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『タロウのバカ』| 社会の外側を見るということ

(C)2019 映画「タロウのバカ」製作委員会

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『セトウツミ』や「まほろシリーズ」、『ぼっちゃん』などを監督してきた大森立嗣(おおもり・たつし)による2019年の映画『タロウのバカ』をレビューします。「社会の外側を見ること」に伴う息苦しさ・閉塞感は、映画館という空間だからこそ成り立っていたのではないか、という論考です。

それではどうぞお召し上がりください。

慮外放心。呆然。テアトル梅田の地下劇場から地上へ登るときの筆者のその心持ちは、このように表現するほかありません。

戸籍もなく、就学経験もなく、そぞろに毎日を過ごす少年・タロウ。エージ、スギオという高校生の仲間とともに、3人で奔放で破滅的な時間に身を投じて消耗する日々。あることをきっかけに一丁の拳銃を手にしたことから、タロウたちは邪悪でからりとした刺激を加速させることとなる――。これが『タロウのバカ』の簡単なあらすじです。しかしこれはさっぱりと爽やかな青春群像劇でも、うなるほどの痛快なケイパーアクション劇でもない。真夏の炎天下に、手負いの蟻がもがく様をじいっと眺めつづけるような忍耐を要する、静的な苦しみの伴う映画なのです。

彼らの世界の解像度は、こんなにも低い

(C)2019 映画「タロウのバカ」製作委員会

社会の規範にとらわれることなく野性的に振る舞うタロウたちは、根源的な生を享受してそのまま丸かじりしている。そのように言い切ってもよいかもしれませんが、それは他方から見れば表層的で単純なつくりの世界しか知らないということです。

タロウが社会にコミットせず、アナーキーに振る舞うことを作中のエージのモノローグでは「飛ぶ」と表現されていますが、実際は真逆で「這う」という動詞が正しいのかもしれません。彼ら3人の世界の解像度は、お世辞にも決して高いとは言えないのですから。言葉ひとつ、会話ひとつ取り出しても、そこには直接的な情報しか存在しません。ためしに大森立嗣監督の過去作品と比べてみれば一目瞭然です。この映画には同じ菅田将暉が出演する『セトウツミ』のようなハイコンテクストな会話はないし、「まほろ」のような非言語による阿吽のコミュニケーションも存在しません。できるのに、しない。この監督は敢えて会話の行間に何も詰め込まずして映画世界の構築に挑んでいるらしい。おそらくは意図的に知性を欠如させているのです。

例えば、タロウとエージが気まぐれにロシアンルーレットをするシーンは彼らの世界への鈍さ巧みに切り取っています。「遊び」にはコードが必要。しかしそのコードを知る機会すら与えられない彼らにとって、遊びの共通言語は旧皮質に刻み込まれた本能だけです。生きるか死ぬか。といったむき出しの欲望の周縁でしか遊戯することができないのです。もし仮にタロウたちがこの『タロウのバカ』という映画を観たとしても「ワケわかんねー」と一蹴して片付けられてしまうでしょう。植田紗々のヌードシーンだけを切り取って笑い転げるかもしれない。「彼らが観たとしたら」という仮定ならば少しくらいは許せるかもしれませんが、もし同じ教室でそういう同級生の嬌声が耳に届いたとしたら。正直、キツい。

最後の最後、タロウは河川敷でサッカーをする少年たちの中に割って入りありとあらゆる感情を震わせて乱れながら叫びます。彼は叫ぶことしかできません。

こんなにも悲痛な境遇にいるにも関わらず、自分のその掠れた叫び声の核心を彼は言語化することすらできないのです。声の大きさでしか表現できない。その様すら、冷めた視線を浴びせられるのみで、「まともな」社会の構成員は誰も助けてくれない。自分より5歳ほども年下の少年たちに冷笑されて終わるのです。反社会的な環境で湧き上がる蘇芳色の暴力もさることながら、不純物の混じった灰汁色の「非社会的」な無知もまたこの映画の凶器のひとつだといえるでしょう。

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社会の外側を見るということ

この作品の異質さの鍵は、映画、特に劇場鑑賞するというフィジカルの仕掛けなのかもしれません。YouTube やNetflix であったならば、ここまでの息苦しさを観客に与えることは不可能だったでしょう。

タロウたちの住む世界は社会の外側。およそ「普通」とはかけ離れた空間であり、毎日社会の一員を演じている私達の背後にいるため視野に入りません。ジャンクションに見下され人々に通過される土地で踊るように暴れ、荒川(または綾瀬川だろうか)を車で越境する手段にすぎない無機質でだだっ広い道路を壊れたように笑い転げながら走る。本来ならば目に止まるはずもない彼らの存在に、僕たちは暗闇の中でスクリーンを介して向き合わねばなりません。普段は透明の存在であるタロウたちに、この119分の映画が輪郭を与えたのです。無論これは劇映画であり、必ずしもここに描かれていることが実際に起こっていることと断言することはできませんが、彼らはきっとこの日本の何処かに実在するでしょう。日本国内の被虐待児童は全国で12万人もいるのですから。筆者はこの映画を社会正義を訴える伝達ツールに矮小化したくはありませんが、しかしながらこの映画を鑑賞した者が現実に一瞥もくれない社会にはしたくないと願います。

たしかに、そこにいる

(C)2019 映画「タロウのバカ」製作委員会

慮外放心。呆然。剥き出しの鑑賞体験に嘘はありません。筆者はありのままにそう記録しました。しかし、それはつまり何も考えていないということ。それではいけないと僕は感じます。彼らを救おうなんて簡単に口走って筆を振り回せるほど僕は無責任ではありません。けれども、彼らは存在する。タロウは、エージは、スギオは、虚構に根を張って確かに実在するのです。

 文・川合裕之
編集・和島咲藍

解説『タロウのバカ』(2019)

監督:
大森立嗣

脚本:
大森立嗣

出演:
YOSHI, 菅田将暉, 仲野太賀, 奥野瑛太, 豊田エリー, 植田紗々, 國村隼 ほか

音楽:
大友良英

「まほろ駅前」シリーズ、(2009, 2014), 『セトウツミ』(2016), 『光』(2017), 『日日是好日』(2018), 『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』(2019)ほか、文字通り多様かつ多彩なフィルモグラフィーを持つ大森立嗣監督の最新作。

タロウを演じたYOSHI は今作が映画初出演。多動で情熱的な振る舞いを、細やかな密度でぶつけてくる彼の演技には目眩がしそうなほどの力を感じます。またインタビュー等を紐解けば自信に満ち溢れた彼の受け答えに圧倒されて年齢とはただの数字であるというクリシェが誰しもの脳裏に浮かぶことでしょう。そういえば、脇役ながらも國村隼が出演することでぐっと世界観が引き締まりました。誰がなんと言おうと、アウトローの役はやっぱり國村隼なのです。

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川合 裕之

95年生のライター/ 編集者。長髪を伸ばさしてもらってます。 フラスコ飯店では店主(編集長)をしています。

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