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「描かない」ことで沈殿する MOTHER というテーマ
|映画『MOTHER マザー』

(C)2020「MOTHER」製作委員会

上映時間、2時間6分。長く重く、どろついた時間をかけて底のほうに溜まっていく沈殿。ラストカットの長澤まさみの顔はその澱(おり)を眺めているような、あるいは澱そのもののような表情であった。

あの表情は、あの沈殿は、ひいてはあの作品は、何を描いていたのだろうか。

お互いに逃れられない母と息子

映画『MOTHER マザー』は実際に起こったある殺人事件を題材にしている。2014年、埼玉県川口市で当時17歳の少年が祖父母を殺害した事件である。この事件を取材して書かれたノンフィクション作品『誰もボクを見ていない なぜ17歳の少年は、祖父母を殺害したのか』(ポプラ社)を原案として、映画『MOTHER マザー』の脚本は作られた。

主演の長澤まさみが子どもを「舐めるように」愛しつつも振り回す母・秋子役を演じ、息子・周平役は、本作がスクリーンデビューとなる奥平大兼が務めた。他にも阿部サダヲや夏帆、仲野大賀といった実力派が脇を固める。監督は『まほろ駅前多田便利軒』(2011)、『セトウツミ』(2016)、『タロウのバカ』(2019)など、コメディータッチの作品から鋭利な社会派作品まで幅広く制作してきた大森立嗣。脚本は『あゝ、荒野』(2017)や『宮本から君へ』(2019)の港岳彦が手掛けている。

この映画が描くのは、秋子と周平という母子関係の在り方だ。祖父母殺害という痛ましい事件への経緯を、母と息子の関係性から描いている。たとえば映画冒頭のシーンでは、足に怪我をして帰ってきた周平を見つけた秋子が、その傷口をべろりと舐めあげる。このシーンについて主演の長澤は次のように語っている。

傷口を舐めるところは神経に障るというか、「気持ち悪く見えたらいいな」と思いながらやりました。2人が普通の親子ではないことを示していて、秋子が秘めているものをひときわ喚起させるシーンでもありますよね。

(シネマトゥデイによるインタビューより引用)

二人がどんな親子であったのか。冒頭のシーンは非常に象徴的であるが、全編を通して少し特殊に思われる母子の距離感が描かれている。離れたくない、いや、離れたくても離れられない、やっぱり離れたくない。お互いに逃れられない親子関係。それこそがこの作品のテーマである。

そしてこのテーマを描くために、映画は実際の事件や原案ノンフィクションから少し距離を取り、「描かない」ことを選択しているのではないか、というのが本稿の結論である。

(C)2020「MOTHER」製作委員会

「描かない」ものとしてのフィクション

一般に、フィクション作品はその世界がどのような場所で、どのような人がいて、どのようなことが起こるのか、ということを丹念に描いていくことで物語世界を作り上げる。フィクションは「描く」ものなのだ。

いっぽう『MOTHER』は実際の事件を題材とし、その取材を通して書かれたノンフィクションを原案としているため、いわゆる「フィクション」には見えないかもしれない。

この作品の特徴として、観客である私たちが重要だと感じるようなこと、知りたいことが十全には描かれていないことが挙げられる。

そもそも秋子はどのような人なのか? どのような経緯で周平を産み、シングルマザーとなったのか。

父親は何をしているのか? 父親は登場するが顔さえ正面から映されないではないか。

フリースクールでの周平は交友関係を築けていたのか? 周平という人物を知るために、もっと描いていてもよいではないか。

このような疑問がたくさん生まれる。知らされてもよさそうな情報が詳細には与えられないまま作品は重く沈んでいき、底のほうで断片的な情報のつぎはぎによる秋子や周平の像ができあがっていく。

ただひとつ、私たちに提示され続けるのは、秋子と周平、二人のいびつな母子関係である。描かれない諸々のなかでそれだけが私たちに強く残る。いや、違う。私たちが欲しているさまざまな諸々の情報が描かれないからこそ、母と子の関係性がたったひとつのテーマとして結実するのだ。

先ほど私はフィクションとは「描く」ものであると述べた。しかしこの映画は、実際の事件、そしてノンフィクション作品を原案(原作ではなく、あくまで原案)としながら、「描かない」こと=「描く」ものを制限することによって、新たなフィクションを作り上げている。単なる「ノンフィクションの映像化」ではない映画作品として、ひとつのテーマを濃厚に沈殿させているのである。

(C)2020「MOTHER」製作委員会

【関連記事】『MOTHER マザー』は「毒親映画」というより「ファム・ファタール映画」だ

誰にとっての MOTHER ?
——スポットライトの中と外

繰り返しになるが、映画『MOTHER マザー』のテーマは母と子の関係性だ。このテーマはタイトルにも十分に込められている。なぜならMOTHER、つまり「母」とは「子」無しには成立しない概念だからである。

こう書くと「子」にとっての「母」という側面を強調しているように思われるかもしれないが、「母」という概念は母自身にとっても大きなものだと考えられる。つまり、タイトルの語 MOTHER が表しているのは、「子にとっての母」であると同時に「母自身にとっての母」=「母であるということ」でもあるのだ。

周りに対して「私の子ども」と連呼する母・秋子は、子・周平に何を言い、何を施し、何をさせたか。周平は何を聞き、何を従い、何をしたのか。母が母であり、子が子であるがためにできあがった関係性。母・子双方にとっての MOTHER という印が引き起こした事態。この映画が描いているもの、描くことを選んだものはまさしく、MOTHER という一語に表されているように見える。

だから事件の凄惨さやその倫理的問題そのものを描くようなことはなされていない。祖父母殺害もカメラのフレーム外で行われている。殺人という繰り返されてはならない事件を強く印象づけることが目的であれば、映像表現である映画はいくらでもスプラッタなシーンを作り上げることができるはずだ。もちろん鑑賞制限(レイティング)対策も理由であろうが、それだけではないだろう。監督はインタビューでこう語っている。

映画には基本的に、分からないものに向かっていく力があると思っていて、2時間とかの流れのなかで答えの分かるものに向かっていくのはあんまりおもしろくないなといつも思っていて。

(BANGER!!!によるインタビューから引用)

ニュースを見れば事件の凄惨さやこんなことが繰り返されてはいけないことはわかる。わかった気になれる。しかしニュースではわからないこともある。彼女たちはどのような状況に置かれていたのか。母と子はどのような関係性のもとで暮らしていたのか。そして、どうして少年は祖父母を殺害してしまったのか。『MOTHER マザー』が措定した「わからなさ」はこちらにあるのだ。特殊で自分たちからは遠い距離の先にいる人たちのように見える彼女たちを、その母子関係から見つめることで生々しく感じることができるのだ。ニュース映像ではわからない、痛々しい傷口を。

(C)2020「MOTHER」製作委員会

偏りと不在

スポットライトのように、周りを影にすることと引き換えに MOTHER というテーマに強い光を当てるという作品構造についてここまで記してきた。最後にやはり MOTHER こそがテーマとなることの背景にある、社会構造の問題を指摘して本稿を締めたい。

秋子がそもそもシングルマザーであること。

途中に出会う川田(阿部サダヲ)がたびたび失踪すること。

両者にまたがる問題とはいったい何なのか。それは、女性が産み、育てる役割を押し付けられているということである。女性が「産む性」を引き受けさせられ、産まない男性が母子から姿を消すことができてしまうという非対称な社会構造が根底にあるのだ。当たり前すぎる、単純な指摘に過ぎないが、タイトルとの関連性で避けては通れない。MOTHER というタイトルは FATHER が不在であること、不在になってしまえることすら表現しているのだろう。

そのなかで、この映画の秋子は明け透けな「女性性」を武器にすることにためらいがない人物として描かれており、非対称な社会構造にがっぷりと嵌まり込んでしまっている。その気味の悪さ、救いのなさみたいなものも強く表れていて、沈殿の濃さは増すばかりである。

周平が捕まり、母・秋子はひとり、アパートの部屋に座り込んでいる。そこへ周平の言葉が伝えられる。ラストカット、秋子の表情が大きく、そして長く映される。そこには「わかりやすい」感情など1ミリも存在しない。あるのは2時間をかけて底に溜まったどろっとした何か。

そしてタイトルである MOTHER という手書きの文字が浮かび上がる。それこそがこの沈殿に付けられた名前なのだと、思った。

参考文献

シネマトゥデイ「『MOTHER マザー』長澤まさみ&大森立嗣監督単独インタビュー 世の中から「NO」を突きつけられた人を見つめたい」

BANGER!!!「実際の“祖父母殺害事件”が題材の映画『MOTHER マザー』 長澤まさみと阿部サダヲを大森立嗣監督が語る」

 文・安尾日向
編集・川合裕之(フラスコ飯店 店主)

解説『MOTHER マザー』(2020)

(C)2020「MOTHER」製作委員会

監督:
大森立嗣

出演:
長澤まさみ、奥平大兼、阿部サダヲ、夏帆、仲野大賀、皆川猿時、木野花など

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もっとも象徴的なのは終盤、「あの犯行」があった直後の場面です。すべてを終えた周平はラブホテルで汗を流し、父親の異なる妹・冬華を挟んで秋子と3人で「川の字」になって静かに眠ります。

まだ幼い子どもと、その両脇には男と女。その姿は家族そのものであり、このショットだけを切り取れば秋子と周平は夫婦関係にあると言われても何ら不自然ではありません。しかも場所はよりにもよってラブホテル。一般には性行為を営むためだけに建てられた場所です。

もちろん周平と秋子が性交渉を行った描写はなく、到底それがあったとは考えられませんが、子である冬華の育児をするのは周平だけだったという事実が机上の男女関係を復活させます。少なくとも彼は冬華の父であり、秋子の産んだ子の父であるということは、めぐりめぐって秋子の夫になるということです。

周平は秋子の配偶者となり、妻と子を養うために「ひと仕事」を終え、川の字になって就寝する

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