閻魔大王も舌を巻くほど何枚も舌があるような人間なんだと思う。とてもじゃないが自慢できるほどの人格者ではない。
「川合さんホンマのことは言わんよね」
クィア・アイというリアリティーショーをご存じですか。決して誰も傷つけることのない無条件の愛に満ちた幸せなリアリティーショーです。人生に疲れてしまった人のもとに「ファブ・ファイブ」が足を運びます。その人たちはカルチャー、食、ファッション、ヘアメイクやインテリアなどのスペシャリスト。衣食住をあらゆる角度から見直し、疲れたその人の暮らしを人生を輝かせて再起させてくれるのです。
海外ドラマファンやネトフリフリークのみなさんにとっては「何をいまさら」と思われるかもしれませんね。知っている人は知っている超オバケコンテンツ。2018年に配信がスタートした Netflix オリジナルドラマであり、これまで6つものシーズンが配信されています。いいなあ。僕の所にも来てくれないかなあ。
僕も大好きなシリーズです。
けれど、どうにもこうにも心配性の僕は、手放しに喜べない。
もしかしたらこの企画、実は惨酷なのかもしれません。
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映画音楽にはその時代の景色が詰まっている(BttF評)
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は誰もが愛する名作ですが、実はこのエンタメ、用心しないと見逃してしまいそうな些細な些細な政治的メッセージが隠されています。それを大っぴらにすることなく、表面上では老若男女が理屈抜きで楽しめる。楽しめてしまう。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』という映画の一番残酷なところです。良薬口に苦し。裏を返せば、甘いものは身体に悪いかもしれないということです。
ロバート・ゼメキスは稀代のエンタメ映画作家ですが、その一方で彼の映画を丁寧に読むと、実は意外に極めて政治的な人なのでは?としか思えないような映画の作りをしているのです。エンタメはエンタメ。そこに水を差すつもりはありませんが、敢えてこう書きましょう。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』という映画は極めて「保守的」な映画であると。白人至上主義的で家父長制的な「強さ」の映画であると。
(C)2020「MOTHER」製作委員会
怪物(モンスター)か、聖母(マリア)か。予告編で用いられたこのコピーの問いに対する答えが、懇切丁寧に与えられることはついぞありませんでした。もしかしたらその両方かもしれません。
(C)2020「劇場」製作委員会
この記事には映画『劇場』の重要なネタバレが書かれています。
アタマからいきなりラストシーンに触れています。ご注意ください。
まだ映画を見ていない方はすぐにこのページを閉じてください。
本当に素晴らしい映画ですから、前情報なしに鑑賞していただければ幸いです。
ワニが死んだ。
喪に服す間もなく即グッズ展開、即ミュージックビデオ、即映画化。
げんなりした、という声も少なくありませんでした。たしかに、捉えようによってはまるで「いい話だと思ったら青汁のCMだった」あるいは「新聞のCMだった」というような肩透かしかもしれませんね。
さらに舞台袖からは国内最大手広告代理店がちらつき、「お前さんとこの会社が “死” を商品にするのかい」という指摘もあいまって、それはそれは盛大なまつりあげになってしまいました。
それはそうと。
筆者がいっとう気になったのは、このブームに際して「ぼくの・わたしの100日間」を紡ぐコラムが人々の手によって発表されていたことです。
この記事には映画『パラサイト 半地下の家族』についてあらすじ程度のネタバレが含まれています。ご注意ください。 映画『パラサイト 半地下の家族』の後半における激しい滝のような展開と、溺れるような苦しい結末はポン・ジュノ監督作の中でも屈指のものでした。 しかしふと、ある疑惑に直面します。あれはハッピーエンドなのでは? 「騒動のあと、父親は地下室で暮らすことになる」というあの結末は “ある意味での” ハッピーエンドなのではないかと筆者には思えてきたのです。というのも、ソン・ガンホが演じた父親にとってのみ幸福なラストであり、そしてこのこと自体…
(C)2020「ラストレター」製作委員会
人には二面性がある。当然ながら。
大学のベンチで、ジャージを着た陸上部の学生が煙草を吸っていると少しドキっとしたのを今でもよく覚えています。え、いいの? まあ法律を破っているわけではない(多分ね)から別に構わないのですが。
岩井俊二という映画監督も、映画監督のみならず脚本家、小説家、音楽家、という多彩なプロフィールを持つ人物です。肩書きが多すぎる。さながら日本映画界の須藤元気。日本の須藤元気とはまさに岩井俊二のこと。二面性どころか多面性と書く方が正確かもしれない。
映画監督という枠組みの中でも非常にふり幅の多い作家です。緩急の幅がえげつない。フットボールアワー後藤輝基の舌だってもうカラカラ。『スワロウテイル』、『リリイ・シュシュのすべて』、『リップヴァンウィンクルの花嫁』のように、最初は美味しかったのにもう焦げて取り返しのつかなくなった鍋みたいな憂鬱な味のする映画をつくったかと思えば、『花とアリス』みたいな澄んだ爽やかさで観客を圧倒したりもする。高低差ありすぎ。有栖川徹子。さすが、下からのみならず横からも花火を見ることを提案した作家だけあります。
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衝撃のラスト、なんて書くと月並みで呆れられやしないかと冷や冷やしますが、そんなクリシェを悠々と乗り越えてしまうほどこの映画の結末は衝撃的なのです。
実体のない声だけの存在であるAI(作品内ではOSと表現される)と生身の人間の恋愛は、数々の困難を乗り越えて一旦は成就します。それがなぜ・どのように恋愛関係が形成されていったのか。それについては別の記事を参照されたし。とかく、一度は恋が実ったのです。
が、しかし、さらなる展開で居心地の悪いラストを迎えます。AIのサマンサはセオドアと決別。一件落着ハッピーエンド……とは到底ほど遠いように見えて、しかしその直後の結末まで映画を見届けるとやはりセオドアはこれで幸せなようにも感じる。
え?なに?どういうこと?
考えれば考えるほど頭が割れそうになる。もうすっかり限界を迎えたルービックキューブを力ずくで捻っている時のような悲痛な軋みが左脳から聴こえる。わからないけれど、わからないなりに筆をとって頭を整理させようと思います。
『her』 の最後の「あれ」(としか表現できない正体不明のモヤモヤ)は結局どういうことだったのでしょうか。「言語」をキーワードにこの疑問の正体に迫ります。
mokuji