう。いまがどこで、ここがいつなのか。わからない! でもこのかくれんぼはとっても楽しい遊びです。安心して「脳みそが痛い」感覚を味わいましょう。

もういいかい 過去 まぁだだよ 今

BUMP OF CHICKEN / 時空かくれんぼ

映画『メメント』(2000)

まずは『インセプション』『インター・ステラー』の監督であり、時間トリックの名手であるクリストファー・ノーランの出世作、『メメント』。妻を失った復讐のために生きる、前向性健忘の男を描いた作品です。

前向性健忘とは新たな記憶を蓄えることができない記憶障害であり、作品内では約10分間しか記憶がもたない設定になっています。だから彼は全ての事実をメモに残します。普通は紙にペンでメモしますが、重要な、忘れてはならない事柄は自らの身体に刺青を入れることでメモします。メモとしてはハードすぎる。

この作品のいちばんの特徴といえば、主人公の復讐を結末から少しずつ遡っていく構成を採っていること。最初にある男を殺すシーンから始まり、どのような経緯でその男を殺すことになったのか、それを少しずつ遡っていくのです。

この構成を理解しているうちに冒頭20〜30分くらい過ぎてしまうんですよね……。でも実際主人公の記憶も似たような混乱のなかにあるわけなので、この仕組みによって観客も主人公と同じように「何が何だかわからないなかで、自分のメモを頼りに少しずつ時間を進めていく」という体験をすることができるのです。

『メメント』は記憶について描いた映画です。ノーランはこの作品に、「2つの時空かくれんぼ」を仕掛けていると僕は考えています。ひとつは「主人公自身が体験するかくれんぼ」、もうひとつは「観客が巻き込まれるかくれんぼ」です。

記憶は思い込みだ。
だけど今の自分は記憶によってできている

まずは作品の主軸である主人公・レナードのかくれんぼについて。ここでは主人公の2つのセリフを紹介します。

記憶は思い込みだ。記録じゃない。事実とは違ってる

——前向性健忘の彼はメモによって過去の自分とつながろうとします。ここは日本のベストセラー小説、小川洋子『博士の愛した数式』と似ていますね。博士は付箋を服に貼ることで記憶をつないでいました。また読み直そ。

レナードは記憶が危ういものであることをよくわかっています。人間は自分の都合のいいように、無意識的に記憶を書き換えてしまいます。だからこそ彼はあやふやな記憶や他人の語る言葉ではなく、「事実」を記録し、それに従って生きようとします。しかし……

時間を知らないおれが癒されるのか

——しかし同時に、過去=記憶こそが自分を作り上げることも、彼はよくわかっているのです。記憶ではなくメモによって生かされる彼に安寧はやってくるのか。いや、こないことを彼は既に知っているのです。彼は自分の過去とのかくれんぼから逃れられません。「見ーつけた!」と肩を叩かれ、負けて悔しいけれど同時に安心するような、明るみに出るあの瞬間を彼は渇望しているのですが……。

観客は二重のかくれんぼに巻き込まれる

さて次はもうひとつのかくれんぼ、「観客が巻き込まれるかくれんぼ」についてです。

先述の通り、作品のメイン・ストーリーは逆時系列で進んでいくのですが、その合間に、順時系列で進むモノクロのサブ・ストーリーも挿入されます。後ろからちょっとずつ遡っていると思っていたら、時間を飛んで前からも出来事を追わなければならなくなるのです。

このサブ・ストーリーによって観客はさらに混乱の渦に投げ込まれます。未来を記憶しながら過去を新たに体験しなければならない。つまり観客は「主人公の記憶」のかくれんぼだけでなく、「主人公の記憶に関する自分自身の記憶」のかくれんぼにも巻き込まれるのです。いやあ、脳みそが痛い。ひとつの謎について考えていたら別の謎が入り込んできてしまい、もとの謎についての記憶が薄れてしまう! だから余計にかくれんぼから逃れられなくなっていく。探す側だったはずなのに、自分が何を、どこを探しているのかわからなくなっているのです。ひやあ〜〜楽しいね〜〜〜!

頭の消費カロリーの高い映画です。

小説『道化師の蝶』(2012)

続いては小説です。第146回芥川賞を受賞した表題作「道化師の蝶」に加え、短編「松ノ枝の記」を収録した一冊。作者である円城塔は東北大学理学部物理学科卒業、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了という経歴を持ち、SF作品を中心に数理的発想で丹念に織り込まれた複雑な作品を多数生み出しています。

単行本『道化師の蝶』は、無数の蝶の羽が円状に並べられた幻惑的な装丁が少し不気味でとても美しい。収録されている2本の短編も、読者である私たちの目の前にあるはずなのに、次の瞬間にはどこかへ行ってしまうような、掴めそうで掴めない不思議な作品です。

ここでは僕が考えた「道化師の蝶」のおもしろさについて書きたいと思います。

あらすじを書けない

「道化師の蝶」のあらすじを書くことは容易ではありません。なぜなら僕自身、この作品の物語を理解していないから。おかしな話ですよね。僕は記憶にある限り3度はこの作品を読んでいます。途中でやめたりしていません。なのにあらすじを書けないのです。

でもこの「あらすじを書くことができない」という事実こそ、この作品のおもしろさのひとつに違いありません。

一応出版社が作った作品紹介を引用しておきましょう。

無活用ラテン語で記された小説『猫の下で読むに限る』。希代の多言語作家「友幸友幸」と、資産家A・A・エイブラムスの、言語をめぐって連環してゆく物語。SF、前衛、ユーモア、諧謔…すべての要素を持ちつつ、常に新しい文章の可能性を追いかけ続ける著者の新たな地平。

出典:https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000187320

——なるほど。たしかにそうかもしれない、と読んだ人なら思えるかもしれませんが、この紹介を読んで「ああ〜こういう話ね」とはならないですよね……。「無活用ラテン語」とか「友幸友幸」とか、聞き馴染みのない言葉や名前ばかり。でも騙されたと思って読んでみてください。ずっと騙してきますから。3度読んで3度とも、進めば進むほど、自分の辿ってきたストーリーが覚束なくなるのです。

なぜか? 一言で言ってしまえばこの小説は、読者の無意識である“地の文”によって読者を欺くから。

「わたし」は誰?

物語が書かれている以上、そこには当然地の文があり、視点というものが立ち現れます。読者である私たちは、その視点に自らの視点を設定して物語を体験し、理解していきます。物語体験、読書体験のためには、視点の設定は大きな役割を持っているのです。

≫文学作品における「視点」についての関連記事:
簡単に「共感」してくれるな|小説『劇場』レビュー

「道化師の蝶」という短編は5つの章からなり、すべて「わたし」という視点から書かれています。相当変わった読み方をする人を除けば、読者は当然、最初から読み始めます。そして最初に現れる「わたし」こそこの物語の主体であり、読者が取るべき視点だと私たちは判断します。だって私たちはそういうふうに本を読むことを教わっているから。そしてそこにまず立ち上がる世界こそ、この物語の世界だと思います。いや、思い込まされます。「男が座っている」とあれば、「男が座っている」のだと想像します。いや、想像させられます。以下同文。

それが普通の読み方です。そしてそれは、それが前提とならなければ、物語の世界は錯綜してしまうからに他なりません。

でも「道化師の蝶」は普通とは違います。物語の世界がひとつに固まることを避け続けます。各章に現れる視点人物「わたし」は違う人物であり、それだけであれば群像劇的な構成だと考えればいいのですが、そうはいかないのです。ある章の「わたし」が語る別の章の「わたし」であるはずの人物についての像が、それまで読んで「理解した」と考えたものから少しずれたりするのです。あれ、この「わたし」は誰? 友幸友幸は? A.A.エイブラムス氏は?? 

ああ、読み手の理解をかわしてくる文章について語るのは難しい。こうして僕もあなたをかくれんぼへと巻き込んでしまっている。

唯一救いがあるとすれば、作品中に次の言葉が出てくることでしょう。

「わかるようにできていないのだから当然だ」

あの蝶を捕える網は私たちに与えられていない。

翻訳というかくれんぼ

単行本『道化師の蝶』には、もうひとつの短編「松ノ枝の記」が収録されています。「松ノ枝の記」は翻訳をテーマにした作品で、お互いにお互いの作品の翻訳版を出版しあっている二人の作家のお話です。

翻訳とはこれまた考えてみれば奇妙な作業でもあって、翻訳されたものがどうして元の文章と同じものだと言えるのでしょう。この二人は翻訳のそのような側面を楽しんでいて、自分の原稿が翻訳されて戻ってきたときに元のお話とは全然違うものになっていたとしても、それはそれでおもしろいということで翻訳版として出版させてしまったりしていたのです。言語と言語との間でお互いにかくれんぼをしているようなもの。

最初はそのような二人にとっての「翻訳」をしあっていたが、次第に互いを出し抜いて新しい仕掛けを施してやろうという知恵合戦を楽しむようになっていく。この裏の裏をかくような、でも裏の裏は表でしかなかったような化かしあいが読んでいて心地いい。と思いきや、あるとき向こうから原本が届かないというアクシデントが発生する。「届いていない」「いや送った」という押し問答に埒が明かなくなった「わたし」は彼のもとを訪れることにするが——。ここから繰り広げられる、想像の先にある「翻訳」の世界を体験してみて欲しいです。

映画『メッセージ』(2016)

最後は『ブレードランナー 2049』のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作『メッセージ』です。原作はテッド・チャンの『あなたの人生の物語』という小説。

「ばかうけ」型の巨大な飛行体が突如世界各地に現れるところから物語は始まります。飛行体の持ち主である生命体と意思疎通を図るために、言語学者である主人公・ルイーズは軍に雇われ現場へ。ついに接触を果たした謎の生命体がルイーズに見せたのは、円形の水墨画のような“文字”でした。

SFによくある「謎の生命体が宇宙からやってくる」という設定で、主人公が言語学者なのは実は珍しい。生命体との意思疎通の問題には必ず直面しますが、そこから「言語」というものを突き詰めて思考していく展開は非常に興味深いものがあります。しかもそれを地味にならずに圧倒的な映像・音響で表現しているのはドゥニ・ヴィルヌーヴの手腕が大いに発揮されているからでしょう。ヨハン・ヨハンソンが担当した音楽も作品の静謐でスリリングな空気をより濃密にしています。

主演は『魔法にかけられて』のエイミー・アダムス。ともに生命体と対峙する物理学者を「アベンジャーズ」シリーズでホーク・アイを演じるジェレミー・レナーが演じています。

前述の通り、この作品がSFとして「異色」と評されるのはSFでは珍しく「言語」を主題にしているからでしょう。成長過程で知らないうちに身に着ける言語と、私たちはどのような関係を結んでいるのでしょうか。この大きな問いに『メッセージ』はひとつの答えの在り方を見せてくれます。

時間の感じ方は
言語によって決まっている?

言語には時制があります。それはほぼすべての言語に共通していますが、その時制の在り方、表現の仕方は言語によってかなり違いがあります。では言語における時間の現れと、その話者の時間の捉え方にはどれくらい強い関わりがあるのでしょう? 作品中でも取り上げられる、言語学における有名な学説があります。それが「サピア=ウォーフの仮説」と呼ばれるもの。この仮説は違う言語の話者はそれぞれの言語の特徴に制約された世界観を持っている、という仮説です。

有名な例がエスキモーの持つ「雪」に関する語彙の豊富さです。英語には「雪」に関する言葉が4〜5種類程度しかないのに対して、エスキモーの言葉には30種類以上のバリエーションがある、というデータがとられたのです。これは「雪」に対する世界観の在り方の違いがそうさせるのだ、というのがサピア=ウォーフの仮説での考え方です。

実際にはこの仮説を反証するような例もあり、「強い」サピア=ウォーフの仮説は否定されてもいますが、言語と認識の間に何らかの関係があること自体はたしかでしょう。

『メッセージ』ではこのサピア=ウォーフの仮説を推し進めて、「時間認識すら言語構造の影響を受けているのでは?」という問いを発しています。宇宙からやってきた謎の生命体との出会いから、言語と時間のつながりについて思考させられるとは。脳みそのシワが増える!

あの光景は「記憶」なのか?

『メッセージ』のもうひとつ肝があります。それは、時折挿入される「娘に関するイメージ」。これがなければ物語は「生命体はどうして地球にやってきたのか」「生命体の言語の謎」を解く、という一つの道の上を辿るシンプルなものです。観客がいかにもSFらしいこれらのミステリーに頭を働かせていると、突然娘に関する記憶のようなイメージが差し挟まれます。

物語の大道とは無関係に見えるこの光景に、観客の脳みそは一瞬立ち止まってしまいます。これは何なのだ? 自覚的にSFらしいミステリーのかくれんぼに参加していたら、知らない間にどうやら別のかくれんぼにも参加していたらしい。

でも大丈夫、この二つのかくれんぼはちゃんと終わります。しかもとっても、鮮やかな形で。

たまには脳みそをぐちゃぐちゃにするような「時空かくれんぼ」に巻き込まれてみませんか。脳汁がドバドバ出る感覚を味わえますよ。

 文・安尾日向
 絵・くどうしゅうこ
編集・川合裕之(フラスコ飯店 店主)

そのほかの定食メニュー

あなたとわたしの「記憶」定食

おしながき
・小説『図書室』
・漫画『不滅のあなたへ』
・映画『A GHOST STORY』

みぎ向け! シウマイ弁当

おしながき
・映画『帰ってきたヒトラー』
・映画『シャザム!』
・映画『THE WAVE』

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