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特集・映画『her』① | 「声」に「触れる」ことで確信する、サマンサの実在:メディア論的考察

映画『her』の主題、それは「AIと人間との間の愛」です。恋愛映画として特徴的なのは、相手の姿は一度もスクリーン上に現れず、デバイスを通した「声」を聞くことしかできないという点です。それにもかかわらず、主人公の男性セオドア、そして私たち観客は、「彼女」の存在を強く感じます。姿形のないAIとの恋愛を全くあり得ないものとは思えなくなっていきます。

それはなぜなのか。

私たち人間にとって「声」や「音」とはどのようなものなのか。そしてデバイス・コミュニケーションにとって「インターフェース」に「触れる」ことが果たす意義とは何か。この二つの問いについて、メディア論と呼ばれる学問分野の知識を使って考えてみます。

目次
1:サマンサの「声」を聞く
2:インターフェースに「触れる」
まとめ:「声」に「触れる」ことで確信する、サマンサの実在

1:サマンサの「声」を聞く

声の文化と文字の文化

「声」が持つ文化的な影響を論じた有名な本があります。アメリカの英文学者・歴史家、ウォルター・オングが1982年に発表した『声の文化と文字の文化』です。

世界にはたくさんの言語があります。そのうち文字を持たない言語は存在しますが、音声を持たない言語は存在しません。

(注:もちろん「手話」を言語的にどのように考えるかという問題はあります。手話には音声がありませんが、音声言語と一定の対応を持ち、同じ文化圏で使用されているため、音声言語に属していると見ることもできますが、日本手話と音声言語としての日本語には文法的にも大きな差があるという事実もあります。この記事の主眼はここにはないため、深入りはできませんがあしからず)

オングは聴覚優位の<声の文化>(言葉の声としての性格を中心に形成されている文化)と視覚優位の<文字の文化>(文字を使いこなせる能力を中心に形成されている文化)とを比較し、前者から後者への転換によって、人間の社会が大きく変化しただけではなく、その社会に生きる個々人の思考にまで大きな変化をもたらしたと考えました。

声の文化

オングは<声の文化>の特徴として、「感情移入的あるいは参加的であり、客観的に距離をとるのではない」など9つの要素を提示し、それらによって<声の文化>は「聖なるもの」を醸成し、共同体を維持し続けてきたと言います。逆に、<声の文化>が<文字の文化>にとって替わられると、「聖なるもの」は失われ、共同体意識も衰退するのです。

声の文化から文字の文化へ

<文字の文化>が大きな力を持ったのは、印刷技術の発展により、新聞というマスメディアが普及したときです。15世紀ヨーロッパで誕生したとされる活版印刷術は、その初期、聖書の大量生産に用いられ、キリスト教の布教に役立てられました。その後、印刷術の発達とともに、新聞や小説が誕生し、それによって近代国家(ネーション)という概念が生まれた、という議論も有名ですね。それくらい印刷技術=文字の普及は大きなターニングポイントだったのです。

文字の文化から<二次的な声の文化>へ

その後、ラジオやテレビの普及により<二次的な声の文化>が生まれた、とオングは考えます。視聴者が同じ「声」を聞くことで、聞いた者たちの中に集合意識が生まれる。これは<声の文化>と似ていますが、<二次的な声の文化>は<文字の文化>の基盤の上に成り立っている点で、古来の<声の文化>とは異なります。

オングの先へ

ここまでの話を聞くと、次の疑問が生まれるかもしれません。

「じゃあ現在のスマホ文化は<二次的な文字の文化>なのでは?」

僕もそう考えましたし、そのように考えてオングを引き継いだ議論を展開している研究も存在します。ひとつのテレビをみんなで囲む時代から、ひとりひとつのデバイスを持ち、画面を指でスクロールしながら静かに文字やイメージを「見る」。現代のスマホ文化は、明らかに視覚優位です。

では『her』で描かれる世界はどうなのか。僕は<二次的な文字の文化>の先の、<三次的な声の文化>の世界を『her』は描いていると考えます。

作中、指で操作するデバイスはありますが、片耳に差し込んだ無線の小さなイヤホンがメイン。指ではなく「声」で操作するのが主となっています。現在の電車内ではみな手元の小さな画面を見つめていますが、作中の電車内ではみな顔を上げ、独り言のように自分のデバイス=イヤホンの音声と会話をしています。聴覚優位の文化を描いていると言ってよいでしょう。

これが古来の<声の文化>と大きく違うのは、「声」が個人にしか聞こえないことです。これでは集合意識は生まれようがありません。その点でオングの<声の文化>には当てはまらなかったりと、厳密な議論ではありませんが、視覚/聴覚の優位によって文化的な傾向を分析する作業はなかなかおもしろい。オングの『声の文化と文字の文化』も、その後の研究でたくさんの批判も受け、問題点も指摘されています。しかし、示唆的で「おもしろい」議論には違いありません。

もう一点指摘しておきたいのは、主人公・セオドアの職業が「手紙の代筆」であること。手紙は明らかに<文字の文化>に属します。彼の職業と二人の「声」を通した恋愛が実は対比されているのかもしれません。

オングを出発点としたここまでの議論をまとめます。「声」には「文字」とは違う力があり、それは「感情移入的」で距離の近いものである。そのような力を持った「声」は「聖なるもの」を帯びて私たちの中に入ってくる。そんな「声」が主役となる時代を『her』は描いているのです。

(c)Warner Bros. 2013

聴覚と「情動」

さて、繰り返しになりますが、サマンサとのコミュニケーションはデバイスを介した「声」によって行われます。サマンサの声はスカーレット・ヨハンソンが担当し、その名演が話題となりました。「声だけの出演でアカデミー賞ノミネート」という史上初の快挙を期待されるほどの評判でしたが、残念ながらノミネートは実現しませんでした(作品自体は5部門でノミネートされ、脚本賞を受賞しています)。

では、私たちがサマンサの存在を強く感じ、二人の恋愛に胸が締め付けられたのは、スカーレット・ヨハンソンの演技がよかったからだけなのでしょうか。

ここでは、「声」と「情動」の結びつきについて考えてみます。

「声」と「情動」の結びつきの例1
:赤ちゃんの泣き声

「声」と「情動」の結びつきを示す例をいくつか見ていきましょう。まずは、こんな場面を想像してみてください。

電車内、少し離れたところで赤ちゃんが泣きはじめます。ギャンギャンです。泣くのは赤ちゃんの仕事、元気でいいことだ。そうは思っていても、どうしても気になってしまう。読んでいた本に前ほど集中できない。こんな経験は誰しもあるでしょう。

その理由は、「泣き声」が持つ「ただの音声」以上の意味を感じ取ってしまうからではないでしょうか。赤ちゃんの泣き声は、自分が感じている何らかの不快を訴える声です。「声」に含まれるその感情を聞き取ってしまうから、私たちは赤ちゃんの泣き声が気になってしまうのです。

このように、「声」と「情動(心理学では強い感情のことをこう表します)」には強い密接関係があります。これはオングの指摘とも重なります。

「声」と「情動」の結びつきの例2
:動物の鳴き声

別の例を見てみましょう。1896年発表のイギリスのSF小説『モロー博士の島』(H.G.ウェルズ)です。海難事故で難破した主人公が救助され上陸した島は、生体解剖をしたせいで学会を追放された天才科学者・モロー博士の島だった。そこで博士は動物を人間に作り替えるという恐ろしい改造実験をしていたのです。

ある日の食事後、外に出た主人公は、博士の実験で苦しめられている動物たちの声を聞きながらこのように言います。

鳴き声は外のほうがかえって大きく聞こえた。世界じゅうの苦痛がその声に集約されているような気がした。苦痛にもがく生物が隣の部屋にいたとしても声さえ聞こえなければ私も我慢ができたであろう。苦痛の声が聞こえてこちらの神経に堪える時、はじめて私たちの同情心がうずくのである。

(訳文ママ 246頁)

動物たちの「声」こそが、彼にその苦痛に対する「同情心」を感じさせ、彼自身も苦痛を味わう。目を塞げば視覚はほぼ完全に遮られるが、耳を塞いでも聴覚をシャットアウトすることは意外と難しい。音声のほうがこちらの意思と関係なく飛び込んでくるのだ。そうして飛び込んできた「声」は、私たちの感情に響く。「情動」、そして「共感」との関係は、もしかしたら視覚よりも聴覚のほうが強いのかもしれない。

「声」と「情動」の結びつきの例3
:「エモい」の語源

さらにもうひとつ、聴覚と感情のつながりを示す身近な例を。それは「エモい」という言葉です。

「感情的な」という意味を表す英単語 emotional から派生したこの「エモい」という表現は、何か感傷的なものを見たときや興奮することがあったときなど、感情が揺さぶられたときに使われます。三省堂が選定している「今年の新語2016」において第二位に選ばれたり、その流行はみなさんも実感するところでしょう。実はこの語、音楽業界を起点に広がっていきました。

音楽業界では音楽ジャンルを表す語としてエモ( Emo )が1990年代から用いられてたといいます。エモはメロディアスで感情的な音楽性と、パーソナルな内面や心情を吐露するような歌詞をもつことが特徴として挙げられるジャンルです。筆者が個人的に初めて「エモい」という言葉に触れたのも音楽に関する言及で、5、6年ほど前のこと。当時は今ほどの汎用性はなく、あくまで楽曲やライブのパフォーマンスに対して使っていました。

それがどのように広がって、指し示す対象も多様になったのか、その過程はわかりません。ですが、「音」の情動性に目をつけ、使われるようになった語が、広く「感情を揺さぶるもの」を指すようになり、もはや「エモい」としか表現できないような感情を私たちは抱くようにすらなりました。聴覚と情動の強い結びつきがここにも表れています。

喘ぎ声を聞く

『her』の話に戻ります。作品の印象的なシーンのひとつとして、お互いの「声」だけで行う「擬似セックス」のシーンがあります。自分がいま相手のどこをどう触っているかを言葉で語りかけ、それを聞いた相手はイメージし、さらにそれに応えてまた語りかける。セオドアはこの行為を「セックスもどき」と言いはしますが、サマンサとのそれは「もどき」と思っているとは思えません。

画面はフェードアウトし真っ暗。二人の「声」だけが聞こえます。二人は共に「あなたを感じるわ」、「すごい、全身で君を感じてる」という言葉を口にします。このとき二人は互いの存在を「声」を超えた「実在」として「感じる」ことができたのです。序盤で描かれる「セックスもどき」(猫の死骸で首を締めるやつ)とは大きな差があります。視覚も必要ない没入した世界で、互いの「声」だけを聞くことで存在を感じ取る。

この場面は「情動」をたくさん載せることができる「声」だからこそ、オングの言葉で言うところの「聖なるもの」を帯びている「声」だからこそ、成り立っているのかもしれません。

2:インターフェースに「触れる」

(c)Warner Bros. 2013

ここまで「声」だからこそ可能になったかもしれないものについて考えてきました。次に考えたいのは、サマンサとセオドアを結ぶ糸の結節点にあたる、デバイスについてです。

先ほどもセオドアが用いるデバイスについて軽く触れました。折り畳み手鏡のようなタッチパネル式デバイスと、片耳にはめる小さなワイヤレス・イヤホン。おそらくはタッチパネル式デバイスがハブとなってネットにつながり、それを介してイヤホンが機能を果たすのでしょう。しかしセオドアが触れている時間は圧倒的にイヤホンの方が長いように見えます。着信音が鳴るとまずイヤホンを手にとり、耳にはめる。それから必要があればタッチパネルの方を開く、というスタイルでした。

この章で考えたいのは、デバイスに「触れる」という行為の持つ意味についてです。二人のメディア理論家の話を聞いてみましょう。

メディアはメッセージ
/メディアはマッサージ

まずはメディア論の始祖にあたる、マーシャル・マクルーハンです。見出しに挙げたのは、彼の有名すぎるほど有名な言葉。それぞれの意味を紹介していきましょう。

とその前に、「メディア」とは何でしょうか。「メディア」という言葉を聞いてまず思い浮かぶのはおそらくテレビや新聞など、情報を発信する媒体のことだと思います。しかし、マクルーハンの言葉を考えるとき、それでは足りません。彼を含むメディア論の文脈で「メディア」という言葉を使うとき、それは「何かを何かを媒介するもの、何かと何かの間にあるもの」という広い意味を表します。

テレビは情報の発信者と情報の受け手の間に立つメディアであり、スマートフォンは私たちとインターネット空間の間に立つメディアです。さらに、私とあなたのコミュニケーションを成り立たせるのは言葉というメディアかもしれませんし、表情というメディアかもしれません。このようにメディアというものを広義に捉えていきます。

「メディアはメッサージ」

ではひとつめの「メディアはメッセージ」とはどういう意味か。これは用いるメディアの選択自体が相手に伝えるメッセージとなりうるということです。例えば、好きな人に告白する際、会って直接言うか、電話で言うか、手紙に書くか。それぞれ伝え方・伝わり方が異なります。同じ「好きだ」というメッセージのはずが、選択するメディアによって少しずつ意味合いが異なってくる。このような事実を指すのが「メディアはメッセージ」という言葉です。

「メディアはマッサージ」

ではふたつめの「メディアはマッサージ」とは何か。これはもちろん「メッセージ」と「マッサージ」というダジャレなのですが、表したい事実は全く異なります。それは、私たちがどのようなメディアを用いているかが、私たち自身の知覚や思考に変化を与えるということです。これはオングも同様で、声か文字かはその違い以上に大きな影響をもたらすという考え方でした。私たちがメディアに触れることで、逆にメディアの方が私たちを「マッサージ」し、私たちに影響を与える。これが「メディアはマッサージ」の表すことです。

このような考え方は「メディア決定論」と呼ばれ、「メディアの持つ一方向の影響を大きく想定しすぎている」と批判されますが、メディアが私たちに多少なりとも影響をもたらすことは疑いようがありません。

では現代のスマホ文化、そして『her』で描かれる近未来の文化の中では、私たちとメディアとの間にどのような関係があるのでしょう。

テクノロジー的生活形式

私たちがデバイスを操作するときに触れる部分を「インターフェース」と呼びます。「間」を意味する接頭辞 inter に、「面」を意味する face がひっついています。わかりやすい。私たちの「面」である皮膚などの感覚器官とデバイスの「表面」の「間」ではたらくのがインターフェースです。

情報機器に囲まれて生活している現代の私たちは、同時に、あらゆるインターフェースに囲まれて生活していると言えます。そんな現代の生活形式を、アメリカの社会学者、スコット・ラッシュは「テクノロジー的生活形式」と呼びます。

テクノロジー的生活形式においては、外界の理解はテクノロジー・システムをとおしてなされる。私達はサイボーグ(cyborgs)というよりインターフェイスのようにして外界を理解する。

(Lush 2002=2006:39)

テクノロジー的生活形式の中では、現実の認識自体がインターフェースを通して行われる。私たちが現実を理解する方法自体が、インターフェースのようなものになっている、と彼は指摘するのです。

さらにそのような生活形式においては、時間・空間・価値体系が無効化された社会が成立するということも主張しますが、ここではこれ以上は踏み込みません。

僕がラッシュの主張を通して言いたいのは、インターフェースの不可欠性です。インターフェースが現実理解にとって大きな役割を果たすのなら、インターフェースがなければ認識できない現実もあるということです。インターフェースは「触れる」もの。つまり触覚の重要性が見えてくるのです。マクルーハンの「メディアはマッサージ」という言葉を思い出してください。触れることで私たちはメディア=デバイス=インターフェースと相互に関係を持つのです。

「あれ、さっきまで聴覚の話してなかった?」

その通りです。先ほど僕はセオドアが使用するデバイスについて、指先で操作するタッチパネル式のデバイスよりも、ワイヤレス・イヤホンの方が重点的に使用されていることを指摘しました。それを覆すつもりはありません。

ではここでいう「触覚」とは何か。それは「イヤホンの触覚性」です。

イヤホンに「触れる」

もちろん触覚と言ったときに表されるのは指先で触れることだけではありません。イヤホンを耳に装着したときだって、私たちはデバイスに触れているのです。イヤホンというデバイスのインターフェースに「触れる」ことで、サマンサとのコミュニケーションが始まります。

僕は思いました。近未来のお話なんだから、イヤホンのような物理的なデバイスはもうなくなっていて、脳に直接チップを埋め込むような描き方でもよかったのでは? おそらく、そうしなかったのはデバイスの触覚性が果たす意義に気づいていたのではないでしょうか。インターフェースに「触れる」ということでしか理解し得ない現実がある。この作品の場合、セオドアがイヤホンというインターフェースに「触れる」ことで出会える現実とは、そう、「サマンサの存在」です。

想像してみてください。もしイヤホンがなく、脳に埋められたチップから直接サマンサに語りかけられたとしたら。それはおそらく、自分の頭の中の声と区別がつかないものとなるでしょう。外からではなく内から聞こえてくる「声」に、他者性を感じることができるでしょうか。「自分ではない誰か」が、自分を思い、語りかけてくれていると思うことができるでしょうか。

サマンサとの恋が成立するためには、物理的に「触れる」ことのできないチップではなく、指先で「触れ」て、耳で「触れる」ことのできるイヤホンというインターフェースが必要だった。そうは考えられないでしょうか。

「声」に「触れる」ことで確信する、
サマンサの実在

(c)Warner Bros. 2013

長くなりましたが、いよいよこの文章も終わりが見えてきました。あと少しだけお付き合いください。

この記事で確認してきたのは、「声」が持つ力とイヤホンに「触れる」ことの意味です。もしかしたら視覚以上に「情動」を載せて飛び込んでくる「声」だからこそ、サマンサを強く感じることができた。イヤホンに「触れる」ことができるからこそ、その「声」は他者性を帯び、実在を信じることができた。

私たちがサマンサとセオドアの恋に違和感を抱かなくなっていくのは、この作品が私たちが日常的に経験している感覚を繊細に掬いあげているからなのかもしれません。

この記事では、有名なメディア論者の理論を古今織り交ぜて紹介し、作品の分析に使用しました。実際にはもっと細かい議論がなされている分野なので、詳しい方には大雑把な理解だと思われるかもしれません。メディア論にはおもしろくて日常理解に役立つ議論がたくさんあります。そうした日常的実践のひとつとしてこの記事が読まれたら、うれしく思います。

参考文献

W.J.オング(1982)『声の文化と文字の文化』(桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳、藤原書店、1991)

H.G.ウェルズ(1896)『モロー博士の島』(橋本槇矩・鈴木万里訳、岩波書店、1993)

難波功士(2011)『メディア論』人文書院

S.ラッシュ(2002)『情報批判論――情報社会における批判理論は可能か』(相田敏彦訳、NTT出版、2006)

辻泉・南田勝也・土橋臣吾編(2018)『メディア社会論』有斐閣

 文・安尾日向
編集・川合裕之(フラスコ飯店 店主)

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