Te wo Arai mashou.

カテゴリー: レビュー

「マジンガーの格納庫、作っちゃおう!」

小木博明が揚々と発するこのフレーズが記憶に残っているラジオリスナーは多いかもしれない。ここ数ヶ月、盛んに深夜ラジオのコマーシャル枠で宣伝されている(というかラジオ以外で宣伝されていたのを目にしたことがない)『前田建設ファンタジー営業部』。見てきました。

そして、これから「労働ポルノ」の話をします。

(C)2020「ラストレター」製作委員会

人には二面性がある。当然ながら。

大学のベンチで、ジャージを着た陸上部の学生が煙草を吸っていると少しドキっとしたのを今でもよく覚えています。え、いいの? まあ法律を破っているわけではない(多分ね)から別に構わないのですが。

岩井俊二という映画監督も、映画監督のみならず脚本家、小説家、音楽家、という多彩なプロフィールを持つ人物です。肩書きが多すぎる。さながら日本映画界の須藤元気。日本の須藤元気とはまさに岩井俊二のこと。二面性どころか多面性と書く方が正確かもしれない。

映画監督という枠組みの中でも非常にふり幅の多い作家です。緩急の幅がえげつない。フットボールアワー後藤輝基の舌だってもうカラカラ。『スワロウテイル』、『リリイ・シュシュのすべて』、『リップヴァンウィンクルの花嫁』のように、最初は美味しかったのにもう焦げて取り返しのつかなくなった鍋みたいな憂鬱な味のする映画をつくったかと思えば、『花とアリス』みたいな澄んだ爽やかさで観客を圧倒したりもする。高低差ありすぎ。有栖川徹子。さすが、下からのみならず横からも花火を見ることを提案した作家だけあります。

服が多い。何しろ服が多い。クローゼットを突っ張り棒で拡張してもダメ。加速度的に服が増えていく状況の中で、ハライチの岩井は自身と愛猫モネの棲家であるメゾネット(1階と2階があるおしゃれな庭付きの家。1階に居ることもできるし2階に居ることもできる)の壁面にワイヤーを張り、服を吊るすことを思いついた。

キュウソネコカミは高らかに歌ってくれた。

ヤンキーこわい
ヤーンキーこーわいー

「DQNなりたい、40代で死にたい」

ヤンキー=DQNという図式はいかがなものかと思うけど、フェスでみんなで大きな声で、「ヤーンキーこーわいー」と叫び歌うのはさぞ気持ちがスッとするだろう。なぜって、僕はヤンキーじゃないから。ヤンキーにはなり得なかったから。

好きなものを語ることが恐ろしい。好きな映画は? 好きな音楽は? 好きな女性のタイプは? そんな質問に答えようとするたびに喉の奥に冷たくてどろどろしたものが溜まってうまくことばが接げなくなるのだけれど、唯一「好きな作家は?」という質問にだけはすんなり答えることができる。川上弘美がたいそう好きである。平易と思われる文章の中にユーモアと晦渋なメタファーが埋め込まれ、道を歩いていたらいつの間にか異世界に飛ばされたり五百年くらい時が経っていたりするような心地がするから、好きである。

ところが、最近のぼくは川上弘美にまつわる二つの問題に悩まされている。一つは、川上弘美という作家が世間からは誤解されているような気がすること。もう一つは、川上弘美がすっかりマザーコンピューターになってしまったことである。

(C)2019 映画「タロウのバカ」製作委員会

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『セトウツミ』や「まほろシリーズ」、『ぼっちゃん』などを監督してきた大森立嗣(おおもり・たつし)による2019年の映画『タロウのバカ』をレビューします。「社会の外側を見ること」に伴う息苦しさ・閉塞感は、映画館という空間だからこそ成り立っていたのではないか、という論考です。

それではどうぞお召し上がりください。

慮外放心。呆然。テアトル梅田の地下劇場から地上へ登るときの筆者のその心持ちは、このように表現するほかありません。

戸籍もなく、就学経験もなく、そぞろに毎日を過ごす少年・タロウ。エージ、スギオという高校生の仲間とともに、3人で奔放で破滅的な時間に身を投じて消耗する日々。あることをきっかけに一丁の拳銃を手にしたことから、タロウたちは邪悪でからりとした刺激を加速させることとなる――。これが『タロウのバカ』の簡単なあらすじです。しかしこれはさっぱりと爽やかな青春群像劇でも、うなるほどの痛快なケイパーアクション劇でもない。真夏の炎天下に、手負いの蟻がもがく様をじいっと眺めつづけるような忍耐を要する、静的な苦しみの伴う映画なのです。

(C)2018 A24 DISTRIBUTION, LLC

それは単なる杞憂でした。SNS時代の青春映画、と配給に題されたこの映画にいささかながら不信感を覚えていた自分を強く戒めながら僕は映画館をあとにする。

「いま」はいずれ「むかし」に成り代わることは必至。SNSを題材にすればたしかに身近なものを克明に描くことができるかもしれないが、その反作用として足の速い映画になってしまう。そう思われてしまうのも無理はないでしょう。いいえ、でも大丈夫。『エイス・グレード』は思春期の僕たちを苛んできた自意識、という強靭な普遍性に支えられているのです。

選ばなかった方角を/懐かしみ続けている/夜が多重露光のように/交わ

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可能性はいつだって無限にひらかれていたのに、ぼくたちはいつになっても、あの時ああしていればなどとくよくよ考えている。もしもあのとき、違う学校に入っていたら? あのとき、思いを人に伝えていたら? あのとき、右の角を曲がっていたら? 

出会わなかった誰かのこと、なにかのことをたぐり寄せようとする。あるいは、そう在ったかもしれない自分のことも。染み付いた自堕落と手癖でコンビニのカップラーメンを手に取る時、その食物が自分の血肉になることを考える。もしもいまからぼくが摂取し、ゆくゆくはぼくそのものになる物質が、今後の人生を変えたらどうしよう? この不健康の塊みたいなカップラーメンを食べた瞬間に肝臓が悪くなって倒れて働けなくなってお金がなくなって好きな人に離れられて家が焼けて親類も全員死んでしまいには闇金に引っかかったらどうしよう!?

(C)2015 Twentieth Century Fox Film Corporation. All Rights Reserved.

お、配信されてるじゃん。ちょっと見てみよう。えっと……そうだな……いつか時間のあるときに。そんな風に言い訳して一応マイリストに入れたけれどそれっきりという人は僕だけではないはず。

Netflixで『レヴェナント:蘇りし者』が配信されています。2時間36分の大作。それも暗くどんよりとした言ってしまえば辛気臭い映画です。気軽にサクッと楽しめるドラマだって沢山そろったNetflixでは、ついつい後回しにしてしまうかも。

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