I’m back. Omatase. 

2020年、激動の BUMP OF CHICKEN への信頼を問い直す| 彼らの振る舞いと不倫報道へのステートメントを読んでわかること
|連載:わた藤 番外編

あなたにとって、2020年はどんな年だっただろうか。突然猛威を振るった新型コロナ感染症に東京オリンピックの延期、外出自粛の日々。思うところはいろいろあるけれど、わたしにとって外せない2020年の象徴は「BUMP OF CHICKEN」だった。

世間を、特に BUMP OF CHICKEN ファンを騒がせたニュースが2つある。

1つは、Vo.Gt. 藤原基央の結婚発表。バンドのレギュラーラジオである『PONTSUKA!!』 内で自身の口から公表し、インターネット上では祝福や驚き、ショックの声など、様々な反応が見られた。

2つめは、Ba. 直井由文の不倫スキャンダル。結婚を隠して女性と交際していたことが元交際相手の女性によって週刊誌にリークされ、こちらも大変な騒ぎとなった。メンバーはラジオと書面でコメントを寄せ、直井は活動を休止、当面は残りの3人でバンド活動をすることになった。

もちろん、多くの人にとっては、これらは毎日世に放たれる様々なニュースの1つに過ぎない。1週間もすれば世間話にもならない、いつものありふれたゴシップだ。

だけどわたしは、特に直井の不倫報道にものすごい衝撃を受け、それはこの記事を書いている現在に至るまで、ずっと尾を引いている。わたしが好きな BUMP OF CHICKEN というバンドが一体どういうバンドで、これから彼らの曲をどんな顔をして聴いていいのかが、さっぱりわからなくなってしまったのだ。

この連載の予告編にも書いたことだけれど、元からわたしは BUMP OF CHICKEN のやることなら何でも受け入れられるようなファンではなかったし、彼らの活動の仕方に疑念を持ったことも1度や2度ではない。

それでも、中学校に入って初めて彼らの曲を聴いてから今まで、わたしの人生のそばにはいつでも BUMP OF CHICKEN がいた。ふいに歌詞の意味が身に迫る度、ライブに行く度に、どうしても彼らの楽曲を抱きしめずにはいられなかった。

こういう矛盾を抱えていたからこそ、わたしは自分が心地いいと思える BUMP OF CHICKEN との距離感を見つけようとしてきたし、その結果として「楽曲への信頼がめちゃくちゃあるので楽曲以外のことはあまり気にしなくてよい」という折り合いをつけ、今では BUMP OF CHICKEN の曲と自分の人生を(勝手に)重ねる連載までさせてもらっている。

でも、このままでは続けられない。

なぜなら、わたしが今までつけてきた BUMP OF CHICKEN に対する折り合いが通用しなくなってしまったから。どういう気持ちで彼らの曲に触れていいのかが、わからなくなってしまったからだ。そんな状態で連載を続けてもきっと本当のことは書けないし、何より真摯でない。

だから、ちゃんと悩むことにした。9月に公開すると予告していた「66号線」の記事をいったん取り下げて、わたしが今まで見てこなかった楽曲の外の彼らについて、きちんと考えてみることにしたのだ。

というわけで今回は連載の番外編として、BUMP OF CHICKEN の楽曲への誠実さを50000%認めた上で、楽曲の外のことについても考えていこうと思う。

テーマは以下。

●「作品と作者は別」論が見過ごしてきたもの
・作品は誰のもの?
・面倒で大仰で、それでも不可欠な「商業」
●BUMP OF CHICKEN はどう振る舞ってきたのか
・①「幼馴染仲良しほっこりバンド」
・②「丸腰」の彼ら
●「仙人」になった BUMP OF CHICKEN
・「仲良し」と「丸腰」の裏側から見えるもの
・“二次創作” される BUMP OF CHICKEN
●仙人の「還俗(げんぞく)」
・「信頼」と「脅迫」
・「還俗」の副作用
●そこで、彼らのステートメントをどう読むか
・9月18日 直井と所属事務所のコメント
・9月25日 藤原・増川・升のコメント
・9月27日 レギュラーラジオ『PONTSUKA!!』でのコメント
●藤原基央がぐだぐだうじうじしていることは藤原基央はすでに曲にしていた(と思いたい)

ご覧の通りものすごく分量のある記事だ。しかも「どこから読んでもらっても大丈夫ですよ」という類のものでもない。申し訳ない気もしつつ、できるだけたくさんの情報をあたり、なるべくフェアでありたいと意識して書いたつもりだ。

そして、BUMP OF CHICKEN のファンの方はもちろん、BUMP OF CHICKEN に限らず、ある作品 / ある作者に肩入れしている人たちには決して他人事ではない記事になったとも感じている。

でもそういう大仰なことを目指したというよりは、やっぱりわたし個人がグジグジうだうだせずにはいられないという、そういう記事です。よかったら、しばらくお付き合いください。

藤原基央さんのお誕生日に寄せて書いた連載予告はこちら
1曲目:「ディアマン」ともう聴かなくなったバンド
2曲目:「宇宙飛行士への手紙」と流れ星のわたしたち
3曲目:「リボン」と無敵の友情
4曲目:「才悩人応援歌」と健やかな破滅
5曲目:「66号線」と別々の人間たち / 或いは父の愛

「作品と作者は別」論が見過ごしてきたもの

現在の社会において、不祥事を起こした俳優が出演するドラマが再放送されなくなったり、逮捕者が出た音楽グループの CD が発売中止になったり、そうでなくてもしばらく活動を休止する、というのはお決まりの流れになっている。

そんな時によく見られるのが、「作品と作者は別」論だ。

作者がどんな人間であっても、彼らが生み出した作品や参加した作品への貢献、その価値は変わらない。だから不祥事は不祥事として、作品とは別に捉える必要があるのではないか、というものである。

わたしが BUMP OF CHICKEN の今回の件で最初に混乱したのはこのポイントだった。「作品と作者は別」という論は筋が通っているように思えるし、そもそも BUMP OF CHICKEN は彼ら自身の姿ではなく、楽曲を受け取ってほしいと訴え続けてきたバンドだ。

冒頭でも述べたように、わたしはまさに彼らの “楽曲” を一番に信頼してきたつもりで、それならこの話はこれで終わってもいいはずだ。でも、じゃあ、わたしのこのモヤモヤは一体なんなんだ? ここしばらく BUMP OF CHICKEN の曲を遠ざけてしまっているわたしは、一体何を避けているんだろう? 

わたしはこの論だけでは今回の件について納得できなかった。そればかりか、この論を突き詰めて考えてみると、わたしたちや社会が息をするように運用している「建前」が見えてきたのだ。まずは、その建前を解体するところから始めよう。

作品は誰のもの?

わたしは、基本的には「作品と作者は別」論に賛成しているし、こういうものの見方はあったほうがいいと思っている。

※もう少し厳密には、特に性犯罪や違法薬物の事件において、作品が被害者や元中毒者の人たちへの苦痛を間接的に助長するという問題も確かにあり、個別かつ丁寧に、そして真摯に対応されるべきだと考えています。

社会的な、理屈の上でのニュアンスももちろんあるけれど、一番は作品と作者が同一のものならば、作品を他でもない「わたし」が受け取る意味がなくなってしまうからだ。極論ではあるけれど、作品が作者と同一なら作者が指定した読み方しか許されなくなってしまう。

例えば、この連載本編で前回取り上げた「才悩人応援歌」。わたしは自分の就職活動と重ね合わせて「現実の正しい厳しさとそれが導く健やかな破滅」の物語として受け取ったけれど、藤原基央のインタビューを読んでみると、あの曲は「バーッと作ったらできた」曲なのだという。

それで全然構わない。BUMP OF CHICKEN がどんなつもりであの曲を世に送り出したかに関係なく、わたしにはわたしの「才悩人応援歌」があるのだから。

作品と自分の間にあるもの、それだけがわたしにとっての作品の姿であり、だから作品はわたしのもの、受け取った個人のものなのだ。

ただここで注意しておかなければならないのは、作品の「商業的」側面と「文学的」側面をきちんと分けて考えたほうがいい、ということだ。

面倒で大仰で、それでも不可欠な「商業」

わたしがここまでに述べた「作品は受け取った個人のものである」という考え方は作品の「文学的」側面に着目している論なのだが、それは作品の一側面でしかない。

そもそも、(基本的には)商業なくして我々のもとに作品は届かない。作者が生み出した作品とそれを受け取るわたしたちの間の橋となるのが商業であり市場であり、だからこそ問題はややこしくなっているのだ。

商業的な意味では、作品は紛れもなく作者のものである。作者は作品に対して著作権を持っており、作品が生む利益で生計を立てている。わたしたちは彼らの作品の消費者として作品にお金を払っている客なのだ。

現実問題として、ビジネスとして作品を売ろうとするときには「作者の振る舞い」は作品に組み込まれがちだ。なぜなら、作者は作品を多く・長く売りたいから。それなら、社会的通念と照らし合わせて、大多数の客が嫌がるだろう振る舞いは避けたほうがいい。

これは消費者の気分というよりはシステムの問題で、作品が商業・社会・市場を通過して存在する限りは避けて通れないポイントだろう。

消費者個人に「作品さえ良ければなんでもいい」という想いがあったとしても、社会・市場の中でそれが通用しなければ意味がない。次の作品がみたければ、わたしたちにできるのはお金を払うこと、そして作者が極悪人でないことを祈ることだけだ(極悪人でも、せめてバレないようにやってくれ……!)。

ここまでを BUMP OF CHICKEN に当てはめてみると、彼らがいくら楽曲を「文学的に受け取ってほしい」と語り続けていたとしても、作品が「商業を通過して流通する」というシステム上にある限り、100%それを実現するのは不可能、ということになる。

報道以降、インターネット上や友人同士の会話で「曲だけを受け取ることを望まれているのに今回の騒動にショックを受けていることが後ろめたい」というような意見をよく耳にしたし、わたし自身もそういうジレンマに陥りかけた。でもそもそも、厳密に「曲だけを受け取る」ことなんてできないのだ。

つまり、「文学的」には作品は受け取った個人のものであり、作者と切り離して考えられるべきであるが、「商業的」には作品は作者のもので、作品と作者は決して別物ではないのである。

BUMP OF CHICKEN はどう振る舞ってきたのか

さて、ここまで「作品と作者は別」論の建前を解体して、必ずしも作品と作者は別ではなく、作品が社会や商業を通過して存在する限り、作品に作者の振る舞いがついてまわるのはシステムとして避けられないと述べてきた。

その上で、「どのような振る舞いを作品に付随させるのか」、つまり「売り方」は作者が自分で決められる。どういうアプローチで、どういう客に、どんな風に受け取ってもらいたいか。そしてそれについていくかどうかは、作品を受け取るわたしたちが決められるのである。

では、BUMP OF CHICKEN は一体どのような作者性を作品に付随させてきたのか。

様々な意見があるだろうが、ここでは大きく2つのポイントを挙げたいと思う。

①「幼馴染仲良しほっこりバンド」

BUMP OF CHICKEN の作者性を語る上で外せないのが、メンバー4人の関係性だろう。

BUMP OF CHICKEN はとても仲の良いバンドだ。

彼らは幼稚園時代からの幼馴染で、バンドを組んだのは中学生の頃。メンバーチェンジを経て現在の形に落ち着いたのは彼らが17歳の時だ。

彼らの関係性を象徴するエピソードがある。

BUMP OF CHICKEN として『ガラスのブルース』で全国大会優勝を果たした翌年、彼らがデモテープ制作やライブ活動に精を出していたタイミングで、レコード会社から藤原基央に引き抜きの話が舞い込んだ。しかしその条件は「藤原一人でよい、こちらが用意したメンバーでデビューしろ」というもの。藤原は「俺は BUMP OF CHICKEN でいたいです」と断り、今のメンバーで活動していく覚悟をした。

彼らは「4人でいること」をとても重要視しており、それは彼らの結成20周年に合わせてリリースされた「リボン」の歌詞からもわかる。

君の勇気を 僕が見れば 星だ
並べても同じでありたい

嵐の中をどこまでも行くんだ
赤い星並べてどこまでも行くんだ

リボン(2017)

この「星」のモチーフは、作詞を担当している藤原基央が他のメンバー3人を指して使われることが多い。他にも、2010年リリースの「三ツ星カルテット」では「恒星を3つ目印に」という歌詞が登場したり彼らのバンドロゴには4つの赤い星が並んでいたりと、BUMP OF CHICKEN にとっては非常に大きなアイコンになっている。

僕らを結ぶリボンは
解けないわけじゃない 結んできたんだ

リボン(2017)

連載の第3回でも書いたことだけど、「リボン」は彼らの20年間の集大成となるような曲で、互いの協力と努力によっていくつもの苦難を乗り越えてきたことが暗示されている。彼らは単なるビジネスパートナーではなく、互いに互いを信頼し合う絆を持っているのだ。

それは、レギュラーラジオ『PONTSUKA!!』や、Ba. 直井の Twitter や Instagram で伺い知ることができる。

レギュラーラジオ『PONTSUKA!!』はいわば BUMP OF CHICKEN の秘密基地で、メンバーの誕生日企画や過去の話から現在の話まで、まるで子供に帰ったようにゆるくワイワイしている様子を知ることができる。

特に直井の各 SNS が開設されてからは、クリスマスに(!)4人でディズニーランドへ行く様子や仕事の合間に皆でおどけてポーズをとる姿などが頻繁に更新され、普段は見られないのびのびとした彼らを見ることができる。

②「丸腰」の彼ら

BUMP OF CHICKEN は、驕らない。

キャリアが20年を越え、彼らの影響を受けたアーティストがシーンを創るような時代になっても、毎回のライブで「曲はあなたが聴いてくれて初めて完成する。本当にどうもありがとう」とリスナーへの感謝を忘れず謙虚でいる。

スタジアムを満員にするようになっても2000人規模のライブハウスでライブをするし、「お客さんが7万人いたら、1対1が7万通りある」(*1)というMCからもわかる通り、どれだけ大きな会場でもそこにいるたった一人のあなたに向けて歌っているんだ、という姿勢を崩さない。

そして BUMP OF CHICKEN は、自分たちの臆病さを臆面なくさらけ出す。

いつまでも「喋るのが下手だから曲を聴いてほしい」と言っているし、「弱者の反撃」というバンド名に違わず、20周年ライブでも自分たちのことを「へなちょこ4人組」と呼ぶ曲を演奏するし、「ライブ前は未だに緊張する」と恥ずかしげもなく打ち明ける。

申し分ない実績があってキャリアも重ねている彼らが、驕らず自分たちを「臆病者」や「弱者」と定義し続けるのは、実はなかなかできることではないと思う。そしてその根底にあるのは、「持たない強さ」みたいなものなんじゃないだろうか。

例えば、BUMP OF CHICKEN はファンクラブを持たない。

ファンクラブがないということは、10年来のファンもハマりたての人も平等にライブチケット争奪戦に参加しなければならないということ。そして、BUMP OF CHICKEN が「自分たちにはこれだけのお得意様(リスナー)がいるんだ」という安心感も、毎月約束された収入=安定も持たないということだ。

BUMP OF CHICKEN がファンクラブを持たない理由に関しては「ファンに序列をつけたくないから」という説が有名だが、それどころではない覚悟が、彼らにはあるように思う。

君がどんな人でもいい 感情と心臓があるなら
いつか力になれるように 万全を期して唄はそばに

イノセント (2010)

また、かつて藤原基央が音楽雑誌『B-PASS』で連載していたコラム内でも、以下のような発言がある。

( 「バンプを聞いている人、好きな人に悪い人はいないと思いませんか? 本当にジョーダン抜きでいい人しかいませんよね!」という葉書に対して)

ライブ来てくれてありがとう。そしてごめんね。悪い人がいないなんて思いません。いい人しかいないなんて思いたくもありません。
(中略)
だけどありがとう。あんたの善悪なんてどうでもいい。ライブに来てくれて、CD を聴いてくれてありがとう。僕に必要なのは「いい人」じゃなくて、「聴いてくれる人」です。ツアー終わりました。

出典:B-PASS 2006年5月号『fujiki』

彼らは安心や安定なんかよりも、いつでもシンプルに「曲を聴いてくれる人」を求めている。ファン歴とかファンクラブ会員とか、にわかとか古参とか、善人か悪人かすら関係ない。ある意味わたしたちは突き放されている。どれだけ熱心に曲を聴いたって「あなたはただの1リスナーなんですよ」と言われているようなものなのだから。だけどそれは、ひとたび曲を聴いてくれたなら自分たちの楽曲はどんな人にも必ず応える、という覚悟と矜持があるからだ。

「丸腰」というのは、弱そうに聞こえるけれど実はとても強いことだ。彼らは売れない時代から大御所に片足をつっこむようになった現在まで、一貫して楽曲と4人のメンバー以外の武器を何も持たずに世を渡ってきたのだ。

「仙人」になった BUMP OF CHICKEN

さて、ここまで BUMP OF CHICKEN が自身の作品をどのように売ってきたのかを語ってきたが、この項ではそれらがどのように作用してきたのかについて論じてゆく。

先に一言で結論を述べるとするならば、「BUMP OF CHICKEN は仙人になった」のである。

「仙人」というワードを使うのは、他でもない藤原基央自身が「将来仙人になりたい」(*2)と述べていたからなんだけど、これがいよいよ冗談ではなくなってきてしまったのだ。バンド仲が良くて、丸腰。その売り方があまりにもうまくいきすぎていたがために、彼らはほんとうに仙人になってしまったのだ。

彼らの仙人性は2つの要素から成っている。1つは、現実世界との繋がりが薄いこと、もう1つは、「彼らは高尚だ」という “二次創作” だ。

まずは「仲良し」と「丸腰」という売り方を丁寧になぞることで、彼らの浮世離れ感について考えていこう。

「仲良し」と「丸腰」の裏側から見えるもの

彼らが「幼馴染仲良しほっこりバンド」的側面を押し出してきたのは前述の通りだが、それは逆にいうと、それ以外の姿は表に出さないということでもある。

彼らには、生活感がない。プライベートを明らかにしない。匂わせないし、撮らせない。

何を食べて何を着て何を考え、自分たちがライフステージのどこにいるのか。そういう俗っぽい情報を、きっと彼らは意識的に排除してきている。

楽曲を離れた彼らの姿を知ることができるのは、ライブの MC やレギュラーラジオ『PINTSUKA!!』、時々更新されていた「チャマ」こと直井の Twitter や Instagram からのみ。ライブの MC では観客への感謝とライブが開催されている土地に対する思い出などが語られ、それ以外の媒体では、一貫してメンバー4人の仲の良さがアピールされてきた。

もちろん、プライベートを明らかにしないこと自体は何も悪いことではないし、若くして急激にブレイクしたことによって一部の狂信的なファンが事件を起こした(*3)ことなどを鑑みると、これはむしろ誠実な姿勢だとも言える。そういう理由がなくとも、自分に関する情報をどこまで開示するのかというのは当然その人自身で決められるべきだ。

だけどとにかく、意識的であれ無意識であれ、BUMP OF CHICKEN が自分たちの生活感やパーソナルな情報を排除して売ってきているのは確かなことだろう。

そして、彼らの「丸腰感」。

先ほど「彼らは一貫して楽曲と4人のメンバー以外の武器を何も持たずに世を渡ってきた」と述べたが、これは裏を返せばめちゃくちゃ閉じているということでもある。

「閉じる」ことには2つの効用がある。

ひとつは、彼らの世界観をより強固にすること。

メンバーとともに楽曲のあるべき姿のみを追い求めるスタンスはインタビューなどでもたびたび語られており(*4)、それは彼らの音楽への純粋さやストイックさを強調する。

そして、その姿勢は「孤独」、「生きること / 死ぬこと」、「葛藤」や「絶望 / 希望」などの内省的な歌詞のモチーフや楽曲の繊細さとも非常に親和性が高く、 BUMP OF CHICKEN の世界観をより強固なものにしてきたのだ。

もうひとつは、現実世界の俗っぽい事象への言及を免除されること。

例えば、「ベテランとして」、或いは「大御所に片足を突っ込んでいる身として」の自覚のなさはどうだろうか。

どうしても忘れられない出来事がある。

2018年3月に開催された『BUMP OF CHICKEN TOUR 2017-2018 PATHFINDER』の最終公演。彼らは、会場であるさいたまスーパーアリーナの物販限定で、ツアーの新木場 STUDIO COAST 公演2日目を収録した映像作品を販売したのだ。

わたしは途方にくれる思いだった。自分たちのバンドの規模がどれだけで、ライブに来たくても来れない人がどれだけいて、「CD ショップには並びません。欲しい人は埼玉公演の物販コーナーに足を運びましょう」というプレスリリースの文字列がどれだけ暴力的か、何よりこのリリースがどれだけ転売を助長するか、想像の余地は全くなかったのだろうかと、考えずにはいられなかった。

「買えないファンの私情じゃん」と思うだろうか。でも、転売問題の多くは「買えないファンの私情」を食い物にしているのだ。「転売商品を買うのは当然いけないことだ、でも BUMP OF CHICKEN が好きだ」という葛藤をファンに背負わせること、こういうやり方でファンの気持ちを試すことが正しいことだとは、どうしても思えなかった。

2018年頃といえば、チケットなどの高額転売が社会問題になり、2017年末には法制化に向けて法案の概要が承認されるなど、業界や社会全体がまさに重大な局面に立っていた時期だ。

そういう社会情勢や業界の努力を嘲笑うようなリリース。最終的に件の映像作品は全国流通することになったのだけれど、BUMP OF CHICKEN ほど規模が大きくてキャリアのあるバンドが一度でもこのような自覚なき物販を決断したことに、衝撃を受けたことをよく覚えている。

そもそも、ベテランとしてのあるべき姿を1リスナーのわたしが語るなんて余計なお世話であることは百も承知だ。

だけど、例えば同世代のバンドである ASIAN KUNG-FU GENERATION の Vo.Gt. 後藤正文が新しい音楽シーンを応援するために手弁当で新人発掘の賞を主宰していることなどを考えると、やはり BUMP OF CHICKEN の浮世離れ感は際立ってくる。

後藤のように賞を運営するまではいかなくとも、最低限のラインを守って情勢を汲んだ活動を(特に若手に)見せなければならない時期に、彼らは既にいるはずだ。「弱者の反撃」をバンド名に冠していつまでも謙虚なのは彼らの美徳だけれど、音楽業界での “BUMP OF CHICKEN” の立ち位置はとっくに「弱者」ではないのだ。

それでも、彼らは糾弾されない。別に問題になったりしない。それは彼らがもともと「閉じて」いるから。彼らからのステートメントは、最初から期待されていないからだ。

ここまでをまとめよう。BUMP OF CHICKEN には「仲良し」以上の生活感がない。そして、「丸腰」でいることによって彼らの世界を「閉じて」いる。つまり、BUMP OF CHICKEN は現実世界への繋がりが非常に薄いバンドなのである。

“二次創作” される BUMP OF CHICKEN

さて、ここでは彼らの仙人性を形作るもう1つの要素「二次創作」について考えてゆく。

特に初期の BUMP OF CHICKEN の楽曲には物語性の強いものが多く、FLASH 黎明期には数々の楽曲が引用されてアニメーション動画が二次創作されてきた歴史がある。だけど、ここでの本題はそのような「いわゆる」二次創作ではない。

わたしがここで指摘したいのは、楽曲ではなく彼ら自身の像がファンたちによって創作され、それがあたかも彼らの本当の姿だと信じられてきたようなきらいがあり、それは BUMP OF CHICKEN の在り方と密接に関わっているのではないかということだ。

そもそも、自分が応援している人や自分が好きな作品を生み出す人のことは必要以上に高尚と思ってしまいがちだ。自分に無いものを持ち、自分にできないことをしているのだから、ある程度は人間の性としてごく普通のことだとも思う。

とはいえ先にはっきり述べておきたいのだけれど、いくら好きだからといって、人間をコンテンツとして消費することはあってはならない。表に立って仕事をする人々にもそれぞれの人生があり、「こう生きているはずだ」という思い込みや「こう生きていてほしい」という願望を本人に押し付けることは、まさに暴力だ。

そういうファンの罪については後の項で詳しく述べるのだが、それを抜きにしても、BUMP OF CHICKEN には「この人たちは高尚だ」という “二次創作” が起こりやすい構造が備わっている。

「ミュージシャン」というのはただでさえ憧れられる職業だし、その中でも BUMP OF CHICKEN は日本の音楽シーンに歌主体のギターロックを思い出させた偉大なバンドである。彼らの影響を公言するアーティストだって、米津玄師をはじめとして枚挙に暇がない。

さらに、藤原基央が書く叙情的で内省的でときに耳の痛い素晴らしい歌詞は、わたしを含めて多くのリスナーの人生と強く繋がり合い、ときには背中を押してきた。自分たちを「弱者」と名付ける彼らの楽曲だからこそ、社会やマジョリティ側からどうしてもはみ出してしまう人たちに大きな影響力を発揮したのも確かだろう。

それだけでも十分彼らを崇めてしまう理由にはなるのだろうが、極めつけが前述の現実世界との繋がりの薄さだ。

ただでさえスゴい曲を書く人たちが、必要以上のことを喋らない / ときには必要と思われることも語らないことによって生活感を消し、楽曲以外のあらゆる俗めいた事柄から距離をとる。すると彼らからは、生活感どころか現実味がなくなってゆくのである。

この余白の大きさは、二次創作と親和性が高い。

BUMP OF CHICKEN の “二次創作” の材料となるのは、仲の良さ・クリーンさ・楽曲の良さ。他に何も言わないのだから失言もない。彼らが何も喋らなくてもファン側が「崇高な BUMP OF CHICKEN 像」を “二次創作” し、勝手にありがたがってくれる。このような “二次創作” は文字通り「ファンが勝手に」やっていることだけれど、それによって彼らも「得」や「楽」を享受してきたのだ。

このようにして、BUMP OF CHICKEN は「同じ世界を生きる成人男性たち」というより「別の世界を生きる高尚な人々」になっていった。ファンの心理とバンドの在り方の魔改造によって、BUMP OF CHICKEN は仙人になったのである。

仙人の「還俗(げんぞく)」

これまで散々「BUMP OF CHICKEN には生活感がない」、「BUMP OF CHICKEN は仙人になった」と書いてきたけれど、それが破られた出来事がある。今年8月の、藤原基央の結婚発表だ

今までのバンドのあり方からするとこれは異例中の異例で、驚きや戸惑いを覚えた人も多いだろうし、わたしもその中の一人だ。

最初は、結婚発表はファンへの信頼の証なのだと思った。ファンが「BUMP OF CHICKEN そのもの」ではなく、「楽曲」をきちんと受け取っていると感じたからこその、「自分が結婚しようが、それを公表しようが揺るがずについてきてくれる」という信頼。わたしが心から信頼する曲を生み出す藤原基央が、BUMP OF CHICKEN が、ついにわたしたちのことを信頼してくれたのだと思った。嬉しかった。

だけど、そのあとの Ba. 直井由文のスキャンダルや彼らのバンドとしての在り方を含めて考えると、それだけではないのかもしれないな、と感じるようになった。

彼らは、仙人からの還俗を図ったのではないか。そうやって人間に戻ろうとした時にできた綻びにぐっさり突き刺さったのが、直井のスキャンダルなのではないだろうか。

「信頼」と「脅迫」

彼らの売り方は、ある時点まではとてもうまくいっていたんだと思う。

例えば、BUMP OF CHICKEN はベストアルバムの発売を皮切りに2013年ごろからタイアップを増やし、紅白歌合戦やミュージックステーションなど、テレビの露出も増やしている。

それまでの彼らは硬派なロックバンドとしてライブ DVD のリリースはおろか、あらゆるテレビ露出を避けてきており、昔からのファンの中には急な方向転換に戸惑った人や怒りを感じた人もいるだろう。実際に「バンプはショービジネスに魂を売った」という評を目にしたこともある。

それでも、多くのファンはついてきた。

それはもちろん、彼らの楽曲に対する真摯な姿勢が大きな理由の1つだろう。

彼らが繰り返し語ってきた「曲がそれを求めているのならそれが必然なんだ」という姿勢や、ライブ MC で「知らない曲がある人は全部新曲だと思って聴いてください!」と語る矜持。それはつまり、ファン歴なんて関係ない、いつどこで出しても恥ずかしくない曲を自分たちは作ってきたという自負でもある。どれだけの疑問を抱こうと、ひとたびライブに行って彼らの曲や言葉に触れれば、心を打たれてしまうのだ。

そしてその真摯な姿勢は「高尚でまともで、安心して見ていることのできる彼ら」という “二次創作” によって、「あの BUMP OF CHICKEN の決断なら、何か大いなる理由があるのだろう」という形で補強されてきたのではないだろうか。

わたしだって「楽曲への強い信頼があるから楽曲以外のことは気にしない」という折り合いで彼らとの距離を測ってきたつもりでいたけれど、本当にわたしが彼らに虚像をあてがっていなかっただなんて、誰が断言できるだろう?

BUMP OF CHICKEN は、しんどくなってきたんじゃないだろうか。今まで書いてきたように「仙人でいること」や、それに基づいて信頼されることで物事がうまくいっていたのも確かだけれど、それでも、やっぱり彼らは人間だから。

ここで、ちょっと遠回りをさせてほしい。

先日ついに完結したバレーボール漫画『ハイキュー!!』(古舘春一)の32巻で、「脅迫」という単語に「しんらい(信頼)」というルビが振られている場面がある。ここでの厳密な意味合いや意義はまた別の機会に大いに語らせてもらいたいのだけれど、わたしはざっくり、「確かにな」と思った。

強調しておきたいのだけど、これは「信頼を盾に相手を良いように操る」とか、そういう話ではない。そういう打算的な見せかけの信頼ではなくて、むしろ相手を自分の100%で混じりっけなく信用し、それを相手に差し出すことの怖さの話である。

他人を信頼できることって、ものすごいことだ。自分自身のことでさえ信じることはとても難しいし、ましてや一度もちゃんと話したことのないような人なら尚更、毎度形を変える作品ならもっと尚更だ。それでも、わたしたちはちゃんと出会えた。「この人は本当のことを言っている」と思える人、「信用に足る」と思える作品に出会えることは、紛うことなき奇跡なんだと思う。

だけど、信頼はときどき怖い。相手が自分を真に信じているからこその無邪気さ、目が据わっているあの感じ。そうやって差し出される100%の信頼は、確かに脅迫めいている。

わたしたちは「信頼」の形をした「脅迫」を、いつしか BUMP OF CHICKEN に向けてはいなかったか?

いつしか “二次創作” が膨らんで「仙人であること」が当たり前になって、「高尚でまともで安心して見ていることのできる彼ら」という狭い箱に、彼らを押し込んではいなかっただろうか?

だから BUMP OF CHICKEN は、人間に戻ろうとして、還俗を図ったのではないか。 

もちろん BUMP OF CHICKEN 側に「自分たちは仙人である」なんて自覚はないだろうし、藤原基央がなぜ自身の結婚を公表したのかは彼にしかわからない。これを「アイドル路線への区切り」だと名付ける人もいるだろうし、それはそれで説得力があると思う。

それでも、こうしていろいろ材料を集めてゆくと「還俗への第一歩として藤原基央は自身の結婚を発表し、BUMP OF CHICKEN はただの人間に戻ろうとした」という説も、ある程度は筋が通っているんじゃないかと思うのだ。

「還俗」の副作用

ここまではわたしのファンとしての個人的な自戒も込めた「還俗」理由の考察だったのだが、どんな理由があったとしても「今まで明らかにしてこなかったメンバーの結婚発表」という大きなイベントを通じて、BUMP OF CHICKEN が現実世界との繋がりを濃くしたことは確かである。

では、その「還俗」によって何が起こったか?

1つはもちろん、「仙人」からの解放の第一歩だ。

これは想像でしかないけれど、結婚を発表したことで、クリーンなイメージに囚われておっかなびっくり過ごすよりものびのびと暮らせるようになった部分もあるのではないかと思う。

加えて、自らの口から発表することは「伝えたいことを伝えたい形でよりよく伝える」という点で、とてもいい方法だと思う。週刊誌報道などによって世間に結婚が知られるよりもずっと誠実だし、実際に藤原基央が自ら「詮索しないでください」と呼びかけたことは、興味本位の野次馬や落ち着かない思いをしたファンにとってすごく効果的だったはずだ。

もう1つは、自分たちの立場の自覚を急激に迫られたことである。

今まで貫いてきた秘密主義を破って彼らが人間に戻ろうとしていることは、とても喜ばしいことだと思う。でもその反面、バンドの体勢が中途半端に崩れてしまったのも事実だ。

Ba. 直井のスキャンダルを告発した記事(*5)では、元交際相手の女性がこう語っている。

「藤原さんが結婚した時に『バンプはこれまでスキャンダルもないし健全、安心できる』というネット上の書き込みが多かったのを見て、そんなことはないと。私のような女性はたくさんいる。これからもそういう子が出てしまったら大変なことになる。そう思って、今回お話しする決意をしました」

つまり、直井のスキャンダルが明るみになったのは、藤原が結婚発表をしたことと、ファンによる「バンプ像」が可視化されたことに端を発するのである。

BUMP OF CHICKEN は、急にその立場を自覚させられた。自分たちのバンドの規模がどれ程で、そのスキャンダルがどれだけ大きな話題になるのかが、目に見えて立ち現れてしまったのだ。

特に、直井のスキャンダル告発記事が当時の彼らの最新曲である『Gravity』の歌詞を引用して「こんなにも愛にあふれる歌詞が街中に流れる中、A子さんはいまだに直井から受けた仕打ちの “後遺症” に苦しんでいる」と締めくくられていたこと。怒りを感じた BUMP OF CHICKEN ファンも多いだろうが、これは彼らが甘んじて受け止めなければならないことだろう。

そりゃあわたしだって、こんな形で「上手いこと言った感」を出されてとても悔しい。悔しいけれど、普段バンドの名前で生計を立てているのにこういう時だけ「作詞は俺じゃないんで関係ないです」なんて、無理がありすぎる。

メンバーの行いがバンドの看板をどれだけ傷つけ、世間にどれだけの影響を与えるのか。スキャンダル記事の締めの文言では、それが端的に可視化されているのだ。

そして、今まで俗世から距離をとって「仙人」像に甘んじてきたことが強烈なギャップとして彼らに襲いかかった。

直井の不倫報道は「メンバーの私生活に関するスキャンダルそのもの」に対してのみならず、「 “あの” バンプが裏でこんな風だったなんて」、「じゃあ当時のライブでの素敵な言葉は何だったの?」という形の衝撃をも生んだのだ。

彼らはもう黙ってはいられなくなった。還俗というのは、今までのステートメントのなさがこれからはもう許されないということでもあるからだ。今まで「丸腰」でいることによって免除されていたレスポンシビリティが、突如として現れたのである。

※レスポンシビリティ:英語の responsibility は「責任」を表すが、語義として「応答可能性」を含んでいる。ここから「責任を果たすこと」は「きちんと応答すること」を要素として持っている、という考え方がある。

そこで、彼らのステートメントをどう読むか

BUMP OF CHICKEN は、直井のこの騒動に対して文書という形でレスポンスをすることで、その責任を果たさなければならなくなった。

では、実際に彼らはどのようなステートメントを発信したのか。ここからは、報道直後の9月に BUMP OF CHICKEN が発表したコメントをひとつずつ読み解いていこう。

9月18日 直井と所属事務所のコメント

事の発端は、9月18日の文春オンラインで直井のスキャンダルを告発する記事が公開されたこと。これを受けて直井と所属事務所は、一連の報道が概ね事実であること、元交際相手の女性や関係者、リスナーへの謝罪の言葉が綴られたコメントをすぐさま発表した。

とりわけ話題になったのは、直井のコメントの「今回の記事の内容で、BUMP OF CHICKENの音楽を愛して下さっているリスナーの皆様に嫌な思いをさせてしまった事、楽曲への信頼を失ってしまう事が、何よりも怖く、悔しいです。」(*6)の部分である。

この不倫騒動の発端である直井が「怖い、悔しい」と述べたことには、反発の声が多く見受けられた。「元凶のくせに何を被害者ぶっているんだ、本当に反省しているのか」というのが反発意見の大意なわけだけれど、わたしは直井のコメントには一定の理解を示しておきたい。言いたいことは何となくわかるような気がするし、好意的に読めば「自分がこういう結果を招くような人間であることが悔しい」と取ることもできるからだ。

それでも、バンドの歴史の中で類を見ない一大事でのこの迂闊さ・言葉の足りなさは、確かにいただけない。「やっぱり喋ると失言するんだな」と感じたことも事実だ。

そして、この段階では直井は音楽活動を続行する意向を示しており、コメントは両者とも「今まで以上に音楽活動に精一杯向き合うことで、傷ついてしまった信頼を回復していきたい」という常套句で締めくくられていた。

9月25日 藤原・増川・升のコメント

直井と所属事務所のコメントから1週間後の9月25日、BUMP OF CHICKEN の Vo.Gt. 藤原基央と Gt. 増川弘明、Dr. 升秀夫の連名で文書が発表された(*7)。それと同時に、活動を続ける意向だった直井の活動休止も発表された。

文書での藤原と増川、升によるコメントはところどころぎこちなさが残るもので、これはあくまで推測なのだけれど、全部とはいかなくとも大部分は事務所の誰かではなく、彼らが自分たちで書いたものなのだろう。

だからなのか大勢に向けたものだからか、少し疑問が残る点もあったのだが、そちらに関しては27日放送のレギュラーラジオ『PONTSUKA!!』でかなり詳しく意図が説明されていたので、後述する。

ともあれ、まず文書でわたしが注目したのは「結局のところ、我々は直井のプライベートのほとんどを把握できていなかった」と語られていた点。

これは BUMP OF CHICKEN の「幼馴染仲良しほっこりバンド」という振る舞いがある時点から綻んでいたことを意味する。個人的には、少なくとも直井にとって他のメンバーはビジネスパートナーだったのかな、という寂しさと衝撃を受けた。

そして疑問が残ったのは、今後の活動について、「BUMP OF CHICKEN としての一切の活動を止めるべきなのではないかというところにまで及びましたが、応援してくださっている方々に対して、我々が担っていくべき責任は、今我々に出来る活動の全てを全力で続けていく事なのではないか」という部分。

先ほど直井が同様の文言で自身のコメントを締めくくったことを「常套句」と書いたが、あのコメントから1週間かけて本人たちが綴った(だろう)文書であることや、一転して直井が活動を休止することを考えると、これはただの常套句ではないような気がしたのだ。

だとしたら、その意図は何なのだろう? 

その答えは、27日放送のレギュラーラジオ『PONTSUKA!!』で語られていた。

9月27日 レギュラーラジオ『PONTSUKA!!』でのコメント

BUMP OF CHICKEN のレギュラーラジオ『PONTSUKA!!』では、直接3人の口から話を聞くことができた。とはいえ増川と升は自己紹介と相槌のみで、「これは3人の総意です」という前置きのあとは、藤原基央が時折声を震わせながらも一言ずつ噛みしめるように発言していた。

ここでは、3人の文書でのコメントでの疑問である「音楽活動を続けることで責任を取る」の意図を中心に見てゆきたいのだが、その前にいくつか触れておきたい部分がある。

まずは、冒頭での以下の発言。

このニュースが出てから、世間の声、リスナーの声をずっと目の当たりにしてきました。怖かったけど、見なきゃいけないと思ったし、知りたかった。
(中略)
いろんな声があって、いろんな気持ちになりました。 

※以下この節における引用は筆者によるラジオの書き起こし。()内は筆者による編集

「当然じゃん」という感じもするのだけど、バンドの在り方について「世間の声を聞いて色々な気持ちになった」というのは、今まで楽曲以外の部分を「閉じて」きた BUMP OF CHICKEN にとっては非常に重要な発言だと思う。こうやって世論とのコミュニケーションをとっていることが言及されるのはおそらく初めてのことで、状況が状況だけにやむをえない部分はあるにせよ、やはり彼らの「還俗」の片鱗を感じることができる。

さらに、次の部分。

僕も事実をうやむやにして活動を続けることはできません。このままなあなあにしてステージに立って、俺歌えないし。ヒデちゃん(升)もヒロ(増川)もなあ、演奏できないし。
(中略)
そのくらいのことなので、最初はこのバンドはここで終わりにするしかないのかなって。これはもうチャマ(直井)一人の責任じゃないから。君たちは僕らが4人でやってきたっていう、僕らの歴史の物語をめちゃくちゃ大切にしてくれてるから。

彼らは、直井や所属事務所コメントの「今まで以上に音楽活動に精一杯向き合うことで、傷ついてしまった信頼を回復していきたい」という、いわば “お決まり” の結びに対して「うやむやにできない」と語る。

冷静に考えれば、報道があったその日に、何も決まっていない状況ながら発表したであろう「直井の活動続行」は、そこまで責められるものではないだろう。あのように締めるしかなかったのだろうな、と想像することも容易だ。

しかし、彼らはそれをそのままにせず、きちんと自分たちで考え直し、語った。この発言には、BUMP OF CHICKEN の音楽に対する誠実さがにじみ出ている。

そして、発言の後半部分。

彼らは「リスナーが4人の歴史をとても大切にしてきてくれたのだから、今回の直井のスキャンダルは4人の責任だ」と語る。これは、彼らが自らの作品に付随させてきた「幼馴染仲良しほっこりバンド」という振る舞いに対する責任をきちんと取るということだ。

ここでも、やはり「丸腰」に甘んじて「閉じて」いた BUMP OF CHICKEN はもういないのだな、ということを感じることができた。

さて、ようやく本題に入ろう。「音楽活動を続けることで責任を取る」とは、一体どういうことなのだろうか?

このラジオでわかった一番大きなことは、彼らがこの一連の騒動による問題の本質を、あくまで「楽曲自体の価値と、楽曲に対する BUMP OF CHICKEN の姿勢が否定されたこと」に見出しているということだ。

藤原は、20年以上ステージに立って肌で感じてきたこととして、以下のように語っている。

僕らのリスナーには心に何らかの傷を負っている人もいるんじゃないかなと思う。
(中略)
そういう人が、僕らの音楽を僕らが思っている以上にとても強く信じてくれて、大切にしてきてくれてたんだなと。そういう風に大切にしてもらってた音楽を生み出して演奏する立場の側から、人を傷つけるような人間が出てしまった。
(中略)
これは決して許されることではありません。

人の心を癒すような音楽を生み出している側から、人の心を傷つける人間を出してしまった。それはつまり、リスナーの信頼を裏切り、自分たちの楽曲の価値を自ら貶めてしまったということだ。

そしてこれは、BUMP OF CHICKEN が自分たちの「楽曲の求める・持つ力を100%出す」という透徹したスタンスを自ら否定してしまったことをも意味する。

自分たち側の行いのせいで、楽曲が求める・持つ力(=時には心に傷を負った人を癒すという力)を100%出すことができなくなってしまった。「持たない」強さをもう持てない、「万全を期して唄はそばに」ともう言えない。彼らはまだ持てるし言えるのかもしれないけれど、事実として、その純度は著しく下がってしまった。

コメントの最後の「これは決して許されることではない」というのは、リスナーに対してはもちろん、自分たちに対しても「許されざることが起こっている」と感じてのことではないだろうか。

彼らにとっての問題の本質は「ご迷惑」や「お騒がせ」ではなく、自分たちの音楽性を毀損する人間がバンドから出てしまったことなのだ。

そして、彼らは BUMP OF CHICKEN を解散することに対してこう語っている。

それ(バンド解散)はやっぱ問題の本質から逃げているとしか思えなかった。そんなケジメのとり方は、一番君たちに見せてはいけないものなんじゃないかと思いました。
朝まで何度も話し合って、結果、僕たちはバンドとして何が何でも音楽活動を続けなきゃいけないんじゃないかと思いました。

自分たちの音楽性が否定されてしまった以上、バンドはここで終わらせるしかないのかもしれない。それでも、今まで自分たちが届けてきた音楽やその音楽性が否定されたまま終わるというのは、今まで楽曲を受け取ってきた人々や、リスナーが楽曲から感じたものをも否定することになってしまう。そんなケジメのつけ方は、リスナーに一番見せてはならない。

「音楽性の否定」が問題の本質とするならば、その問題を解決するのは音楽しかない。「自分たちの音楽はこんなもんじゃない、今までの音楽は決して嘘じゃない、だから色褪せない」と絶えずリスナーに示し続けることでしか、音楽性を取り戻すことは不可能だ。

だから彼らは、BUMP OF CHICKEN を続ける覚悟を決めたのだ。

※なお、12月19日発売の雑誌『CUT』では藤原基央が単独インタビューに答えており、2020年の振り返りとして当時の彼の心境や現在の音楽活動についてが詳しく語られているので、気になる方は合わせてそちらも読んでみてください。

藤原基央がグダグダうじうじしていることは藤原基央がすでに曲にしていた(と思いたい)

ここまで長い時間をかけて、わたしたちが消費者として作品を受け取る構造や BUMP OF CHICKEN の楽曲の外側について考え、今回のスキャンダルに関する彼らのステートメントを読み解いてきた。

彼らの「楽曲だけを受け取ってほしい」という姿勢はとても強くてかっこいいけれど、商業のシステムの中では限界がある。彼らの振る舞いとファンの在り方によって BUMP OF CHICKEN は仙人になり、それをやめようとした綻びに、彼らの25年間を揺るがす手酷いスキャンダルが刺さった。

彼らはもう「閉じ」てはいられない。現実世界の商業のシステムの中で活動する1バンドとして責任を果たそうとし、一方であくまでも自分たちの「音楽」を問題に置いて、リスナーに真摯な姿勢を示し続けている。

その中で生まれたわたしの実感として大きかったのは「 “BUMP OF CHICKEN としての言葉” の大部分を担っているのはやっぱり藤原基央なのだな」ということ。

報道後初めてのレギュラーラジオ『PONTSUKA!!』での、約10分間にわたるコメントがほとんど藤原基央一人によって語られたのは前の項で述べた通りだし、何を隠そう、BUMP OF CHICKEN の大きな魅力の1つである歌詞のほぼすべてを書いているのが彼だ。

藤原基央は、言葉を求められる。これを書いているわたしだって、藤原基央に「歌詞」という言葉を求める一人だ(何しろこの記事の連載本編のタイトルは「わたしがグジグジうだうだしていることは大抵すでに藤原基央が曲にしている」なのだ)。

そして、今回の騒動を踏まえてわたしが思い出した彼の言葉は、2019年リリースのシングル『HAPPY』の歌詞だった。

「HAPPY」はわたしにとって、大人になることの清濁を併せ呑んでいる曲だ。禅問答のように行ったり来たりする摑みどころのない歌詞は、決して耳障りがいいだけの明るい言葉を差し出してはくれない。

優しい言葉の雨に濡れて 涙も混ぜて流せたらな
片付け中の頭の上に これほど容易く日は昇る

優しい言葉の雨に濡れて 傷は洗ったって傷のまま
感じることを諦めるのが これほど難しいことだとは

HAPPY(2010)

どんなに悩んだって傷ついたって、素知らぬ顔で地球は回る。優しい誰かに慰めてもらっても傷が治るわけじゃないことは、自分が一番よくわかっている。だって、まだ、こんなにも痛い。

直井の活動休止後に残された彼らもまた、とても痛かっただろうと思う。自分たちの音楽性を否定されることは、自分たちの歴史を否定されることだから。

誰かが傷ついている時ほど無力感を覚えることはない。わたしには、彼らの傷を癒すことはできない。

優しい言葉の雨は乾く 他人事のような虹がかかる

HAPPY(2010)

そもそもわたしがやっている連載もこの記事も、基本的にはめちゃくちゃ野暮な事だ。BUMP OF CHICKEN が実際にどう思っているのか、知らないし知りようもない。乱暴な言葉を使うなら「こじつけ・勝手な感傷」といったところだろうか。

今回のこの記事だって、2万字書いてようやく認められたのは「ああ、わたしは傷ついていたんだな」ということだけ。自分が聴いて血肉にしてきた音楽を他ならぬ作者の側に否定されたんだから、そりゃこんなに痛いわけだよな、という納得と、ちゃんと悩んだからこそ抱え込んでしまったままならなさ。結局どうすればいいのか明確な答えは出ていないし、わたしに彼らの傷を治せないように、彼らにだってわたしの傷は癒せない。

でも、やっぱり。

わたしと作品の間にあるものだけがわたしにとっての作品で、わたしにできるのは、いつでも作品と自分に真摯でいることだけだ。

だから、言わせてほしい。あなたたちの曲にはいろんな形で受け取らせるだけの強度がある。「これはわたしのための曲だ」と思わせる力がある。

想像することしかできない、思い込むことしかできない、わたしには救えない。

それでも、つぎはぎの自分を引きずる苦しさを、誰に祈ればいいのかわからない閉塞感を10年も前から知っていてなお「解散しない」という責任の取り方を選んだ彼らに、願わせてほしい。

終わらせる勇気があるなら 続きを選ぶ恐怖にも勝てる

続きを進む恐怖の途中 続きがくれる勇気にも出会う

HAPPY(2010)

仲が良かったのか、本当のところはもはやわからない。でも、間違いなく一緒に大人になった BUMP OF CHICKEN が生み出したこの曲の、藤原基央が書いたこの歌詞が、彼ら自身をどうか少しでも救ってくれますように。

 文・和島咲藍
 絵・くどうしゅうこ
編集・安尾日向

後注

(*1)BUMP OF CHICKEN STADIUM TOUR 2016 “BFLY” 最終日 MC

(*2)矢沢あい(2000).『天使なんかじゃない 完全版』第4巻解説 , 集英社

(*3)2009年に、ファンの女性が某掲示板に度々「藤原基央が自殺しなければ某幼稚園の園児を誘拐する」という脅迫を書き込み、実際に千葉県の幼稚園児を連れ去ろうとして逮捕された事件。

(*4)「曲が生まれ持った姿に対して僕たちは常に誠実だったんです。曲が、このフレーズがこの音で鳴ってて、その音を求めてるのに、そこに踏み込まないのはやっぱり、違うと。あるべき形で鳴らしてあげたい、その曲が求める姿で鳴らしてあげたい、表現してあげたい。そうなった姿を見たい。」 https://www.barks.jp/news/?id=1000091707

(*5)文集オンライン https://bunshun.jp/articles/-/40286

(*6)直井コメント https://www.bumpofchicken.com/news/detail?id=3299

(*7)3人コメント https://www.bumpofchicken.com/news/detail?id=3301

「わた藤」トラックリスト

1曲目:「ディアマン」ともう聴かなくなったバンド

2曲目:「宇宙飛行士への手紙」と流れ星のわたしたち」

3曲目:「リボン」と無敵の友情

4曲目:「才悩人応援歌」と健やかな破滅

5曲目:「66号線」と別々の人間たち / 或いは父の愛

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和島 咲藍

1997年土曜日生まれ。結果オーライの申し子。わたしは気さくです。

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